桜の木がある丘に、夏美は立っていた。

 この丘から見下ろす風景も生まれてから四十年という年月の中ですっかり様変わりしてしまった。都市開発の波は、たとえ辺境の田舎であろうとも容赦なく飲み込んで行った。昔は田畑で溢れていたこの村も今では住宅街が立ち並び、商業施設やインフラ整備などで道路などが作られ、今となって田舎情緒残るかつての思い出の街からは程遠い姿になってしまった。


 しかし、この山の丘に立つ、青々と葉付いたこの桜の木だけはいつまで経っても変わることはない。幼い頃、祖母に連れられ春の眩しくなるほどに桜色に染まった木を毎年眺めるのは楽しみの一つだった。しかし、そんな祖母も六年前にこの世を去った。最後の最後まで威厳のある立ち居振る舞いで、どこかしょうがないなといった優しい笑みが特徴的な大好きな人だった。


「……私、どうしたらいいかな。おばあちゃん……」


 夏美は街の役場で働く、観光案内所の職員だ。彼女の役割は、この村をより多くの人に認知してもらい、村の良いところをPRすることである。しかし、ただの田舎というだけでは人には来てはもらえない。そこで役場に夏美が提案したのが、この桜の木だった。


 この村を守るようにして育ってきたこの桜の木、これを観光名所の一つに押し出せば間違いなくこの村の目玉の一つになり得るだろう。


 しかし、役場の人間は首を横に振るだけだった。


 その理由が、桜の木のある立地である。この村でたびたび話題に上がるのが、台風などにおける地滑りの被害だ。すでに整備は整えて、昔に比べれば幾分か被害は軽いものの、それでも被害がないわけではない。そして、その桜の木のある場所というのが、特に地滑りの起きやすい危険な場所であったのである。


 そんな場所を観光名所にするなど、とんでもない話だった。


 現在、夏美が手に握りしめているもの。それは、この桜の木を伐採し山の一部の地形を変え、地滑りを起こさないようにするというものを記したプロジェクトの資料だ。


「諦めるしか、ないよね……」


 街の役場の人間として、村の人間を守るように動くのは当然の義務だ。そこに私情は挟んではならない。時には冷徹に対応するのも仕事のうちだ。


 だが、どうしても諦めきれない。


 大きなコブをいくつも作り、太い樹木から幾重にも枝を張り巡らせ、見下ろす村を守るように花をいくつもつけ、色を変え、そして何より。大切な祖母の思い出の木を孫の自分が切るような真似だけはしたくなった。


 祖母から、この木と過ごした思い出は幼い頃からよく聴いていた。


 昔は、幼馴染と一緒に、この木で背を比べあったのだという。その幼馴染も、戦争にいき、行方がわからなくなってからも。祖母はその思い出を大切にして、この桜の木を訪れていたのだと、きっとその人が自分たちを守ってくれると信じて。


「……降りよう。この仕事」


 役場に自分の味方はいない。だが、自分自身、この木を切るような真似だけはしたくない。初めて、自分の仕事から逃げようと決意をし、丘を下り山中に入ってしばらくのことだった。


「……あ」


 帰り道、ふと一人の男性と鉢合う。外国人なのだろうか、フィリピン系のスッとした顔立ちをした夏美と歳の変わらない男性がこちらに向けて会釈をして通り過ぎていく。こんな田舎町に日本人以外の人が訪れるのはとても珍しく思った。


「えっと……、あの。少しきいてもいいです?」


「え、はい。どうかされましたか?」


 そのまま通り過ぎようとした瞬間に、後ろから男性に声をかけられる。少しだけイントネーションに違和感はあるものの、聞き取る分には申し分ないほどに流暢な日本語だと夏美は思った。


「あの……。ここに、さくらの木があるってききました。このさきであってる?」


「……はい。そうです。よければ案内しますよ?」


「よかったです、ぜひ。ありがとう」


 これも何かの縁だと思い、男性を案内することに夏美は決めた。きっと、おそらく、ここを訪れるのが最後になることだろうと思って。


「日本には、どちらからいらしたんですか?」


「私、ソロモンというところから来ました。こう見えて、日系なんです」


「なるほど……だから日本語がお上手なんですね」


「ありがとうございます。そう言ってくれるとうれしい」


 少しはにかんだような笑顔を見せる彼の表情は、どこか祖母の表情を思い出させるような気がした。しかし、そうなるとわからないのが、なぜ彼がこの地を訪れたのかである。日本には東京もあれば、京都、奈良などいくらでも観光名所で訪れるべき人気スポットがあるはずだ。


 それなのになぜ。


「ここ来る前に、広島に行きました。原爆ドームを見て、とても悲しくなった」


「そうですか……。私も、祖母から色々と話は聞いてます。戦争は……、一言で表せませんが、本当によくないことですね」


「私のグランパも、戦争で戦った人でした。日本人でした、八年前に亡くなりましたけど……」


「そう……だったんですね。それはお気の毒に……」


 少しだけ悲しい表情を浮かべた彼は夏美の少しだけ暗くなった表情を見て『大丈夫?』と声をかけてくれた。それに対し、夏美も少しだけ作り笑いをして『大丈夫ですよ』と声をかけて二人は先を進む。


 山道を抜け、広がった景色には、この街を見下ろす少し小高い丘の上に立派な桜の木がある。先ほどと一才変わっていない、美しい景色が少し沈みかけたオレンジ色の太陽に照らされている。


「すごい……」


「ここが街全体を見下ろすことのできる唯一の場所です。都市開発でだいぶ姿形は変わってしまいましたが……、この桜の木だけはずっと変わっていないはずです」


 夏美の説明を聞きながら、彼は懐から取り出したスマートフォンで夢中になって景色を撮っている。そんな彼の姿を見ながら、仕事外のことではあったものの、彼の道案内をしてよかったと心の底から思えた。


「さくらの花が見れないのは残念ですけど、それでも。ここから見た景色は本当に素晴らしいです。グランパの言うとおりでした」


「……え? グランパ、ってお祖父様が、ですか?」


「はい。私のグランパ、ここの出身です。遺言で、グランパ言ってました。お墓に、この桜の景色の写真を一緒に供えてくれって。だから私、たくさんお金貯めて日本来ました」


 意外な事実に、夏美は言葉が出なかった。しばらく呆然として、動けなかった夏美だったが、そんな彼女のことを御構い無しにスマートフォンで写真を撮りまくっていた。


 そして、そんな彼の手が桜を前にして止まる。そして、その一部を愛おしげに撫でる、そんな彼の目には涙が少しだけ浮かんでいるように夏美は見えた。


「There it was, Grandpa...」 


 しばらく桜の木と向き合う彼、夏美はその姿をずっと眺めていた。思い返されるのは、祖母の夏子との会話の記憶だった。


『この桜の木はね。この村の守り神なんだよ。どうしようもない、跳ねっ返りな神様だったけど。私たちのことをしっかりと守ってくれた立派な神様がいるんだよ』


『おばあちゃん、会った事あるの?』


『えぇ、とっても。大切な人だったわ』


 そう言って、祖母はしょうがないなといった笑顔を自分に向けてくれたのだ。


「そういえば、あなたの名前。聞いてなかった」


「あ、私。夏美って言います。おばあちゃん譲りの名前で、ちょっと古臭いんですけど……」


「ナツミさんっていうんですね。素敵な名前です、もし、よかったら。僕の写真に一緒に入ってくれませんか?」


「え? そんな。私、お祖父様と何の関係もないのに……」


「日本では、こういうのを『縁』っていうんですよね。ここであったのも、何かの縁です。どうか、お願いします」


 彼の言葉に押され、夏美は少しだけ申し訳なく思いながら低い姿勢のまま彼のスマートフォンの写真のフレームの中に入り込む。


「ナツミさん、笑って」


 シャッターが落ちる。


 写真の中に、自分の姿がある。

 

 だが、そんな自分の肩を誰かが抱き寄せてくれているような気がした。


 その温かな手の感触に、思わず涙がこぼれそうになる。


 諦めようと思っていた心を抱きしめてくれたかのような、


 過去の思い出を抱きしめながら、自分はどこまで行けるのだろう。


 きっと、この気持ちは間違いではない。


 みんな、誰かを守りながら生きてる。それはきっと私も。


 だから、


 だから、


 だから、


 迷わず、私は進まなきゃ。


「……いい写真、撮れました」


「……私。ここで、諦めようとしていたんです。ここの桜の木を、私たちを守ってくれたこの木を。でも、あなたに会えて、私、決心しました。絶対に、この木を守って見せます。私のおばあちゃんの想いも、あなたのお祖父さんの想いも、私が受け継いで守って見せます」


 今の私は笑顔でいれているのだろうか、それとも涙を流しているのか。だが、そんな私のことを彼は優しく微笑みながら見ていた。


「……また。今度は、花が咲いたときに、来たいです。その時を、楽しみにしてます」


「……そういえば、お名前。聞いてなかったですね」


「あはは……、僕もグランパ譲りで。あまりかっこいい名前じゃないんですけど」


 僕の名前。ハルって、言います。

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春にさよなら 西木 草成 @nisikisousei

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