春にさよなら
西木 草成
桜の木がある丘に、春雄は立っていた。
「このご時世で随分とまぁ、賑やかやな。ここまでどんちゃん騒ぎが聞こえてくるようやわ」
すこぶる透き通った青い快晴に丘に立つ一本の満開の桜の色が透けて見えるようだった。
丘に立っているのは春雄一人。実家からくすねた焼酎の酒瓶とお猪口を片手に、見慣れた田舎風景を肴に一杯やっているところだった。お猪口に酒をいれ一口含むと鼻を抜けるような甘い米の香りと頭を貫くようなアルコールの味が口一杯に広がる。
「ったく。相変わらず親父の家には強い酒しかないんか」
顔を顰め、口では文句を垂れながら、それでも勢いづいて酒を煽る春雄。
丘の下では、現在結婚式が行われている真っ最中だった。その舞台になっている場所は、現在春雄が見下ろしている家、まさに春雄の家で結婚式が行われている。
春雄は立ち居振る舞いというものがあまりよくなかった。厳格な親父にはいつも殴られては青あざを作り、その跳ねっ返りで村の畑から大根やら白菜やらを盗んでは村の連中からも鼻摘みものとして扱われてきた。
だが、それでも呆れた顔で怪我の世話をしてきたお節介がいた。
それが、夏子だ。
向かいから二軒隣の一人娘だった夏子は男勝りな性格だった。とにかく鼻つまみ者の春雄を学童の時代からしつこくつけ回しては、何かしでかすたびに彼女は春雄に一つゲンコツを入れて方々に頭を下げに行かしたものだった。
優秀な長男の反面、勉強もろくにせずに、運動をすることだけが得意だった春雄にとって夏子の存在はひどく鬱陶しく、何度突き放そうとしても諦めずに春雄に関わろうとする彼女の頑固な性格に辟易としていた。
だが、彼女が家族や村の連中から見放された自分に残った唯一の砦だと感じずにはいられなかった。
同時に、春雄の中にはなんとも言い難い感情が彼女に向けて芽生えつつあった。それが恋心なのか、それとも信頼なのか今になってはわからない。
夏子のそばにいる時だけは捻くれている自分が、少しは素直になれた。そんな気がした。
「われはーかんぐん、わがてきはーっ。てんーち、いれざるちょうていぞーっ」
酔いが回ってきた春雄は酒瓶を振りながら歌い始め一人笑いながら天を仰ぎ始める。見上げれば青い空をなぞるように数機の飛行機が隊列を組んで空を走っている。
「おらーっ! めでたい席やぞっ、ちと静かに飛ばんかいっ!」
夏子がなぜ、そんなにも自分に喰ってかかるのか。
その理由がわかったのは十三になってのことだった。相も変わらず、畑を物色し終えて家へと戻る途中のことだった。家の前にいたのは夏子、そして長男の和夫、二人の楽しそうに話している姿。
体の全身から汗が吹き出るようだった。
頭の悪い自分でもわかる。
彼女の、あの表情、あの仕草。
時折見せる恥ずかしそうな、頬を赤らめて瞳を潤ませている思わせぶりな姿。
そうだ。
夏子は、和夫が好きだったのだ。
胸が張り裂けそうだった、頭が割れるほど痛くなった。気づけばその場所から逃げ出して、行く宛もないのに夕暮れの赤い空の下をひたすらに走っていた。そして、この桜の木の下で思いっきり涙を流した。
あの呆れて、それでも仕方がないなと優しい表情を浮かべるのは自分にだけだと思った。
「……ほんと。お前だけは変わらんなぁ」
あの時、目一杯春雄の涙を吸った桜の木は、あの時から少しも変わってはいない。この村を一望できる丘の見上げるほどに大きな桜の木は、親父に家を追い出されるたびにやってくる、春雄にとっては秘密の場所だった。
桜の木には、小さな傷がいくつかついている。その傷の横には『ハルオ』『ナツコ』の文字が刻まれていた。すでに傷は薄くなって確認することは難しい、だがそこで確かに背を比べあったという記憶だけは春雄の頭の中にはくっきりと残っている。
「図体ばかりデカくなって、結局。中身が変わらんのは俺も、か」
思い立った春雄は少しだけ千鳥足になりながら、桜の木の前に立ち一礼をすると少しだけしゃがみ込み、薄くなった『ハルオ』の一番高いところに刻まれた傷をさらに深くナイフで切り付ける。
本当に、変わってないのは。自分だけだと。
遠くで、甲高い鐘の音が耳に入る。桜に背をむけ、再び丘の下を見下ろすと春雄の家から長い行列が出てくるのが遠目に確認できた。
「ようやっと出てきたか、夏子」
言わずもがな、あの結婚行列は和夫と夏子の結婚式だ。
春雄が、この村を離れたのは和夫と夏子のことがあってしばらくのことだった。親父から言われたのは『勘当』の一言、身の振り方を知らずに図体ばかりがデカくなった子供は家には置けない、至極真っ当な言葉には違いない。しかし、同時に好都合だと思った。
これで、夏子のそばを離れることができる。
このどうしようもない感情にケリをつけることができる。
親から渡された路銀と片手に背負えるほどの荷物を抱えて家を出ていった。
しかし、それでも最後に一度はと思い、丘の上から見える村の風景と桜を見納めにと村を出る前に再びここに立ち寄った。
それが不味かった。
『ハルちゃん……』
『ナツコ……』
そこにいたのは、おそらく長男を通じて村を出ることを知ったのであろう夏子が立っていた。すぐさま逃げ出そうと思った。しかし、向いた足は、彼女の呼び止める声で立ち止まった。
『ハルちゃん……、村。出ちゃうんでしょっ! ……最後に、来るならここだと思って……』
『お前には関係ない話やっ! せ、せいぜい兄貴と、よろしくやってりゃええんやっ』
『なんでお兄さんが出てくるのよっ! この馬鹿っ!』
『ば……っ!』
売り言葉に買い言葉、普段は汚い言葉を使わない夏子の言葉に思わず振り返った春雄。だが、その目に映ったのは夜桜を背景に満月に照らされた夏子が両目に涙を溜めてポロポロと泣いている姿だった。
突然のことで頭が回らなかった。
なんで、彼女が泣いているのかが理解できなかった。
『こんな世の中。離れ離れになったらもう二度と会うことができないかもしれないじゃないっ! それがなんでわからないのよ馬鹿っ! 私たち、幼馴染じゃないっ!』
『っ……、なら。お前はっ、俺と一緒に。来るかっ!?』
『え……』
『こ、こんな俺やけど……っ! 楽な暮らしはさせてやれんけど……っ。絶対お前を食わしてやるっ! こ、こんな世の中が終わるまで。お前のことを守ってやるっ!』
一世一代の告白だ。おそらく、もう二度と口にしないであろう、その言葉。差し出した手に、彼女の手の温もりが灯るまで必死に顔を強張らせて耐えに耐えた。
しかし、その手に彼女の手が重なることはなかった。
『……ごめんなさい。私は……、和夫さんのことが好き』
『……』
わかりきっていたことだった。こんな自分を、好きになってくれるはずがなかった。やはり、自分よりも優秀な兄、自分よりも家督を引き継ぐであろう兄にはずっと勝てない。
好きな人にすら振り向いてもらえない。
だが、膝を落とし地面を向いている春雄の両頬を叩き表を上げさせたのは、目を赤く腫らして、それでも幼いときと変わらない。まっすぐな目で春雄を見ている夏子の顔だった。
『私はっ! 和夫さんのことが好き、でも。ハルちゃんのことを嫌いになったわけじゃないっ! 私は、たとえ、ハルちゃんが周りからなんて言われようとも、どんなに悪口を言われても。私は、ハルちゃんのことを嫌いになんてならないっ! なってやるものですかっ!』
『っ……』
『あの時……、野犬から私を庇ってくれたときと同じように……。私も。たとえ、みんなから嫌われて、この世界にハルちゃんの居場所がなくなったとしても。私が、ハルちゃんの帰る場所になってあげるっ!』
だから、絶対に帰ってきて。
それが、彼女と交わした最後の約束だった。その後、春雄は東京へと渡り職もなく、金もないところでたどり着いたのは軍の学校だった。軍の寮に入れば、食い扶持だけは確保できる。
そして4年後、時は1941年12月8日。日本海軍の機動部隊が、ハワイのオアフ島真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊の基地に奇襲攻撃を仕掛ける。攻撃時に、日本側は交渉打ち切りの最後通告をアメリカ側に手交してもおらず、そのため日本のだまし討ちとされた。アメリカ議会は同日1票を除き全会一致で対日宣戦布告を可決した。同時に、これが太平洋戦争の幕開けの狼煙になった。
そして、1942年、4月。ソロモン諸島のガダルカナル侵攻へと向けた訓練を行っていた春雄のところに一本の電報が届いた。それは、兄和夫からのものであった。
『ミッカゴナツコトシュウギヲアゲル イエヘカエレ』
その電報を見た瞬間に、軍を抜け出して田舎に帰ることは決まっていた。厳しい軍の寮から抜け出すのは幼い頃からよく働いた悪知恵の出番だった。しかし、すでに勘当されている自分が家に帰るわけにはいかない。そこで、家の人間にバレないように不法侵入をし、そのついでに酒をくすねて今に至るわけである。
「……おめでとう。夏子」
最後に残った一升瓶の中身の酒を空に向けて放つ。キラキラと太陽の光に反射して放物線を描いたそれは、丘の下の二人を祝福するようにより一層煌めいては消えていった。
帰る場所はある。
自分は、帰らなくてはならない場所がある。
鼻つまみ者で、どうしようもなかった自分に帰る場所がある。それが、一体どれほど幸せなのか、きっと誰にもわかるまい。
「さて、上官にはぶん殴られるやろなぁ。死ぬの覚悟して帰りますかね」
ふと、桜の木に刻んだ傷をもう一度見返す春雄。少しだけ頬を吊り上げて、再び懐からナイフを取り出し『ナツコ』と彫られた横に文字を彫って行く。
『オマエヲ、マモル』
あの時交わした、一世一代の約束。
この国がこれからどうなって行くかはわからない。けど、ようやく自分は誰かを守ることのできる仕事をさせてもらえた。彼女を守るためならば、あのときと同じように守れるのであれば。
たとえ、この命惜しくはない。
「……行って参りますっ!」
桜と、彼女に向けて敬礼をし。春雄は丘を下っていった。
桜は散るのが早い。春も過ぎ去るのが早い。
だが、一生懸命に生きる彼らは一時の美しさを見せては散ってゆく。
その幻想に恋焦がれて、人は夢をみる。
そして次に繋ごうと、季節は移ろう。
春から受け継がれた想いを受け取って、また次へ、また次へと。
「あ……」
孫を連れた夏子は、青々と緑豊かに葉付いた桜の木をなぞり少しだけ微笑む。そこに彫られたすでに消えかけている自分の名前と横に刻まれた文字を愛おしげに眺め、梅雨明けの空気を目一杯吸い込みながら、すこぶる透き通った青い快晴を仰ぐ。
呆れたような、でも仕方がないな。といった表情で。
受け継いだ夏が、もう少しでやってくる。
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