03
付き合っていた人がいないわけではない。
桜の季節に、その彼のことが嫌いになるわけでもない。
ただ…
ただ、あの樹に対する想いは別格だった。
桜の花が終ってからは、私はあの屋敷跡へ近づくことはほとんどなかった。
稀に、本屋などへ行く途中に自転車で通りすがる。
その時には特に何の感慨もわかなかった。
次の年も私は桜の咲く季節になると、ざわつく気持ちを覚え、胸が締め付けられるように苦しくなった。
あの桜の樹に逢わなくては…。
逸る気持ちを抑えられずに、私はあの樹と花を求め、ほころび始めた蕾を見に急ぐ。
前の年と変らずにたたずむ姿。
その邂逅の嬉しさに目が潤んだ。
聞いたところによると、あの廃墟は、10年ほど前に火事で屋敷が燃えたのだという。
人死は出なかった上、屋敷だけが燃えただけにとどまり、それで桜の樹はその火災を免れたらしい。
住んでいた人たちは、その土地を捨て別に移り住み、さりとて屋敷跡を売りに出すわけでもなく、荒れるにまかせているらしい。
崩れかけ、傾いているとは言え、土塀にはしっかりと門扉がある。
よじ登り、中に入って行けぬわけではないが、人の土地であるのでそれはやってはいけないという分別は持っていた。
それに。
塀や門に隔てられたその逢瀬が、私は気に入っていた。
公園の桜の木々の下(もと)には、花見をする人々で溢れかえり、酒や弁当を広げ、楽しげで、そして賑やかである。
その喧騒の広がった賑々しい雰囲気も嫌いではない。
しかし、この樹の下(もと)には誰も居ない。
荒れた庭、伸び放題の草が生えているのみだ。
ゆっくり、ゆっくりと舞う花びらが静寂を際立たせる。
手を伸ばすと触れることが出来そうな枝。
しかし、伸ばした指先には樹はかすりもしない。
いや、何かが触れた気がした。
冷たい、何か…。
ああ、まただ。
風など吹いていないのに、風を感じる…。
このように、桜の時期に夢と現を行き来する私を、付き合っていた彼は気づいていたのかいないのか、ただ忙しかったのか。
大学を卒業するまで、ただの一度も、二人で花見に行こう、とは誘ってこなかった…。
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