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伊予の国の十六桜という話がある。

桜の木を大事にしていた老侍が枯れて行くその木を救おうと、自分の命をやるからまた見事な花を咲かせておくれ、と木の下で切腹しその魂を木に与えた。

それ故、その桜の木は老侍が切腹し、命果てた日の一月十六日という大寒の時期に、一日だけ花を咲かせるようになった、という話である。

 

私がその話を読んだ時には、幼かった所為もあり、何故、桜の木に自分の命を与えようと思ったのか、理解できなかった。

今ならば、あの頃よりも老侍の気持ちを少しは汲むことができるかもしれない。


私は、この3月で大学を卒業しようという時期を迎えていた。

就職先も決まっている。

この土地とは別のところ…この県からは遠く離れた場所に勤めることになっていた。

3月の半ばには引っ越しをする。

今年の桜が咲く季節には、私はもうこの土地にはいない。

今年見る桜は、全く違う桜なのだ。

そのことが急に不安となり、のしかかってきた。


その時に、脳裏に浮かんできたのが、十六桜の話だった。

それと同時に一つの考えに至った。


あの桜の地中に張った根に抱かれながら、春になると無数のあの花びらに包まれ眠る。


それは、何とも甘美なことではないだろうか。

 

一度、その考えを持ってしまってからは、脳裏には常にそのことが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。

 

私は、十六桜に命を与えた老侍の気持ちを少しは汲むことができるようになったのかもしれない、と思っていた。

いや、やはり、まったく理解などしていなかったのだ。

しかし、この時には同じことだと信じて疑わなかった。


卒業式を終えた次の日。

私は、引越し作業用に購入した大型のカッターナイフをコートのポケットに入れ、あの屋敷跡へと向かい、足早に歩き始めた。



春とは名ばかりの。

まだ雪が相当に残っているような、3月の初頭のことだった…。

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