05

桜の咲いている頃ならば、4月も終ろうとしている時期なので、自転車に乗りここまで屋敷跡まで行くことができた。


しかし、今はまだ3月。

日陰であれば、道はまだ凍った状態である。

自転車に頼らず、自らの足で行くしかない。


逸る気持ちを堪えきれず、私は、半ば走るような足取りであの樹の下へ向かった。


粗目状になっている雪。

道端の、粉塵と泥が混じった汚物のような雪。

マナーの悪い住人のいるアパート付近の、生ゴミを捨てられた状態の雪。


それらには目もくれず、そこに存在することすら忘れ、私はただただ急いだ。


崩れた土塀の前に着いた時には息が上がっていた。

ぜっぜっぜっぜっ

という喉に何かが絡んだような白い息を肩でする。


樹。

桜の樹…


樹はそこに立っていた。

灰色の空に馴染むような、くすんだ濃茶の樹。

枝には何の色も無く。

自分の吐く白い息で霞んで見えるその風景に、私は指の先まで硬直して眺めた。


わずかに覗くことのできる樹の根元。

そこには、どこからか飛んできたのか、溶けかけた紙くず。

寒さにやられたのか、大型の鳥にやられたのか、半分ほど埋もれた何か小動物の亡骸。

それらが、雪解けでぬかるんだ土の混じった、どろりとした雪と共にあり、雪は、もぞもぞと蠢動している。


そのうごめいて見えるのは、雪虫…雪虫…雪虫…


 いやだ!


脳裏にその一言だけが浮かんだ。

私は一体何を考えていたのだろうか。

こんな…こんな場所では眠りたくない。

しかし、自分の足に根がはったように、自分の体が凍りついたように、私は瞬き一つせず、そこから動けなかった。


コートのポケットに突っ込んでいた指先に冷たい大型のカッターナイフが当たる。

違う。

こんなのは違っている。

何が違っているのかもわからず、私は硬直したまま、樹を見つめていた。


「何をしているの、こんなところで?」


聞き覚えのある声が後方から聞こえた。

呪縛が溶けたように、詰めていた息を吐いた。

と同時に強張っていた肩が下がる。

振り向くと、恋人が白い息を吐きながら、いぶかしげな顔をして立っていた。


「なんでもない。引越し準備に疲れたから息抜きのための散歩」


私はそう首を振り、彼の方へと歩を進めた。

そして、そっと腕を取り。

一度だけ樹を、樹の上部だけを振り仰ぎ。

そのまま歩き去った。



あれから、何年も経つ。

今年もあの土地で桜が咲き誇る頃になっている。


しかし樹には、あれきり逢っていない。

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願わくば桜の元にて春… 茶ヤマ @ukifune

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