九 母と娘、そして赤い鼠
その日の
五年以上もの歳月をかけて実行した、連への侵攻計画は成功した。はじめから一地域だけでなく、国ごと取るつもりだった。そのためそれなりの時間を要したのである。
麗月は女だ。今でこそ、高級官僚の一員であるので表立っては言われない。だとしても『女のくせに』という目線は常に多方向から向けられる。
が、これはただのやっかみだけではなく、そこには麗月本人が抱えている問題も関係している。
麗月は珍しい色の髪と瞳を持つ。銀の髪に、深い青の瞳。実は、この薄い色素は岑の北に位置する国――嘉の王族に伝わるものだ。
麗月は今の嘉王の姪に当たる。麗月の父が現嘉王の異母兄なのだ。
とはいえ、その父は幼少期、嘉ではない別の国で育っているし、その後嘉に戻ったものの、数年後再びその別国に人質として行かされている。そして、そのまま死んだことになっていたのだ。
父は岑の官吏になる以前に王位継承権を放棄している。父本人も、麗月としても嘉に対してとくに感じるものはない。
そもそも、叔父にあたる嘉王とは一度も会ったことがなければ、話したこともない。というか、関わったことがない。血縁関係などあって無いようなものだ。それが特に、一国の君主に連なるのであれば。
嘉王家の姓は『華』だ。が、そのまま他国の王家の姓を名乗るわけにもいかない。
ところが父が岑に来たちょうどその頃、岑の五代名家である孫家は断絶の危機に陥っていた。そのまま先帝の計らい(というか孫家に拒否権は無かったの)で、父は養子となったわけである。
閑話休題。
麗月は基本慎重な人間である。成功と失敗、利益と損害を天秤にかけて、最後に最も大切にするのは他者ではなく、自分だけだ。
自分さえ助かればそれで良い。それが当たり前だ。自分はそう割り切って、自分のために死んでいった者の存在さえ忘れるのだろう。
わかっている。自分は最低な人間だ。麗月は誰も救えやしない。誰かを殺すことがあっても。
この掌は染み付き、洗い落とすことのできない汚れた血と、底の見えない醜い我欲にまみれている。
つと、その思考を頭から追い出す。
何度考えても、答えは同じ。自分は狂っている。それで終わりだ。
昔からそうだった。麗月は、他の兄姉よりも特段優れていたわけではない。聡明ではあったし、確かに同年代の子と比べた時、明らかに差があった。だがそれは、必死に努力すれば誰だってできる程度のもの。
そこを、天賦の才だ、優れているのだと勘違いされただけ。
その勘違いに絶対気付いていたというのに、優れていることを強要され続けた。
自分は立ち止まってはいけない。後ろを振り向けばいつの間にか断崖絶壁で、少しでも歩みを止めれば、すぐに転落する。
気付いたときには、周りからは畏怖の目で見られるようになっていた。当然、麗月には友人と言える人間はいなかった。作ろうとも思わなかった。いつか、自分のせいで壊れてしまうと思ったから。
十年以上前、岑に来てから、それはもう楽しかった。自分より遥かに優れた父も、または経験が長く、人生の師というべき者もいた。好敵手と言っても過言ではない者が何人かいた。
また娘たちが生まれてからは、自分の思い通りにならない存在――赤子――が他にもいたと、実に楽しかった、意地悪するのが。
だがここ数年、そういった者に会うことがめっきり減ってしまった。成長した娘たちも、かなり面白みが減った。時折次女や三女が噛みつくが……、まだまだ青臭い。全くもって、つまらない。
だからこそ、ほんの少しだけ――、だが確かに、予想外の展開へ計画を狂わせた少女が、新鮮でとても興味深かった。
公主の身代わりとして、どこかから売られてきた少女。この腐りきった世界の泥沼を理解していないのに、知ったつもりになっている、残酷になりきれない少女。おそらく、彼女は一生かかっても自分のように狂気に染まることはない。
そんなふうに、気になって少々からかってみたが、やはり面白かった。
近年麗月にちょっかいかける奴も激減し(全員叩きのめすからである)、自らちょっかいをかけに行っても大抵逃げられる。そして父に『お前がしでかしたことの尻拭いをさせられる俺の身にもなれ』とため息混じりに説教される。
事実、麗月の赤子の頃、父は麗月たちの下の世話もしていた。母は生粋のお姫さまであり、そういったことは不得手だった。無論、そう反論(というか屁理屈)を言ったら、今度は問答無用で拳骨をくらった。手加減はしてあったのだが、痛いものは痛い。
ちなみに自分が成長したあとも、麗月は自分の娘たちの世話は、全部父や異父兄に放り投げた。なぜかって、からうこと以外は面倒だったから。残念だが、麗月は自身の母以上に母性というものがなかった。
とにかく、久しぶりにおもしろい玩具を見つけたと思った。が、彼女が本当に元・奴婢だけだったらさておき、考えられる彼女の素性が、中々に厄介だった。
ただの可能性だ。だが、当たったらめんどくさい。どれくらい面倒かと言えば、一階から四階までの階段を十回往復するくらい。つまり、かなり面倒なことになりかねない。更に言えば、疲れるという余計なおまけ付き。
そういうわけで、彼女を路銀を与えて、さっさと手放すことにしたのだ。
そう、手放した。そして二度と会うこともないだろうと思っていた。思っていたのだが。
******
桜鎖は母の心情の変化に敏感である。そんな彼女は麗月がそこそこ機嫌が良いことに気付いた。
とはいえ、麗月は感情を隠すのは上手である。娘であり、十四年もの長い間をすごしたとはいえ、何考えているか分からないことは多い。…というか、上手でなければ伏魔殿では生きていけない。ましてや、出世しようものならなおさら。
その母が、隠そうとしていない。機嫌の良さを。先程馬車に乗る際、御者がとある粗相をした。が、麗月は『気をつけよ』の一言で済ませたのである。
母は公の場では序列を重んじる。そのときも周りには他の将軍がいたのだが、御者を罰することはなかった。
もしかしたら、春だというのに雪が降るかもしれない。
(…一体、何があったのかしら)
公主の身代わりとなっていた、あの娘だろうか。さほど自分と年が変わらないように見えたが…。
桜鎖が言うのもなんだが、母は未だよく分からない。時折幼い少女のように、無茶なことを『ただの好奇心』でやらかすし、今回のように誰かを『
あの娘もまた、母の玩具となっていた。曰く、からかいがいがあるのだと。『からかい』で済んだだけ、彼女は運が良い。
そうこうしているうちに、旧・連の国都の奴隷市場に通りかかった。
桜鎖はこういったところをあまり見たことがない。はしたないことだと頭では分かっているが、ついきょろきょろと目線が様々な方へ向いてしまう。
奴隷市場と聞いたときはもっと凄惨な場を想像していたが、それほど酷い様子は見られない。売られる者たちの表情は暗いものだが、それは当たり前のことで、特に気にかけるものではなかった。
そのとき、ふと既視感を覚えるものが目に入った。
連では、岑と同様に黒や茶の髪が主流だ。そんな中、茶髪と言うには赤の色が濃い髪の娘がいる。
(いや……まさか)
そういえば、彼女も似たような色だったような。気のせい…にしたい。
桜鎖はなんとなく目が離せず、ずっと少女の方を見ていた。
「どうしたの?」
「…あの娘…、母上様おかあさまがからかっていた、鑭依という子に似ていませんか?」
そう母に言えば、
「あなたの方が目は良いでしょう?確かに後ろ姿は似ている気はするけれど」
確かに、桜鎖の視力は良い。だが、遠いため確信は持てない。
「見に行っても良いですか」
「お好きにどうぞ」
母はもうあの娘への関心を無くしたのだろうか。どうでも良さそうな声色である。
『それでは、次はこの娘!白い肌に傷は少なく、またこの珍しい赤髪に藍の瞳!顔を見れば一級品!さぁ、銀二百から!』
外套を被り、顔を隠しながらそちらへ向かうと、競りらしい、大きな声が聞こえる。
加齢臭に顔をしかめつつ、爺どもの隙間から舞台に目を向ければ、今売られていたのは間違いなくあの娘だった。母や自分と話したときには見せなかった、『はぁ〜、めんどくせぇ。こいつら気持ち悪いっ』という表情を見せているが。
つくづく運が悪い少女である。折角あの母が与えた路銀も奪われたのであろう。そして、何やら自分で用意したと思われる金目の荷も。
自分とさして年の変わらない娘のためか、やはり同情心が湧く。どうにかしてあげたいとは思う。かといって、自分ができることは限られている。
彼女を買い落とすこと。少なくとも変な好色なオヤジ共に買われるよりかは、遥かに良いかもしれない。が、残念ながら自分は金を持っていない。ほとんど必要ないからである。
しかも、買えたとしても自分では彼女の面倒を見きれない。少し前、桜鎖は笄礼を迎えた。すなわち、女子の成人の儀である。ゆえに、母からは見放されているのである。
となると、母に買ってもらうほかないわけだが。
(…でもねぇ…)
いや、別によく分からない嫉妬とかではない。ただ、母に仕えるのは到底おすすめできない。
麗月に関わるということは、常に危険性が生じる。自分の身くらい自分で守らなければ、いつ寝首をかかれるか分からない。そもそも、死んだことが公になることなく、いつの間にか蒸発しているかもしれない。
それこそが宮廷である。
やや迷ったが、桜鎖は何がかんだ言って、『今』困っている人を放っておけない人間だった。自分とも年が近く、また可愛い妹たちと彼女を重ねてしまったのかもしれない。桜鎖は根っからの長女気質なのである。
「母上様。あの娘を買ってくださいませぬか」
「嫌」
即答。
普段の桜鎖ならば、答えが予想できている問はまずしない。麗月が嫌うことだからである。それに、この母に舌戦で勝てた試しがない。
とはいえ、今回勝てる見込みが無いことはない。だから挑むわけである。……胃に穴が空きそうだ。
「母上様」
「しつこい。何で私がそんなことしなきゃいけないの?」
ちら、とこちらを見る瞳は、相変わらず冷ややかなものである。
だが、ここで負けてられない。初志貫徹。一度彼女を助けようと思ったのだから、やはり成功させたい。
「瑞蓮さまに『あのこと』を報告せよ、と命を受けているのですが、いかが致しましょう」
桜鎖は鳩――伝達手段の一つである――を見つつそう言う。
既に愛鳥の脚には紙がくくりつけてある。そして、この愛鳥は基本的に桜鎖の言うことしか聞かない。
瑞蓮とは、桜鎖にとって母方の祖父にあたる。つまり、麗月の父である。彼は麗月を制御できる、唯一の人間と言っても過言ではない。
自分以上に優秀な母であれば、『あのこと』は何かすぐに分かるはずである。
予想通り、ぴく、と明らかに『不愉快極まりないです』という顔になる。実際、彼女は不愉快なのだろうが。
桜鎖は母の支配下にある。が、祖父である瑞蓮もまた自分の上司である。
桜鎖や妹たちが幼い頃、麗月はその世話をほったらかし、宮廷で狸親父どもと『おほほほほ』をしていた。
とても分かりやすい育児放棄である。本人も認めていたし、今更自分たちも否定することはない。
たまにやってきたと思えば、自分を屋根の上に登られせて「訓練よ、
雪山の件は、未だに祖父は母のことを許していないらしい。いや、あのときの祖父は本気で怒っていた。母に雪山で放置されたことよりも、祖父が怒った姿の方が、とてつもなく怖かったのは幼いながら記憶に残っている。
ちなみに『あのこと』は、今回の連侵攻における母の報告云々である。そして、母にも自分がやらかしまくったという自覚はあるらしい。うん、なきゃ困る。
はっきり言って、ただの脅しである。勿論一度しか効かないが、効果は絶大な。
普段こういったことで脅せないのは、脅す前に母が上手く隠蔽するからだ。
祖父は優秀な人だ。だから、麗月がやらかしていることは十分予想している。事実、当たっている。
それでも『やらかした』証拠がなければ、無言を貫いている。そういった意味で面倒なことを嫌う、ある意味賢い人だからだ。…こういったところを見ると、母は祖父によく似ている。
だが、鳩の脚にくくりつけた紙には、その証拠はきっちり記されている。確保しておいたものが、早速役に立つようだ。証拠さえあれば、祖父を動かすことができる。
「あんた、あの娘を手に入れてどうするつもり?」
「…どうせなら、母上様の駒の一つに加えては。それなりに賢いでしょうし、ある程度叩き込めば使い物になるかと」
そう言って軽く微笑めば、こちらを射抜くような目線が更に鋭くなる。
やはり、母は怖い。蛇に睨まれた蛙とは、まさにその状況。
それでも、決して目を逸らしてはいけない。その地点で桜鎖の負けである。
「…随分と悪どくなったこと。
「滅相もございません」
――そもそも、親不孝なのは貴女の方でしょう?
それ以前に、自分たちに『親孝行』だなんて概念はあるのか、実に謎である。
馬車から降りる動作でさえ、いちいち美しい母。自分は一生かかってもこういった方面で母を越すことはないだろう。
そのまま歩いていった麗月は、懐から(どうやって入れていたのだろう)重そうな袋を取り出し、舞台の方へ投げる。
「千」
『は…、っはぁ!?』
驚く周囲の声を尻目に、そりゃそうだ、と思いつつも内心は喜びで溢れていた。母から少しだけだが勝利をもぎ取ったからである。うん。今年一番の快挙だ、自分にとって。今年が始まってわずか三ヶ月しか経っていないが。
とはいえ、これで母の機嫌は急降下した。現に、今とっっっっても、苛々している。交渉成立した以上、祖父には『やらかしたこと』は報告しない。しないが、人から脅されて良い気分になる者はいない。もしいたら、そいつはちょっと変な奴である。関わり合いたくない部類の。
そして機嫌の悪さを隠さず、また同じ銭袋を取り出して舞台へぶん投げている。
それはもう、先程よりも力強く。
いや、母が嫌いそうなあの禿男や太った鼠男にわざと当てなかっただけ、まだ機嫌マシなのかもしれない。
だって、母はそういう人間である。公の場でそれを表に出さないだけの分別は当然あるが、個人の好き嫌いに関してはどうしようもない。
そもそも、この奴隷市場に群がる親父どもは彼女が一番嫌う人種だろうし。
*******
馬車の中にいるのは、それはもう綺麗すぎる美女と、清涼感のある美少女と……目を細めれば、まぁ…可愛らしい系統の美少女と言っても良い…かも?…しれない…娘。……はい、私です。
「――というわけ、分かった?」
「…それなりに」
(つまり、…自分が運が良かった、と)
鑭依は買われたあと、馬車の中で麗月から説明を受けた。自分が買われた経緯について、である。
何やら、麗月の娘である桜鎖は、自分のことを可哀想だと思ってくれたらしい。そして、どうやら話を聞く限り穏便とは真逆の説得をして、鑭依を買ってくれたとか。
うん、とりあえずお礼。ありがとうございます。
「……ところで、これから私はどうすれば?」
桜鎖の要望で買われたわけだが、買う資金を出したのは麗月。また、桜鎖は麗月の部下である。残念だが自分の立ち位置が分からない。
そう思って聞いたのだが、予想外にも迷うことなく、すぐに返答される。
「ひとまず私の雑用係にするわ。最低限の衣食住は保証しましょう。給金も出すし」
……なかなかの好待遇。給金も出してくれるとは。
(そういえば私、もう二度と関わりたくないとか思っちゃったわ)
よく考えてみれば、自分はかなり酷いこと思っちゃってたな、と心の中でこっそり反省する。
「…あ、あと私の戸籍はどうなりますか?」
鑭依は二年前、蘇家の家長、蘇檀の養女となっている。その段階でいろいろ手順を踏んで、奴婢――、賤民から庶民へ引き上げられている。が、つい先日その蘇家を追い出されたわけである。
形式上は『出仕』になっているから、戸籍上もまだ『蘇鑭依』となっているのかもしれない。
そもそも『鑭依』という名も二年前、手に入れたものだが。
「そのことだけど、面倒だから『蘇鑭依』は死んだことにする。戸部に部下がいるから、後で新しく岑の戸籍に登録すればいいわ」
行政を司る三省六部の一つ、戸部。主に土地管理、戸籍、官人への俸給などの財務関連の行政を担当する。
ちなみに、これは完全なる職権乱用である。いや、偉いひとの特権というべきか。
「私の傘下に柳家という家門がある。そこの娘ということにしましょう。桜鎖、後で
「分かりました。戸籍上嫡出は難しいので、庶出ということで調整します」
庶出――、妾腹の子、あるいは隠し子が急に湧いてくるのは、それなりにあることだ。鑭依だって『蘇家の分家の妾腹の三男の隠し子』ということにしてから、蘇檀の養女になったのだから。
ようは、『平民の子は平民』という法に則ったわけだ。
「名はどうしたい?『鑭依』が真名なの?奴婢になった際変わったと思うのだけれど」
「それは違いますね。音しか覚えてないですけど…確か『ラン』でした。そこから養父がひねって『
音の発音で当然字は異なる。だが、鑭依が育った奏と岑・連では、微妙に発音が異なる字がそれなりにある。そのため、『鑭』なのか、『蘭』なのか。『藍』『鸞』『襤』『䪍』…と、他にもたくさんあるわけだ。
「そこまでこだわりもないので…『柳鑭依』でいいです。新しい名に慣れるのも面倒ですし」
*******
このときの鑭依は知らなかった。自分がやらかしてしまったことに。
彼女を擁護するならば、彼女は『ある事実』を知らなかったこと、また、いくら天才でも数百年後の未来の予期はできないことが挙げられる。実質、彼女自体に非はない。
が、何はともあれ、彼女の決断によって後々とんでもないことが引き起こされてしまう。
もし彼女たちがそのことを知ったとしたら、『…はぁ!?ふざけんなよ!』と激怒するくらいのことが。
歴史など、虚像と嘘にまみれている。これは非常に分かりやすい例である。
闇夜にも光影はある。 @Linsha
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