第42話 有美が語る死後の世界

有美が語る死後の世界


1989年神無月12日 東京 


 望は有美に執拗な尋問を受けていた

「刑事さんもうこのくらいで勘弁してくださいよ」

 望の察するところ、有美が興味のあるのは、菫と紫が戻ってきた先に自分がいることのようだった。

 望は、全ての出来事を話したわけではない。未来の菫の語ったことは極力伝えることを避けた。当然有美が過去に戻る手段を見いだしたことも、有美が何者かに拉致されたこともである。さらに菫に対する恋愛感情に関しても意図的に伝えていない。

「で、巴は本当に帰ったのか?」

 有美の質問は雑になっているように感じた。望は隠すべきところは隠して問題の無い事項は背景を含めて詳しく説明していた。

 望は巴すなわち未来の菫と称する者の電話の後、菫がくれた電話で包み隠さず全てを話した。有美にはそれは出来なかった。もう1年か、望はあの嵐のような出来事が昨日のように思い起こされた。有美と菫は何かが違う。もっと言えば高校の桃香とも違う。恋愛の匂いを感じないというのが今できる最も近い表現である。

 あの電話で菫がこの後どうしたいと聞いたので、”小夜が死のうが、世界がどうなろうが菫さんの側にいたい”と告げた。菫は”ありがとう”と言った後、長い長い沈黙の時間が訪れた。

 口を開いたのは菫だった

「私は氷川神社の出来事を信じている」

 望は、未来を約束できる自信がなかった

「今、距離を取ってしまうと未来に自信がない。多分小夜は、巴の時空では自ら命を絶つくらい僕を意識しているはずだ」

「小夜が私以上に望が好きなら諦めるわ。この時空では位置と運動は一緒に測定できない。だからこの後起こる事なんて当てにならない」

「不確定性原理だね。そうだね移動する物体は観察したときは既に違う場所に移っているからね。僕たちは雪の足跡を見て実体と運動を予想することしか出来ない」

「私はね望、あのとき婦人が予言したことを信じている」

 菫は同じ言葉を繰り返した。この話は既に巴から聞いていた。”学生時代は付き合うな”

 また2人で氷川神社にお参り行きたいね。楼門を彼女背負って抜けると恋愛成就する伝説作りたいな」

「伝説か、なんでこんなことになっちゃったんだろう」

「だから、きっと次、恋人同士になったときは、よそ見出来ないくらいいい女になっているよ。ヤキモチヤキも克服している。

 なんか格好いいね。私たちの活躍で世界を護ることになるのだから。世界のみんなにこっそり感謝される2人なんて凄いよ」

 望と菫は江ノ島・鎌倉デートを最後に2人の距離を取ることにした。

 去年の10月15日、小夜、菫と望は巴の3つめの依頼を叶えた。小夜は待ち合わせ場所にぎこちない笑顔で現れた。望の印象では小夜は男と出かけるのは初めてだったように感じた。最後に3人で鶴岡八幡宮を詣でた。大銀杏の前で菫は気を失い望が抱えた、小夜に聞こえない小声で”待っている”と伝え菫は意識を取り戻した。

 我に返った菫は、望の腕の中にいることに拒絶反応を示した。菫はあたかも自分にっ取り憑いた者が望に好意を抱いているかのように振る舞った。望自身もそれが真実でないかと疑った。2人の記憶が消滅して菫が持っていた自分への感情さえも失われたかと思った。

 家に帰り氷川神社で婦人から頂いた焦げた羽根を見つめ独り号泣した。

 江ノ島・鎌倉デートの後、小夜が望に接近してきた。極力避けていたが、学園祭の時、写真部の展示室を訪れた小夜に部活の先輩達から囃し立てられて、受付の担当を3年の先輩自ら替わる形で促され校内のデートをした。結局あの一夜の出来事を起因として、友達の関係からそれより先に進んでしまった。望は、こういう形で菫を裏切る事は悲しかったが、時間の流れから生じる必然に身を委ねる決断をした。望の予想通り時間の経過に比例して菫は絶対の存在ではなくなっていた。

 一通りの尋問を終えると有美はとんでもない話題を振った

「望、人が死んだらどうなると思う」

「宗教の話ですか?そういう怖い話は考えないようにしています。仏教の6道の話とかならばできますが、そう言われているだけでそれが正しいかどうかは分かりません」

「人は恐怖があるから、宗教に逃げる。でも私たちは科学者見習いだ、理論的に考えてみないか」

 望はここにきて有美が達成したい目標が何であるか分かった

「そういう怖い話は考えたくありません」

 有美は返答に気を留めることなく続けた

「望、シュレーディンガーの猫、なぜ猫の生死をたとえにしたか分かるか?」

 望は小夜と付き合っている頃、何度か議論したことを懐かしく思った。小夜と別れた日は有名画家が描いた「シュレーディンガーの猫」を見にいった。作者の有名画家が科学を理解していないことを揶揄した。一介の無関係な学生風情が、この作家は結婚して画風が変わってしまった、生活費を稼ぐために絵を描いているとまで苔降ろした。2人の中だけの話で、第三者への公言は許されないが、2人は科学を画家が注目を引くために利用している事が許せなかった。これは望にとって、芥川竜之介が先祖を侮辱して懐を暖めた事実と重複して一相怒りが増していたと記憶している。そういう解釈もあるという寛容さはこの場面の望には持ち合わせていなかった。無教養で科学に踏み込んだことを揶揄していながら、絵画に教養のない学生が絵画を説いているという矛盾がたまらなく楽しかった。この数時間後に望は小夜に別れの言葉を切り出された。望にとってシュレーディンガーの猫は良い想い出ではない。

「アインシュタインの”砲弾の充填における自然発火”に対抗してですね、1935年時点ではアインシュタインもボーアも時代遅れの科学者になっていた。でもそんな老朽功労者を無下に侮辱する事ができないので、シュレーディンガーは回りくどい表現でアインシュタインを非難した。一般人に分からないよう巧妙な表現で」

「見事だ、化学科にしておくのはもったいない。物理の方に適性があったろうに」

 望は有美程の女性に褒められて、かつて紫に褒められて嬉しかったことが蘇った

「僕の解釈するシュレーディンガーの意図は、放射能物質の原子核の崩壊はどういう法則で起こるか?猫の死後魂はどこに行くのか?科学の領域では未だに分かっていない。アインシュタインはラプラスの悪魔に取り憑かれていて、全ての現象が予想され物理式で示されると誤解していた。しかもその後の発言を見ると、アインシュタインはシュレーディンガーの意図さえ理解できないほど落ちぶれていた」

「言葉が辛辣だな、望のアインシュタイン嫌いは異常だからな」

「すいません。取り乱しました。中学の頃からアインシュタインが嫌いで、あれほど持ち上げられる理由は中学の自分でも不思議でした。でも、反ナチスの宣伝として共産主義と資本主義に利用され持ち上げられただけだと、小夜と付き合うようになって分かりました」

「望は確か、4次元の軸に時間を持ってくるのはおかしいと言っていたな」

 望が小夜と何度も協議した話だった

「僕は、不確定原理発案時のハイゼンベルクの考え方に賛同です。極端な話を言えばこの時空には”量”しかない。言い換えれば写真のような1枚1枚の映像しかない。それを映画のようにつなぎ合わせて、あたかも時間が流れているように誤解していると考えています。この話は小夜さんにしか話していません。誰かに話せば、時計を見せられて頭がおかしいと言うでしょう。説明しても理解してもらえない人には話しませんので、お話ししたのは有美さんが2人目です」

「なあ、望、4次元を仮に時間軸を置いた場合、5次元の軸は何になると思う?」

 ここで渉は2人の話に退屈したのか、タバコを買いに行くと席を外した。2人の会話はそのまま続けられた

「分かりません。ただ多重世界(パラレルワールド)でないとは自信を持って言えます」

「望は紫さんと菫さんを通して実体験している筈だが、パラレルワールドを否定しないならば未来から来た2人はどう説明する?」

 望は、水仙の匂いを感じたような気がした。そう、センター試験の日に紫の母親にご馳走してもらった料理屋の床の間にあった花入れの水仙の香である。あのときの話に従えば、紫が過去の戻ったのは今年の9月だった。紫は今どういう状態になっているだろうか?

 菫が前橋で自分と”すんすん”こと量子に会っていることを考えれば、現時点で無限ループに陥っていなければ跨線橋や料理屋での濃厚な口づけの記憶は消滅している筈である。紫の記憶にある望はあの日、紫でなく量子を選んだのだ。

「ねえ、望、聞いている?」

 有美が望を現実に引き戻す

「さっき話した通り、今いる時空が実体のない世界だと考えていますので多重世界はなく、同じ時空に存在していると思います」

 有美は望の頬に手を当てた。望は小夜と違って冷たい手だと感じた

「じゃあ、これをどう解釈する?」

 望が中学の時、紫が手を握ってきた時が蘇った

「脳が勝手に想像しているだけだと思います」

「ではその脳はどこにある?」

 望はその答えを持っていなかった。”物”は”量”として扱えるが、思考や感情などの意識の仕組みが、その考え方では説明が困難である。意識の連続性を量で考えるのは難しい。時間が存在するならば意識を継続することは可能である。有美は徐に言った

「お前にだけ、私の仮説を聞かせてやる」

量子、ここで言う量子はすんすんのことではない。対となる量子は観察すると一つに収束する。これは日本語ではもつれ。ドイツ語が最もしっくりしてVerschränkung。例えば電子は量子の状態ではシュレーディンガー方程式で計算すると1,000光年離れることもあり得る。それが観察されることで観察された側で2つの量子から1つの粒子として存在する。これは量子の状態のまま観察することは現在の科学では不可能であることを示している。

 有美の仮説は我々にいる世界は量子の 世界で実体がなく、対となる世界が別にあるということだ。量子力学的にいえば今認識している世界は実はユークリッド空間でなく、ヒルベルト空間の方だという。

 つまり、この世界は量子である我々が幻想をみているということである。しかも認識や頭脳を司る量子は別の世界にあり、そこには時間という概念がないという。

 人は本来別の世界にいるものだが、この世界でいう人の誕生の際分離して、人の死後別の世界すなわち生まれる前の世界で収束するということだ。つまり観察側は必ず別世界側で、この世界に居続けることができず、別世界に戻って実体化する。これが人の寿命でもある。

 ただし、元々の人の形はこの世界で認識している人の形とは違うという見解だ。別の世界の人は単純な球体で移動のような運動さえもないのではないかと予想している。

 望や小夜が推しているハイゼンベルクのこの世界は映画のコマ(映画フイルムの一コマ)が多種多数存在するという考え方は別の世界からの視点としては的を射ているといえる。さらに別世界に時間はないが順番はあるという。時間を介さない順番は望には咀嚼できなかった。2時間の映画を一瞬で理解するようなイメージだという。あるいは川の水と水たまりとでも言おうか。

 有美が関心を持ったのは、紫と量子(すんすん)の記憶を望が同時に持っていることだった。有美の仮説ではそういうことが別世界で観察できる筈がなく、仮に起こったとしたら別世界に収束される筈だという。

 望には、編集しなかった映画のコマが認識できていることが理解できないという。なぜならばそれができるのは別の世界の認識や頭脳を司る側の量子であるはずだ。

 対になる量子はお互いに相補の関係がある。ざっくりいえば量子的に別世界に頭脳だけあって、この世界では体だけあるということだ。つまり今考えていることはこちらの世界でなく別世界の量子が考えていて、それがあたかもフォログラフのように見えている。それが通信手段を用いたように相補の関係で実体はないが連携している。

 この仮説に従うと我々のこちらの世界では時間が存在するので、時間と”順”があたかも相互関係があるように流れている。別世界の脳に相当する量子が、こちらの世界の現象を作り編集している訳ではない。人がそれまでに起こしたこと、すなわち人生の経験と、決断、また次元の違う要素に支配されて映画の次のコマが用意されるという考えだ。この次元の違う要素は「運」や「神通力」などに似ているが根本的にはもっと深い意味があるものだという。

 望はその際、2つのコマを同時に見てそれぞれを認識してしまっている。恐らく2つの出来事を同時に経験することができないはずであるがそれができてしまった。この理屈が解明できれば未来の紫や未来の菫の現象が説明できるという。

 望は話を聞いて、興味深いと思ったが、未来の菫が教えてくれた有美が誘拐された話を思い出していた

「紫さんと話をさせて欲しい」

 有美が突然叫んだ 

「それはダメです

 恐らく今の紫さんは未来から来た紫さんではありません。センター試験の日、紫さんの目の前で量子さんのところに行った僕の記憶しか無いはずです。

 ですから、もう紫さんと会話なんて無理です」

 有美は真剣な顔で

「私は自分の仮説に自信がある。紫さんは間違えなくお前と同じ2つの記憶を持っている」

 望は深いため息をついた

「渉師匠、タバコ買いに行ったまま帰ってきませんね」

 望は無駄なあがきだと思ったが話を逸らした

「お前の知っている奴と電話しているんだろう」

 望は、有美が複雑な表情になったことを見逃さなかった。有美はなぜか望の反らした話に乗ったが、直ぐに軌道を戻すように先程の解説を復唱するように語った

「私は望や小夜さんの考え方に近いと思う。この時空は実体のない世界だが、この時空以外に思考や感情などの意識を持つ世界が存在していると考える。その世界は人間の形をしていなくて頭脳だけの世界かもしれないが、その世界から実体のないこの時空と相補していると考えている」

「つまり、この時空以外に頭脳を司る世界があるということですね」

「そうだ、

「私は5次元は観察者の軸が生じると考えている」

「なるほど、そうすると6次元は集団ということになりますね」

「望の考え方は間違えなく私に近い、そうこの時空は実体がないと考える方が合理的だ」

「そこまで深く考えたことはないですが、僕と小夜さんがたどり着いた結論とは合理的に繫がると思います」

「この時空は実体がないから、人の死後、この世界にいた生まれる前にいた時空に収束すると考えている。だから私は自分の死が少しも怖くない」

 望は頭の中を整理して有美に答えた

「有美さん位綺麗なら、物理屋止めて新興宗教の開祖になった方が良いかと思います。一生楽して暮らせますよ」

「望は、”みくり”みたいなこと言うんだな」

「みくりさんも物理にくわしいのですか?」

「奴は生粋の文系だ、ただ、新興宗教の開祖はみくりも提案していたな。そんなことより、私は望が体験したことを通して、この時空の姿を知りたいと考えている」

 望は未来の菫の言葉が蘇る、禁断の扉を開くことを阻止しなければならない

「僕は紫さんにも菫さんにも深い心の傷を残してしまいました。ですからもうあのパンドラの封印とは係わりたくないのです」

「紫さんと連絡を取って欲しい」

「ぼくの話を聞いていました?」

「無償というわけではない、望の願いを1つだけ何でも飲む。何でもだ。渉と別れて結婚して欲しいと言われれば、お前と結婚する。私の決意を察して欲しい」

「折角ですが、紫さんは僕の人生の大恩人です。その紫さんを僕はセンター試験の日裏切ってしまいました。もう逢わないと決めています」

「こんなに頼んでもだめか?」

「ダメです」

「なら、菫に聞くしかないな」

「菫さんには係わらせないって約束したじゃないですか」

「なあ、この通りだ」

 有美は深々と頭を下げ続けた

「私の仮説通りならば、紫さんもお前と同じように2つの記憶を持っているはずだ。そして独りで悩んでいると思う。お前に連絡出来ないという女心を汲んでやる時じゃないか?」

 望は言葉がなかった

「さっきの約束は必ず守る、だから頼む」

「さっきの例えじゃないですけど、この話のために結婚相手を決めてしまうって本気ですか?」

「ああ、本気だ。切り札は必要なときに使える度量がなければ人生なんてつまらない」

 望の大義としては、菫にこれ以上係わらせるのは絶対避けたかった。そして有美の仮説を信じるならば、絶交状態だった紫との会話が復活できる希望がでてきた。こんな些細な根拠だけれども、紫にだけはここ10年で生じたことのなかった未練があった。

 そういえば、未来の紫が中学生に戻った日は1ヶ月前に過ぎている。

 あの氷川神社で出会った婦人の言葉を幾らかでも信じている自分と、今の状況は似ていると思った。

「分かりました。有美さん、ここで1つ運命を試してみませんか?今日この後、紫さんに電話をかけます。もし電話に出なかったらもう二度と、紫さんに電話をすることはありません。もし、紫さんが電話に出たら有美さんの依頼を受けます。これでどうでしょう?」

「応、それでいい。よく決心してくれた。電話が繫がったらお前の妻にでも、何ににでもなるぞ。早速電話だ」

 有美は居酒屋の会計を済ませ、望の手を引き電話ボックスに向かった。途中タバコを買いに行って帰ってきた渉と合流し、望は渉に事の次第を説明した。

 電話のボックスに有美もは入って来た

「そんなに信頼ないですか?きちんと連絡します。

 一緒にいるとお尻とか触っちゃうかもしれませんよ」

「触りたければ生で触っていいぞ、ここで脱ごうか?」

 望は深いため息をついた。渉の苦労が少しだけ分かったと思った。ともあれ中学生の時に初めて電話したとき位、緊張している。覚悟を決めて記憶から消えない番号を有美に見られないよう隠しながら順に押した。呼び出し音の最中、留守番電話になることを願った。付き合っている彼女に浮気相手がバレて電話させられているようにも思えたら微笑んでいたようだ

「いやらしい、何、にやけているの」

 有美が小声で言う。先ほど生で触っていいと言ったことが遠い昔のようだと望は、自分の容姿と発言にはきちんと向かい合って欲しいと有美に願った

「はい」

 聞き間違えする筈のない紫の声だった

「富樫望です。突然ごめんなさい」

「望、望なのね」

 電話の声が明るくて、試験が終わった時ぐらい安心した。紫の電話の向こうには”すんすん”の乗る電車に飛び乗った旧友という設定の筈だ

「懐かしいね、センター試験の日以来かな。何かあったの?」

 望は紫が今でもずっと大人だと思った。有美が興味を示すとおり、紫の記憶がどうなっているか分からない。もしかしたら中学生の時の記憶も無いかも知れないとさえ覚悟していた

「半分はそうで、半分は紫さんの声が聞きたかったかな」

「東京に行くとそういう言葉を吐くようになるんだ?」

「手厳しいな。そういう紫さん好きですよ」

「まあ嬉しい。私のヒモになる?」

「アルファベットの数だけ軸が必要なので止めておきます」

「超ひも理論ね。B大行ったのよね。望のおじいちゃんと同じ大学。そして、私が行きたかった大学。さりげなく教養をひけらかすところがいやらしいわね」

「僕がいやらしいことは中学の時にご存じだったと思いますが。格上の方にひけらかすのはお釈迦様の手の平の孫悟空みたいで勘弁だな」

「望も大人になったんだね」

「この時空にボーア博士が登場して量子論を説き、画期的に発展させたように、紫さんは僕を画期的に成長させて頂きました」

「この時空?」

 望は言葉の選択を間違えた事を反省した

「僕の基本は仏教思想です、高校の時付き合ってた人に振られて仏教に没頭しましたから」

「望、成人式に来なかったのは私と逢うのが嫌だったから?」

 望は有美が察したとおり、紫も自分に類似した経験をしているのかも知れないと思った。

 底知れぬ恐怖が望を襲う。今日は氷川神社で頂いた焦げた羽根の携帯が必要だったかもしれない。

 確かに望は、成人式で紫と会話するのは嫌だった。仮に時空が複数存在するならば、太っていた頃の菫の記憶、すなわち足利駅で紫を置き去りにして”すんすん”こと量子のいる車両に飛び乗っているのだ。望には裏切ってしまった紫と会話する勇気が無かった

「1月は後期試験なんだ、身の丈に合わない大学にマグレで受かっちゃったから、試験対策で田舎に戻って成人式なんかでる余裕がない。入学式の時、言われたよ。ウチの大学名を肩書きにできるのは、浪人と留年を含めて2ダブまでだって、それ過ぎたら企業側はB大卒を評価しないってね。僕は既に1浪しているから留年は1度しかできない。僕の人生を考えたら成人式どころじゃなかったよ」

 望は言い訳は長いほど怪しいことは十分認識していたが、形振りかまっている状況ではない

「私も、望に逢う事を想像したら興奮して熱出して寝込んじゃった。もしかしたら望が見舞いに来るかもしれないって、余計熱が上がったわ。でも後で裕子に望が来ていないって聞いて、望がそういう決断をしたんだと思った」

「紫さん、もう許してもらえない事は分かっているけれど、謝った方が良かった?」

 望は、有美の仮説のシナリオから逃げたかった。仮説の先には菫の悲劇が控えている。電話の相手は量子の列車に戻った自分しか知らない紫であって欲しいと思った

「望は今誰かと付き合っているの?」

 望は話が変わったことに肩透かしを食った。刹那、1つ謎が生じた。もし未来から戻って来た紫の記憶が無いのならば僕自身の記憶は無いはずである。小料理屋で聞いた紫のこの時空に来る前の出来事では同じ中学に通っていない、すなわち自分の記憶は無いはずである。有美の仮説は現実性を帯びてきた。

 望にとってあのセンター試験の日の出来事は長時間記憶から失われていた、深い考察などはしていなかったのだ。紫ほどの女性に対して、準備無しで自分の望む終着点に到着するのは無理だ。諦めて全て正直に返答することを決めた

「半年前に別れた。今は空き家です」

「成人式は来られないのに、女性と付き合う時間はあるんだ」

「付き合っている人がいるのに、昔惚れてた女性に会うのは失礼ですからね

 それに、僕は惚れている女性の目の前でその女性の心を裏切ってしまったことがありましたので、その懺悔(さんげ)の念がそうさせたのだと思います」

「昔惚れていた人に随分酷いことしたのね」

「申し訳ない」

 2人の間に沈黙が生じた

「ねえ、望の”友達”と”恋人”の違いってどう定義しているの?」

 望はこれは中学の時、紫とした話であることは今も記憶に残っている

「男女の関係になったところかな、もっと具体的に言えば口づけを交わした人は”恋人”かな」

「じゃあ、望の過去の恋人全て言ったら許してあげる」

「小夜さん、菫さん、碧さん・・・そして」

「そして?」

「大学生の久保紫さん」

 再び短い沈黙が2人を包んだ

「望、次はいつ足利に帰ってくる?」

「中学の時はデートしたことなかったね。最短ならば、次の土曜日には帰れるよ」

「ちょっとまっててね、確認するから。それとゴメン、トイレ我慢していた。少し待っていて」

 望は菫がトイレを我慢して自分の会話に付き合ってくれたことが嬉しかった

「トイレに行くならご一緒していいですか?」

「いいわよ、でも今東京でしょどうやって来るの?」

「シュレーディンガー方程式で計算すると10^19mまでは瞬間移動(量子テレポーテーション)が可能ですから10^6m位は簡単ですね」

「アインシュタインが卒倒しちゃうやつね。折角望が来てくれるなら、おしゃれな下着に着替えてトイレで待っているわ」

 望の耳に保留の音が流れた、ビートルズの曲だろうか。有美が望の耳を引っ張って小声で言った

「恋愛トークになることは予想外だったが・・・

 そんなことより、どうも仮説は正しいようだ。でかした望、さっきの約束は守る。

 いいか、この後、私のやることに上手く合わせろ」

 ビートルズの音楽が消えると

「土曜日なら大丈夫」

「あんなに一緒にいたのにデートしたことなかったね、センター試験の帰りの東武宇都宮線電車位かな」

「あのときもまっきーとすんすんに邪魔されちゃったね。望がすんすんに一目惚れしたみたいだけど。そういえばすんすんは……」

 有美が乱暴に電話ボックスの扉を開けた

「望、誰と話している」

「中学時代のいとしい人、邪魔しないで欲しいのですが」

 望は有美に忖度した

「おい、電話よこせ」 

 有美は電話を奪った

「はじめまして、B大学物理科の勧修寺有美と申します。不躾で恐縮ですが望に告白したら、忘れられない人がいると拒まれました。もし、望に対してまだあなたの気持ちが残っているならば、私は潔く諦めます。お話させて頂けないでしょうか?」

 そういうと、戸惑う望を電話ボックスから追い出した。有美は扉にお尻を押し付けて入れないようにした。

 望はガラス越しにお尻を撫で回してやろうかと思ったが、菫と量子の顔が蘇って止めた

「菫さんどうしているかな?」

 望は寂しく呟いた。

 渉が望の肩を叩いて合図した。2人は少し離れて電話ボックスを見守った。

「なあ、望。お前が過去に戻る方法に気付いて、独裁国家に拉致されて、人質を取られその方法を話せと言われたらどうする」

 望は愕然とした、2人には未来の菫の動機については伏せていたからだ

「身内がどうなっても言わないと思います。自信はないですけど」

「身内や、未来の奥さんや自分の子供でもか?」

 望は祖父と菫のことを思い出した

「祖父にきつく言われていますので、個人的な感情で祖国に迷惑をかけることはしないと思います」

「俺には無理だな。世界がどうなっても自分の愛する人を護りたい」

「有美さんが羨ましい」

 渉はタバコに火を付けて噴かした。電話ボックスの有美はアイドルが歌っているときのように手を動かしている。望は予想をしていた通り、紫と有美は相性が良いようだ、笑い声がここまで聞こえてくるかもしれない。菫でもあるまいに

「お前の家は忍者の家系か?有美はお前と同じ考えだ。科学の分野では決して妥協しない。親が殺されたって口を割らない。そんな奴が他にもいるなんてね」

 望の脳裏に菫が蘇った。菫も同じ考えの持ち主だった

「有美さんと同じ藤原の系統ですよ。最も有美さん家は本流、我が家は末流ですが」

「家系図のある藤原系はヤバいのが多いな」

「帝が太陽ならば、藤原は月ですからね。我が家のような末流でさえ”月”の役目を引き継いでいる家もあります」

 そういえば菫さんは藤流でなく源流だった

「本流の女とは付き合えないか」

 望は突然の言葉に驚いて、黙っていた言葉を吐いてしまった

「奈緒さんですね」

「ああ・・・あの1件が片付いた頃から近づいてきた、お前のことで相談させて欲しいってね」

「やっぱり渉師匠狙いだったか」

「ふっ、気付いていたのか?もしかしたら有美からも何か聞いているか」

「それはありません。そう言う話にならないよう、いつも話をそらすためにみくりさんの話をしていましたから」

「有美と付き合わないか」

「荷が重いです」

「有美の奴、お前の昔の女と楽しそうに話しているじゃないか。お前達は同じ波長をしている。波長は生まれながらのもので簡単には変えられないと思う。そして有美は自尊心が高いから、絶対男から言わせる。

 みくりは退学させられそうになったとき、有美と弁護士の有美の母親が助けたんだ。みくりはお前と性格が似ている気がする、有美に恩を感じているから、絶対有美に恩返ししたいと思っている。だから俺達が別かれるまでの繋ぎをみくりに頼むはずだ。

 ところで、菫と縒りを戻さないのか」

 望はこれは奈緒の罠だと思った

「別れた小夜もいるし、お互いあんな目に遭うのは懲り懲りなので、あの一件が解決した後、距離を置こうと約束して別れたんですよ。小夜と付き合った時点で続編は打ち切りです」

 小夜と付き合うのは今に思えば奈緒の工作があったと思う。奈緒は有美から渉を奪うために緻密な計画を立てていたようだ

「なぜ小夜と別れた?」

 望は奈緒が既にこの話はしていると思った

「渉師匠が他言しないことを信じて話しますけれど、彼女、性不一致症だったんです」

「中身は男ってことか」

 望は渉がさほど驚いていないことに図星だと思った

「いやもっと複雑で、男と女が混在していたんです。小夜さん曰くサイコロを振って2と4の目が出るときだけ女で、僕に合うときは2か4が出るまでサイコロを振り続けたそうです」

「そうか、そういう事情だったんだ」

「有名画家の描いたシュレーディンガーの猫の絵を見た帰り、宗教団体の勧誘を受けて小夜さん男と間違えられたんです」

「そうしたら、駅で大泣きされて一方的に別れを告げられた

 女でいるのが辛いって」

「異次元な理由だな、それで望はどうしたんだ」

「それも含めてずっと一緒にいるよって言った」

「お前やるな、プロポーズと一緒じゃん」

「重いんだよ、重いんだよって泣かれた。もう、他にはなにも望まないから1つだけ、私の願いを聞いて欲しいと言われた」

「何頼まれた?」

 望は深く息を吐き、微笑んだ

「私が女でいるうちに綺麗な望の記憶のまま別れて欲しいって

 僕は泣いている小夜を置き去りにして電車に乗った」

 望はその時、車窓に映る自分の顔が穏やかなのに気付いた。きっと僕も無理をしていたのだろう

「そういうことか」

 渉は電話ボックスの有美を凝視していた

「有美のあんな楽しそうな顔を見るの随分久しぶりだな」

 望は夏合宿で同じお土産を2つ買う渉を見た。ひとつは有美が持っているが、同じものを奈緒が持っているのに気付いた。奈緒はそのお土産を大事に扱っていた。あたかも自分が氷川神社でご婦人に頂いた焦げた羽根を扱うように。

 有美が笑顔で電話ボックスから出てきた。

「土曜日、紫さんと逢う約束した」

「土曜日?僕は、紫さんに袖にされた訳だ」

「何言っているんだ、望は美人2人とデートだ」

「なんで紫さんが美人だって分かるんですか?」

「話せば分かるよ、美人は美人の喋り方をする」

「そうなんですか渉師匠」

「お前はブス専門だもんな」

「心外な、付き合った女性に謝って下さい」

「冗談だから怒るな。折角中学時代の愛しい人と二人っきりを邪魔するひでぇ女だな」

「渉も行く?」

「俺は遠慮しておく、望がずっと思い続けている女がどんな美人だか後で教えてくれ」

「了っ! 楽しみ、望が惚れるだけの事はあるわ紫さん。跨線橋でキスしたんだって」

「そんなことまで話したんですか?」

 望は全身に安堵感がみなぎった。この時空では紫を裏切って”すんすん”を選んだ方だと思う。逆に未来の菫の時空は紫を選んで濃厚な恋愛行為を生じた方だ。連絡を躊躇したのは、あの日”すんすん”を選んだ自分には話をする権利がないと考えたからだ。

 有美が突然

「そういえば紫さん望に」

「何か言ってました?」

「料理屋の床の間にあった水仙の色は何色だったか?って。どういうことかしら」

 望は笑った

「きっと小夜さんと有美さんならば、水仙などはそこに存在しないっていうだろうな

 小夜さんとは水仙に関連して三島由紀夫の小説の話をした。”暁の寺”だったか?自分も読もうとしたが、辞書がないと読めない本なんて時間に余裕がないと無理だ。

 菫さんならば紫がずいぶん褪せて美しくなったって言うかな

 高校の碧さんや桃香さんなら黄色

 紫さんが期待するならリップヴァンウインクル(Rip Van Winkle Effect)すなわち浦島効果の色とか言って欲しいのかな?相変わらず要求が厳しいな。知らないと思ったな。

 日本は恵まれているね。相対性理論の本も日本語のものがたくさんあるからね、和文で読めたから見過ごすところだったけど、これも小夜が教えてくれた。

 そういえば言っていたな。龍宮なんて行くもんじゃない。先祖”俵藤太は龍に巻かれず”って言ったけど子孫の私は巻かれちゃった」

 望は家に帰ったら、紫に電話をかけ菫のことも含めて全てを話した上で作戦会議をしなければならないと決心した。中学生の頃のように

 有美は笑っていた

「そう言う話、で、望はどういう答え」

「娑羅双樹の花の色かな」

 -了-

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