第41話 不確定性原理

不確定性原理


 眠れない夜だった。

 望は今いる世界が夢の世界で眠りにつくと現実に戻ってしまうのではないかと思った

「胡蝶の夢か」

 暗闇の中うっすら浮かぶ天井の模様を見ながらそう呟いた

「僕の消滅を免れて、この問題が片付いたとしても、もう3人とは関われないな、・・・心残りは菫さんと・・・か」

 虚しいひとりごとが暗闇を一層暗いものにした。その時電話がなった。

 先日の深夜、受話器を取ると聞いたことのない言語で話された。相手も間違いに気づいたらしくカタコトの日本語で詫びてきた。時計を見ると菫と過ごした楽しい1日の次の日になっている。あのときもこのくらいの時間だった。時間も相対的に見た人が定めた”きまり”に過ぎない。近代科学を学んでいないとこういう表現は違和感を抱くだろう。菫はそういう補足説明がいらない女性だった。とにかく、壁の薄い安アパートなので、深夜の電話も無視する訳にはいかない。

「誰だか分かる?」

 望は受話器の向こうの声が誰かは分かった

「巴さんですね」

「なんで今の菫でないと分かるの?あ・な・た」

「好うる妹の声こそ聞かば、迷ふすべなどあらんかは」

「平安時代に来ちゃったのかしら?

 …ごめんなさい。迷惑掛けてしまって」

「いいよ、いい夢が見られたから」

「もしかしたら怒鳴られるかもしれないと思っていたけど、やっぱり20歳の望も望ね」

「未来の僕は少しも賢くなっていないんだ」

「懐かしいな、付き合っていたとき望はよくゲーテの詩を引いていた。それ、ファウストの冒頭よね。私のこと時々メフィストーフェレスとか言ってからかったし」

 望はカマをかけてみた

「未来の僕は夫婦になると人格が変わったんだ」

「付き合っていたときよりも結婚してからの方がずっと優しくなったかな」

「未来の方の言葉はお世辞か嫌味か分からないな」

「分かっているくせに、結婚して子供ができるまでは、望はとても優しかったな」

 望はその言葉に重い不安を聴き取った。容赦なく受話器の相手は続ける

「子供ができたら、私は望の1番じゃなくなった」

 望は意図せず未来の妻になる人の気性を垣間見てしまった

「ご自分の子供ですよね」

「私は望に甘やかされて育ったからダメ女になっちゃった。子供が出来るまで、望はどんなときも私が1番だった。望は私が望んだ通りのことをいつもしてくれた。でも望は私より子供の方を優先するみたい」

 望は菫の話に得体の知れない恐怖感があった。しかし直ぐに客観的な望が”常識”という固定概念に縛られている望を観察できた。数時間前まで、菫と一緒に過ごしたお陰で、大分頭脳が活発な状態になっている。

 小学生の時不快を感じた愛美は、今は立派な工作員になっているだろうか。自分の意にそぐわないものは、権力や法律といった大きな力を利用して自分の考えを通す。さらに所属する組織や身内に工作や恫喝をかけて自分の考えに従わなければそこにいられないようにする。自分は”正しい事をしているのだから正義に反する者は制裁されて当然”が彼女の基本理念で”正しい事”の客観的根拠が乏しいのが特徴だった。

 多分20歳になった今も考えはかわっていないだろう。多くの民間企業で敬遠される彼女の思想も、この国には学力さえあれば仕事に就ける器がある。そういうところに勤めていると風の噂で聞いた。望の人生において大きく人に対する価値観に影響を与えた少女だった。

 望はほくそ笑んだ。菫は自分のお腹を痛めた子供でさえ優先順位を付けられる。愛美のような工作員が勤め先に工作を掛けられても菫の能力があれば組織側も菫を手放すことはないだろう。人質を取った犯人に対してへつらう行為を頑なに拒む思想を持っているようだ。誰にも言っていないが望も同じ考え方を持っていた。メフィストーフェレスと天魔、自分達は同属で世間の人に心を見抜かれないように振る舞っているだけなのだ。子は親を選べないと言うがまさに的を射たことばである。

 恐らく不思議少女を演じている菫は、小夜を凌ぐ頭脳を持っているのだろう。望は会話をするまでそれを気付けなかった。というよりは、頭脳が明晰である人の大多数は他人にそれを悟られることを嫌う傾向が強い、多分に漏れず菫もそう思っているようだった。

 逆に言えば、肩書きや地位を欲するのは、愛美のように権力を誇示する用途としてうってつけなのかも知れない。”〇〇大教授が言った”といえば多数の人は内容を見ずに信じる。あとは切り抜きや都合の良い解釈を加えれば目的の意図は達成されるのだ。自分はその地位を得たならばそれに見合う振る舞いをしなければならないと考えるが、愛美に近い考え方ではそういう発想はないようだ。そういう考え方の人達は”〇〇大学合格”が重要で”〇〇大学卒業”はあまり意味がないと考えるようだ。愛美の理論に従えば大学で学んだことは余り意味がなく、大学に合格した事の方が意味があるということである。経験上、能力の高い人程大学で何を学んでいるか聞いてくるが、その逆は大学名しか聞いてこない。

 学校に大、高、中そして小があるように、人の理解度が違う。大学の教科書を中学生が読んでも、大多数は理解できないのと同じで、それぞれの階級によって解釈の度合いが違う。そして、下級の者から上級の者に対して妬みや嫉妬が生じる。望の高校では先生の一寸した間違いに揚げ足を取って自分が優秀だと誇示する輩が多数いた。かなり不快だったが、当事者としては自分の能力を誇示する機会だったのだろう。人は落ちぶれると、人の失敗にしか興味を示さなくなる。ゲーテの言葉だったか?もう高校時代には戻りたくもないし、やり直したいという後悔もない。

 望がこの大学に入学し周りの自分より明らかに優秀な人を観察するに至って、この浮き世は頭脳明晰な人にとっては住みやすい環境ではないことがよく分かった。それ故に菫が理解者に執着するのはこの種の人達が抱える孤独の反動なのかも知れない。

 もし自分が結婚前、菫に”生涯変わらぬ愛”を誓ったならば、1番でなくなったのは、その誓いを破ったことになる。未来の菫がそう感じるのならば、以後のどんな発言も言い訳にしかならないのだ。昨日の会話を通して、巴が語る時空で結婚を承諾してくれた菫に対して申し訳ないという考えしかない。常識や相対性や倫理は2人の契約には意味を為さない筈である。でもこれは簡単な話だ。”生涯変わらぬ愛”という定義が間違えているだけのことである。

 おかしい事象の殆どは定義がおかしい。望が理系の進路を選択してから比較的早い時期に気付いたことである。自然現象を真摯に観察すればそれには気付けるが、法律や思想のように人造のものについては呪いや祟りの世界と同様に、係わる人の確執軸が存在して、公理的な定義に到達するのが難しい、自然科学+実験のような明快な世界ではないのである。愛美の思想もこういう土壌から生じたといっていい。

 ”生涯変わらぬ愛”の視点は、菫、自分、第三者でそれぞれ見解が違うだろうが、自分の視点としては菫の見解を最も優先すべきであり、その言葉を破った罪は生涯背負わなければいけないと思う。菫にそんな宣言をしてはいけない女性だとは一緒にいて気付いた。そして、間違えなく未来の自分がそんな宣言はする筈がない。菫の恋愛対象は、例えば自分の子供と菫が水に溺れていたら、何の躊躇もなく菫を先に助ける位の覚悟がある人を望んでいると解釈している。菫の”1番”はそういうことだ。

 その代わり菫に多重標準があるわけでなく、菫を”1番”にする人には当然”1番”の見返りを返す。望は菫との会話の節々にそれを試す言葉を浴びせかけていたことに気付いていた。菫はかなり篤実な人でないと恋愛関係を維持することは難しいようである。すなわち菫と交際するなら重い恋愛と契約することを覚悟しなければならない。

 望にとって菫の大きなお尻に敷かれる人生に不満はない。望にとってこの浮き世は女性以外に楽しいことがたくさんあることに気付いている。また1から女性の機嫌を取ることに時間を費やすことがバカらしいと思うことがしばしばある。割れ鍋に綴じ蓋。第三者には理解できない利害関係が一致しているようだ。

 恐らく、今の菫が自分に好意を抱いてくれたのは、親身で菫に憑いた魔物を祓おうとしてくれた行為だけでなく、碧の話と、子供の頃、運動の出来た弟が両親に寵愛を受けていた話、菫の両親に逢わせると言っても一切難色を示さなかったことだろうと思った。容姿はともかくとして、これだけの条件を持つ人を見逃す躊躇はせず、積極的に品定めしたのだろう。

 望は中学の時紫に言われた「サボっていないで私たちのところにいらっしゃい」という言葉が蘇った。望は菫と話をしていて自分がその領域に到達していることを自覚した。多分この領域にいる誰を選んでも起こりうる男女の未来は対して変わらないと思った。

 数時間前の会話。2人に未来を作るには解決しなければならない問題がある。巴の歴史書の改ざんによって生じた不安定な時空から抜け出さなければならない。その謎の鍵を説く要因であると思われる巴の依頼した3つの依頼の意図が分からなかった。

 その依頼の一つ、巴が嫉妬心の強い未来の菫だとしたら何の為にあの夜、自分に小夜の話を聞けと言ったのだろうか。今の菫にはその心理が未来の自分に芽生えたことが理解できないといった。望の中に巴が未来の菫であることに20%程度の疑念が菫の会話を通して生じている。そして電話の相手は巴で間違いないようだ

「もしかして、この時空に戻ってきたのは小夜の死を回避するため?」

 望が菫と導いた答えはこの程度だった。手水舎の前で巴と切り替わったときの会話を考えると、菫は身体を巴が支配しているときは全く菫の意識を持っていないが、菫が菫でいるときは巴は意識を持っているようだった。だから2人は自分達の推理を巴に聞かれていることは当然承知の上だった 

「ははは、せっかちね」

 望は事なく話す電話の相手に圧倒された。でも直ぐに冷静さを取り戻すことができた。話したくない人に無理矢理聞くのは性分に合わない。社会にででそういう仕事を極力したくないから、理系で技術者になることを選んで出来る努力は全てしてきたつもりだ。この時点で巴からこの答えを聞くことはどうでもよくなっていた

「そうかな、今日は女の子の日の菫さん押し倒さなかったぜ」

「20歳の望はエッチね」

「なんか、菫さんと話していると映画の主人公になったみたいで言動が大胆になるよ、菫さん映画に出ても恥ずかしくないくらい綺麗だもんな」

「ありがとう。望は昔からそういうこと誰の前でも平気で言うよね」

「僕は好きな人には嘘吐かない主義なんだ」

「光栄ね。未来の私も好きなんだ」

 望は上着を羽織った

「僕は80%は巴さんが未来の菫さんだと信じていますから、嘘は吐きませんよ」

「20%は信じていないんだ」

「かなり信じていますよ、僕の家は仏教の檀家ですが、釈迦仏の言葉として伝えられている活字の40%は信じていませんから。その基準で見るとかなり信じています」

「ははは、未来の望も同じようなこと言っていたわ」

「初めて菫さんを見たときから、強烈な魅力は感じていましたよ」

「私には声を掛けてくれなかったのにね。・・・でも、大学に来て望に逢えてよかった」

「学力が足らなくて受からない大学は受験しませんから。菫さんには高嶺の花と言ったかな。でも菫さんは推薦枠で特別合格させてくれたみたいで・・・」

 短い沈黙

「菫さんに寒い思いさせていない?」

「布団から電話をかけている」

「コードレスフォンだったね。よかった」

「すっかり彼氏面(ズラ)ね」

「菫さんじゃなくても同じこと言うよ」

「私以外には言わないで」

「フフフ、未来の僕に甘やかされる訳だ」

「意地悪!

 でもそうよね、これは私の方が直さなければいけないことよね」

「自分の子供に嫉妬するのは冗談だよね」

「・・・」

 望は沈黙に耐えかねた

「添い遂げる未来があったら、その点も対処します。

 でも僕は巴さんと心中するから、そんなことを考えるのは空しいけれどね」

「3つのお願いを達成したら、望は消滅すると考えているの?」

 電話の声は重かった。望の知っている菫が発したことのない音程だった。現在の菫と自分の会話は筒抜けだろうから、誤魔化しても意味はない

「巴さんがいとしい菫さんの身体を返してくれれば、僕はどうなってもいいと思っていた、昨日菫さんと会話するまでは」

「巴って言うな!私は富樫菫。未来のあなたの奥様だ」

 望は、電話の声が明るい声になって安心した

「自分に”様”着けるんですね。未来の僕が惚れる訳だ。

 実はね、奥様が葬送の使者だと思って、菫さんに電話かけた後、恩師にも最後の挨拶をした。

 思い残すことも無かった筈なんだけどね、しばしば、小夜が死んでもいいやって思う自分に幻滅したりした。結局僕は客観的な道理よりも僕の利益を優先するのだ。自分の穢れに気付いたよ。僕が僕である所以かな。僕の人生は廓然無聖(かくねんむしょう)、ずっと疑問と不条理に整合性を問うていた。辛いことはたくさんあったが、楽しいこともたくさんあったな。

 あんなかわいい娘と口づけできたし」

「かわいい娘って誰のことかしら?」

「ゆきくれて

  木のしたのかげを

 やどとせば

  花やこよひの

 主ならまし」

「小夜と3人のときに赤羽駅で言った歌ね。でもそれ答えになっている?」

「本人に会ったら言うよ」

「珍しいわね、私の知っている望ならばそういう言い回しはしないわ」

「恩師の先祖は、お歯黒をしている兵をみて平家の将だと気づいたらしい。源氏の兵はお歯黒をする習慣はない。平家の将は配下の者に暇を与える。敵に寝返った主に従う義理はないってね。・・・菫さんは頭脳明晰で容姿も美しい。僕でなくても不思議な喋り方をする女性の正体を見抜いて仕合わせを運んでくれるだろう。だから僕は菫さんの記憶に残りたくないと何度も自分を納得させた」

「望、望を好きになった私はあなたが認識しているより望のことが好きなのよ」

「嬉しいな」

「やはり、私のこと信頼していないのね。言葉に感情がのっていないもの」

「電話の相手が19歳の菫さんならばもっと気の利いた言葉が出たかな。

 でも分からないよ、奥様にはセンター試験の日に逢った記憶も、地震で庇った記憶も、悪霊を祓う記憶も、須佐之男命から君を背負って逃げる記憶もないんだろう。どうして君みたいな頭脳明晰でかわいい女性が僕なんかを好きになるんだよ」

 沈黙が闇を覆う。望は自分から次の会話の言葉を発する気は無い

「・・・そうね、あなたと話す前は”奈緒が気にしている人”でしかなかった。無駄に耳の良い私は奈緒と小夜が同性愛者だという事は気づいていた。そして2人が2人の関係を清算したいことを。そうしたら面白いじゃない、奈緒が好きな望は小夜が好きなんて状況。私は3人を観察しているうちに、望が只者でないことは分かった、誰にも心を開かない鏑木渉の心を開けた人、極右翼の美女勧修寺有美と楽しそうに話す人、何事も人に責任を求めない実直性と篤実さ、人の陰口、悪口を言わない正直さ、愛美との会話も全て聞いていた。望の対応は100点だった。だから私は奈緒と同じ気持ちを抱いた。

 何故小夜なのかと

 名探偵ビオラはその謎に挑んでしまった。いやそれは違う、もっともっと前から望のことが気になっていた。多分私は自分の聴力の秘密を誰かと共有したくて、望ならば共有できると勝手に確信したのよ」

「期待に応えられなくてごめんな」

「会話をした望は、私にとって全てが期待以上だった。だから3人でデートに行くことを提案した。19歳の私がそうしたように。私には望に対して激しい憎悪が生まれていた。私は小夜に対して劣っていることは何もないのに私を選んでくれなかったことが許せなかった」

 望は、電話の向こうの声が堂々としていることに、19歳の菫と違う貫禄を感じ取った

「なるほどね、そういう憎悪の感情を見せられた僕は簡単に落ちたんだろうね。

 上手くやったな未来の僕は」

「今の菫だって十分羨ましいよ。過程は随分違うけど、あのときのように望は誰よりも私を好きになってくれた」

「なんて口説いたんだい?その時の僕は」

「何だったかな?」

 望はここで、電話の相手が未来の菫であることを確信した

「身体まで許すほど心を奪われたんだろう?……そうか、僕は、あのとき無理やり押し倒したのか?」

「ふふふ、望は数時間前

 玉ねぎを剥いてくれたし

 紅茶を入れてくれた

 そして微笑み返してくれた」

「どこかで聞いたフレーズだな

 あっ、そうか、菫さん、誰かに似ていると思ったがミキちゃんか。気づかなかった。

 そうだよな、喋り方が変なだけで容姿はアイドル級だもんな」

「あの日小夜が、奈緒のところに行って2人きりになったとき似てるねって言われたんだ。子供の頃からよく言われたんだよね。今じゃ懐かしのアイドルグループだけど。19歳の菫は前橋で出会った誰かさんの連れに体型と髪型を寄せているけどね。あのときの私は彼女くらいスレンダーだったのよ」

「それなら直ぐ気付くね、今は少々膨よかだから」

「今の菫が聞いたら泣くわよ。罪な男ね、体型や髪型まで変えさせるなんて」

「奥様だから口にしているだけ、膨よかなんて女性の前で言うわけないでしょう。僕だって中学までずっとデブとバカにされていたし」

 電話の相手は淀んだ空気を祓うかのように会話を続けた

「2次会でカラオケに行くから”わな”を歌ってよって言われた。私は音痴だからカラオケに行きたくないって言ったら、抜け出してパフェでも食べに行こうかって誘ってくれた。太っていた私は減量のため1年以上パフェなんか食べていなかった。でもその日は無性に食べたくなった。

 トイレに行くふりをして、待ち合わせてヒヤヒヤしながら居酒屋を抜け出した。店を出ると望は私の手を引いて少しだけ駆けた。そして2人で居酒屋を振り返って大笑いした。アイドルと手を繋ぐ口実が出来たと望は笑いながら言った。望の手から逃げると望は繋いでいた手の平を見つめていた。”スケベ”と言ってやろうと思ったが、あまりにも嬉しそうな顔をしていたので何も言葉が出なかった。そして私から繋ぎ返すことが恥ずかしくて身体が動かなかった。

 あの喫茶店だった。2人で尽きない話をした。望みの言葉1つ1つに私への気遣いと思いやりがあった。望は私に対して一貫して正直だった。自分は不器用だから好きな人に嘘を吐かないこと位しかお返しができないと言っていた。聴力が異常な私は望の言葉に嘘がないことは分かっていた。小夜に渡したくないと思った。どんな手段を使っても。

 でも、どうして望が小夜のどこに惹かれたのかについて分からなかった」

「ごめんな、たいした理由でなくて」

「どうして私はそんなことをしてしまったのだろう、明日バイトがある望を色々理由を付けて私の家に連れ込んだ。望はこの状況になっても小夜への義理を忘れていなかった。望が化学薬品過敏症で香料系に反応して髪の長い女性が苦手だと聞いたとき、全ての謎が解決した。とっさに私の身体は反応してはさみを取って自分の髪の毛を切ろうとした。

 そうしたら望は乱暴に私からはさみを奪った。私は激しい興奮状態になってはさみを取り返そうとした。望は私を抱きすくめた。その時の私は何を思っていたか記憶がない。混乱して暴れている私を力尽くで抱きすくめた。私が何をしたかったのか分からなかった。望は終始無言だったようだ。望の激しい息づかいと鼓動が私の耳を乱暴に襲う。望の目を見ると”引き留められることを前提にやったな”ということを語っているように見えた。

 私はいたたまれなくなった。”大丈夫だから”といって抱きすくめられた望の手から離れた。私はこのまま押し倒してくれることを望んでいる私に気付いた。でも望はそうしてくれなかった。”顔を洗いたいので洗面室までエスコートしてほしい”と望に頼んだ。望は安堵の表情を浮かべ微笑み返してくれた。

 望は腰に手を回して洗面所まで付き添ってくれた。棚にあるタオルを取って欲しいとお願いして望が棚に目をやると、ポニーテールを解いてシャワーヘットで頭から水を浴びた。驚いて振り向いた望の首に手を回し、濡れた髪のまま望の唇を奪った。

 唇を離して望を見ると、緊張しながらも微笑みで返した。私の惚れた人はとてつもなく大物だと思った。そして望をここまで調教した女が憎かった。

 ”まだ匂う?”

 私は訳が分からなくなっていた。望の濡れた服に手をかけるとボタンを外していった。望は無言のまま抵抗することなくなすがままになっている。私は子供の頃にした人形遊びのように望の下着まで躊躇なく降ろした。望は起きている事実に対して終始無言のままだった。

 いつからなのか分からないが私はどうしようもないくらい涙を流していた。望に背中を向けて着ているものを全て脱ぎ捨てて振り返ると、望の身体の一部は明らかに変化していることが分かった。バスルームに望の手を引いて入ると頭からシャワーを浴びた。

 ”もう匂いしないでしょう”

 というと望は壊れるくらいに私を抱きしめてくれた。

 これが馴れ初めかな」

「電話じゃなきゃ、菫さんのこと押し倒していたな」

「私の大切な想い出だけど、この出来事は消滅しちゃうね」

「どういうこと?」

「話せない」

「未来の菫さんのいる時空はこの時空と別ではないの?」

「望と付き合っている時、ハイゼンベルクの話をしてくれたことがある。これで察しがつく?」

「ハイゼンベルクは祖国のドイツが好きだが、ナチスに原子爆弾を持たせるのは危険だと感じて開発に到らなかった話かな?」

「その話も面白かった。3人分の頭脳を持ったノイマンが先の大戦末期モスクワと京都に原子爆弾を落とせと言ったことや、オッペンハイマーが資本主義陣営だけに原子爆弾を持たせるのは危険だから、共産主義陣営に原子爆弾の情報を漏らしたとか、ホントかウソか分からないような話もしてくれたね。

 でもその話ではなくて、ハイゼンベルクがアインシュタインとした話の方。

 未来が変わっちゃうからそこまでしか言えないことは察して欲しい」

 望は朧気ながら浮き世の構造のイメージが湧いた

「不確定性原理か、そしてリーマン面の残像」

「望、この世界はあなたが考えている通り不確定でかつ相補性なの」

 望は今電話している相手は幻想なのかと疑った。


 現在の科学では、人が単独で子孫を残すことができない。子孫を残すためには男だけでも女だけでも無理で、男と女という括りは同じであるが構造の違う要素を結合してのみ子孫が残せる。これを我々の時空の文明では”人”と定義している。つまり自分と菫は身体の構造が違うが同じ”人”の分類である。

 夫婦が子供を為したとき、夫婦と生まれた子供は

 量子論における電子の理屈に通じるところがあるようにも思う。量子論のコペンハーゲン解釈では電子は観察される前は2つの状態があり、観察によって1つの電子という実体になる。観察される前の電子は実体がなく、エネルギーを持った”量”と考えると辻褄が合う。

 望が考えている世界観は、この世界の出来事は全て”対”になっていて、その相補性で成り立っているという仮説である。この仮説に従うと過去は2つ存在していて、それを現在の時点で観察すると1つに収束する。その2つの過去は相補性で結ばれていて、2つ同時にエネルギーを持った”量”であるがそれを確認することができない。なぜなら観察すると観察した方に収束されるので、観察する前の”量”の状態は調べるのが極めて困難である。

 ここでいう”観察”は偶然観察したらそうなったということを示しているだけで、他の手段でも観察される前の”量”が実体化されるかもしれない。例えば目で観察する、すなわち、ものを見るには光が必要である。目で見る場合、物体から反射した光が目に入ってものを認知するわけだが、”量”が実体に切り替わる瞬間は”量”に光が当たった瞬間なのか、人が認識したときなのかは調べようがない。

 ただ、望の持っている感覚だと、”量”に光のような物理負荷がかかったときに収束し、実体化する方が合理的だと思う、恐らくこれは勧修寺有美でないと期待する答えは得られないと思った。

 

「でもしくじったのは私達」

 唐突に電話の相手は切り出した

「過去に戻る手段があることを電話でしてしまったの」

「電話の相手は有美さんだね」

「有美さんは、直ぐに連絡が取れなくなり行方不明になった」

「日本ならいいけど、東か西か、東ならば有美さんは絶対口を割らないね、目の前で両親が惨殺されても」

「それから直ぐに一大事は起きたの。私、耳がいいから、日本じゃ聞かない会話聞きつけて、覚悟を決めて禁断の鍵を開けたの。最低ね、私たちの子供置き去りにして。そしてここに来た」

「奥様は僕がそれを咎めないことを知っているよね」

「望のおじいちゃんに言われたんだっけ、自分が人質になったら犯人もろとも機銃掃射を要求しろって」

「まだ、今の菫さんには言っていないけど、そんな覚悟は小学生の頃からできている」

「同じ穴の狢ね。でもあなたが大事にしている私たちの子供が不憫に思えた。私も甘ちゃんね」 

「僕が大事にしている?他人事だね。奥様はどうなの?」

「多分人生のどこかで何かが壊れてしまったみたいね。でも最近自分の娘がいとおしくなった。多分囚われればきっと容易く口を割る」

「今の菫さんに話して居候させてもらうかい?」

 望は信じられないほど早く対策案が思いついた

「大丈夫、帰る」

「大丈夫じゃないだろう」

「望が新しい未来を作ってくれたから大丈夫」

「多重世界(パラレルワールド)じゃないのか?」

「その話は近い将来、有美さんと望が結論を出すわ、今私が喋っちゃうとまた世界が変わる」

「なあ、奥様。最後のお願いの鶴岡八幡宮って大銀杏か?もしかしてそれが未来に戻る手段なのか」

「凄い望、そんなことも分かっているの?」

「ああ、小学校の修学旅行で鶴岡八幡宮に行った。あの大銀杏、子供ながらに霊力の凄さに気付いて近づけもしなかった」

「望も私と同じで異常体質を持っているんだ」

「菫さんみたいにその異常体質で悲しい思いをしたことはないけどね」

「望・・・好き、大好き。望はそういうことを理解できる人。あのとき私はあなたを奪う勇気が持てたことを誇りに思っている。

 私の秘密は誰にも話さなかった。でもあの日ベットで打ち明けたのよ」

「ベットなんだ」

「望が執拗に耳を攻めるから。望は私のこと超能力者と疑っていたみたいだけどね。望に耳を開拓されて、誰にも言わない秘密を話しちゃった」

「今の僕はお預け状態なんですけど」

「”夢になっちゃ行けない”って言って口づけさえも拒んだわよね。口づけしていたら未来は無くなっていたと思う。

 でも望が新しい未来を作ってくれたから大丈夫」

「どうするんだよ、多分小夜は僕のこと手放さないぜ」

「あの夜、19歳の私は望が小夜を見送った後、大泣きしてそのまま眠りに就いたよ、不安で睡眠不足だったからね。罪な男ね。まあ、私がそうしろと言ったんだけど。あの夜小夜と何があったか教えてくれる?」

「あの夜、小夜の家に泊まったんだ。これだけは今日菫に正直に話せなかった。僕は菫さんに聞かれれば正直に話すつもりだったが、菫さんはその機会をくれなかった、多分、僕の中に小夜への想いが残っていることに気づいているのだろう」

「・・・・・そうなるよね、小夜にとっては望ほどの男性が向こうから来るなんてことは奇跡に近いからね」

「奥様、言葉が過ぎるぞ」

「悔しいよ、望が他の人を女性として気を遣っているなんて。でも私がそうしろってお願いしたんだものね、そうなることは予想出来たけどね」

「小夜の親戚の居酒屋で、主人に睡眠導入剤を盛られたよ、主人は小夜と結婚させたかったんだろうな。朝起きたら裸で小夜と同じベットで寝ていた。何されていたか分からないけど僕は鮮明な夢をみていた」

「はあ、腸が煮えくり返るほど悔しい。分かっていたことなんだけどね、こうなることは大方予想はついたけど。私の望を弄んでいる映像を思い起こすだけでも汚らわしいわ」

 望は、奥様の言葉に忘れたいと思っていた菫とKとの映像が蘇った。読経のように続く奥様の呪詛の詞が途切れると

「どんな夢をみたの?」

「予備校の時の出来事さ、旧友の斎藤に本屋でばったり出会ったこと、斎藤の奴、美人な彼女連れていやがった」

「私とどっちが美人?」

「そこを問題視しますか?アイドル級の菫さんに敵うのは有美さんくらいしかいないでしょう」

「素直でよろしい」

「あの夢で思い出したのは、浪人生だったあのときは、センター試験の日の記憶が無いことが分かって、その後同じ時間に2つ記憶がある事が分かった」

「私が望から聞いた話だと、紫さんと食事したことになっていて、紫さんは私みたいに未来から来たって言っていた。その時は冗談かと思ったけど、私が実際そうなっているから本当なのかもしれないね」

「今の菫さんはその日、僕が”すんすん”と前橋に行って高校2年生のぽっちゃりした菫さんと会話している」

「ぽっちゃりって言うな!」

「本人には言いませんよ」

「紫さんって今どういう状況になってるのかしら?」

「実は斎藤と紫さんは同じ大学行って、入学式の時に偶然出会った。そのとき僕の話がでたみたいですが、斎藤から聞いた限りでは、センター試験の日の紫さんとは別人の印象でした。多分今の奥様と近い状況で、戻って来た紫さんが奥様より高い頻度での紫さんを乗っ取っていて、センター試験の日から入学式の日までに元の時空に戻ったんじゃないかと思います。だから過去を忘れていると思われる紫さんには連絡取りにくい状況です」

「実はね、過去に戻る仕組み、紫さんも絡んでいるらしいの」

「ところで、捕らえられた有美さんは過去に戻る方法を発動すれば組織から逃げられるんじゃないですか?」

「そこが、相補性で”対”になっているものがないと戻れないらしいのよ。

 私と紫さんの”対”は望らしいけど、この理屈は有美さんじゃないと分からないわ」

「なるほど、その方法を知ると僕にも危険が及ぶ訳か、厄介事に係わるのはゴメンだ」

「望、ありがとう。氷川神社で櫛稲田姫命様に太鼓判を押されているから私は何の心配も無いのよ。大学時代に私と付き合わなければ望と結婚する未来が来るそうだから」

「あの巫女さんのこと信じているの?」

「望を信じている。私じゃ不足?」

「菫さんの生お尻見たかったな」

「未来で待っている。好きよ望。あなたに会えて良かった

 ごめん、今の菫が目を覚ましそう」

 通話が途絶えた。

 望は大きく深呼吸をして、受話器を置いた。受話器を置くと直ぐに呼び出し音が鳴った。

「望、私。深夜にゴメンね。声が聞きたくなっちゃった」

 菫との電話は夜明けまで続いた。

 睡眠不足のまま望は濃い珈琲を飲んで家をでた。

「ヒモになりてぇ~」

 電車の中で目をこすりながら呟く望は、冷たい視線を受け流した。

 <つづく>

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