第5話

 静かだった部屋に、ドアの開く音が響いた。


 倉沢が事務室に運ばれてきてから三十分くらいたった頃だろうか。


 俺は椅子を回転させ、開いたドアの方を見る。

 そこには響香ともう一人、見知らぬ女の人が立っていた。

 倉沢の母だ。


 倉沢の母はふわふわした雰囲気の人だった。

 倉沢の家で遊んだことは何度かあったが、大抵は家に誰もいないタイミングだったため、母と会うのは今日が初めてである。響香とも昨日初めて会ったのだ。

 長めの茶髪が、日常系アニメに出てくるようないわゆる「友達のお母さん」という感じを醸し出している。


 倉沢は母のことを、清々しいほどに大胆、と言っていたような覚えがあるが、そんな雰囲気は一切感じ取れなかった。日常系アニメに出てくる「友達のお母さん」には、大胆発言をして主人公達にツッコまれる、というシーンがあったりするが、そういうことなのだろうか。


 俺は、浮いていた倉沢が落ちてきてからずっと気を失っている、ということを二人に伝えた。

 倉沢の母は気を失っている倉沢の顔をちらりと見てから言った。

「風に乗って飛んでっちゃったんだ」

「そうみたいです」

 あらあら、とわざとらしく言って、俺の正面に置いてあった椅子に腰掛けた。

 北川さんといいこの二人といい、もう少し驚いたり心配したりしても良いはずだが、とても落ち着き払った態度だった。


 もしかして以前も同じようなことがあったのだろうか。

 俺は中学から高校の間、三年と少ししか倉沢との付き合いはないが、二人は十六年間の付き合いなわけだ。俺が知らない十三年の間に、浮き上がって風に飛ばされてマレーシアまで行ってしまい、そのうえそこで雷に打たれた、などということが起こっていてもおかしくはないだろう。


 事務室でそれ以外の会話は無かった。

 初対面の人がいる空間で会話が一切無い、というのは俺の一番苦手な状況だったが、倉沢の母のふわふわした雰囲気のおかげで意識不明者がいるというのに和やかな空気だった。



 ふと、倉沢の体がピクリと動いたような気がした。

 起きたのか。

 倉沢は長椅子の上で体を起こした。

 北川さんの処置が正しかったのか、顔色は良さそうだ。

 俺は真っ先に倉沢に声をかけた。


「大丈夫か?」


「あぁ」


 倉沢は自分の現状を把握できていない様子だ。


「おきた?」


 今まで一言も発さなかった響香が声をかける。


「私のシンバル使ったのに、結局浮いてんのね」


 そうか。

 倉沢の持ってきたクラッシュシンバルは響香のものだったのだ。

 浮くのを避けようと、姉のシンバルを借りたのだろう。


 しかし、倉沢は結局、こうして浮いてしまった。

 浮いた理由は定かではない。少なくとも今日の授業中には浮いていなかったが、家で何か浮いてしまうような、孤立感を感じることがあったのか。

 何にせよ、倉沢は浮いてしまったのだ。


 響香はシンバルを駅ビルの楽器屋で買ったのだろうか。そしてそのときにクラッシュシンバルを選んだのだろうか。選べたのだろうか。

 倉沢が買いにいったときはクラッシュシンバルが売り切れていた。

 ただ間が悪いだけだったのかもしれない。


 だがきっと、そういう運命だったということだろう。



 不思議そうな顔をしている倉沢に、俺は言った。



「お前、やっぱり浮いてたな」


「え?」


「でも、浮いてないお前なんて、お前らしくないよ」



 そう言いながら、自分でも少し笑ってしまった。

 これは励ましの言葉なのだろうか。

 倉沢にとっては皮肉にしか聞こえないのではないだろうか。


 だが、起きた途端皮肉られたというのに倉沢の表情はほころんでいる。

 何かが吹っ切れたような、そんな様子だ。


 窓からは晴れ渡った空が見える。

 少し日が傾いており、東から西へ、青とピンクのグラデーションができていた。



「よし、帰ろっか」

 倉沢の母がそう言って椅子から立ち上がった。






 俺、倉沢、響香、倉沢の母。

 地面に四つの長い影が落ちている。

 書店から出るとき俺は、楽器屋に傘を取りに行くから気にせず帰ってくれ、と三人に伝えた。すると倉沢の母が、じゃあみんなでそこまでお散歩しようよ、と提案してきたため、四人で行くことになったのだ。


 中野楽器の扉には定休日という張り紙がされていた。

 倉沢は看板を見て言う。


「中野楽器っていうんだ、おんなじ名前じゃん」

「な、これから贔屓にするわ」

 倉沢の母が、あはは、と笑った。


 傘立てから傘を抜き、開いてみた。もうほとんど乾いている。


「中野君ってさ、下の名前なんて言うの?」

 響香が尋ねてきた。

 響香には会ったとき伝えたつもりだったが、言っていなかっただろうか。



「だから、ここと同じ名前ですって」



 俺は傘を閉じ、答えた。








「中野、楽器です」

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