第4話
案の定雨が降っていた。
俺はシンバルが少しはみ出たカバンを持って駅へと走って行く。
昨日買ったサスペンデッドシンバルは専用のバッグに入っていた。
通学カバンとシンバルのバッグを両方持ちたくなかったため、通学カバンにシンバルを入れようと試行錯誤していたところ、思いのほか時間がかかってしまった。
エスカレーターを駆け下りると、ちょうどホームには電車が到着したところだった。
この時間帯はいつも高校生や大学生で混み合っている。この路線を使って通勤する人はほとんどいない。
シンバルが入っていると思しきバッグを持っている人がいれば、クラッシュシンバルをそのまま両手で持っている人もいた。
電車に乗り込むと、いつものように倉沢が話しかけてきたが、シンバルが擦れる音のせいで、少し聞き取りにくい。
「隣町に楽器屋なんてあったんだね」
「俺も知らなかった」
以前駅ビルに入っていたという楽器屋の名前は何だったのだろう。疑問をそのまま口にすると、覚えてない、と返ってきた。
倉沢はおもむろに自分のカバンからシンバルを取り出した。
俺は少し驚いた。
倉沢が持っていたのは、クラッシュシンバルだったのだ。
どういうことだ。倉沢が買ったのはサスペンデッドシンバルではなかったのか。
だが俺はそこに関しての言及はしなかった。
驚きはしたものの、安心もしていたのだ。
倉沢はもうシンバルのせいで浮くことはない。
そして俺は、驚きと安心感の中、あることを思いついた。
逆に、俺が浮けるのではではないだろうか。
倉沢はサスペンデッドシンバルを持ってくるものだと俺は思っていた。
だから倉沢が一人だけ浮くのを防ぐつもりでサスペンデッドシンバルを買った。
だが、倉沢はクラッシュシンバルを持ってきた。浮くのを避けるためだろう。
ということは、俺はおそらくクラスでただ一人のサスペンデッドシンバルユーザーとなる。
一人だけサスペンデッドシンバルを使えば、俺は倉沢のように浮くはずだ。浮けるはずだ。
訳のわからない思いつきである。
だが、浮いているとき倉沢は何を感じているのかが、俺にはわからない。
それが知りたいと思ったのだ。
倉沢は網棚の上にクラッシュシンバルを置いた。
シンバル同士が擦れる音。シンバルと網棚がぶつかる音。様々な音がする。
うるさい。
シンバルなんて網棚の上に置くものではない。
倉沢は何も気にせず、いつも通り窓の外を眺めている。
そういうところがあるから浮くんじゃないのか。
シンバルを使う授業になった。
俺はサスペンデッドシンバルをカバンから取り出す。
「中野、サスペンデッドシンバルの方買ったんだ?」
倉沢が食い気味に尋ねてきた。
「これしか無かったんよね」
「みんな多分こっちだよ」
倉沢は自分のクラッシュシンバルが入ったカバンを指し示した。
だろうな、と受け流す。
倉沢は浮くことがよほどトラウマなのだろう、サスペンデッドシンバルを持ってきた俺を心配しているのが見て取れた。
しかし俺は、浮くことが目的となったのだ。
昨日中野楽器でみた不思議な光景を思い出す。小学生の倉沢の暗く沈んだ顔が思い返された。
倉沢ばかりが浮いていては可哀想だ。
今日は、人生で浮いた経験がほぼ無い俺が、倉沢の代わりに浮いてみたいのだ。
倉沢はもう、一人だけサスペンデッドシンバルを使って浮きたくないのだろう。
浮くことから俺を守ろうとしている、そんな態度だ。
しかし俺は浮こうとしている。
なんだか少し倉沢に対して失礼なことを考えているような気持ちにもなってきた。
倉沢はもちろん浮きたくないはずだ。その横で俺が嬉々として浮いていたら、倉沢はあまり良い気分にならないのではないか。そんなことしていて何が楽しいんだ、と怒り出すかもしれない。
「あれ、クラッシュシンバルじゃないの?」
クラスメイトの宮本が話しかけてきた。
宮本はだれかれ構わずため口で話すタイプだ。俺とは結構仲が良いので問題ないが、飲食店で店員を呼ぶときなどもため口なのは少しまずい。だが決してモラルがなっていないわけでは無く、ついため口が出てしまうだけなのだ。それもどうかと思うが。
「これしか売ってなくて」
「へーえ、俺も昨日買ったけど、クラッシュシンバル買えたよ?」
「おまえらが買い占めたんだろ」
そんな会話をしているうちに、一人、また一人とクラスメイトが集まってきた。
「サスペンデッドシンバルの方か~」
「マレットで叩くんだね!」
「オーケストラっぽいなぁ」
まずい。
これでは浮けない。
どんどん人が集まってくる。
このままでは、俺は注目の的になってしまう。注目を集めることが逆に浮くことにつながる場合も多くあるだろうが、そうはいかないだろう。好意的な目が向けられているだけだ。
俺の周りには大きな人だかりができていた。
みんな自分のクラッシュシンバルはそっちのけで、俺のサスペンデッドシンバルに興味津々な様子だ。
小学生の時も同じようなことがあったような気がする。
そうだ。
あの日は今日のように雨が降っていた。
俺は傘をさして学校に行った。駅ビルで買ったあのシックな傘だ。
校庭を縦断し、昇降口へと歩いていく生徒達は、大抵が黄色かオレンジ一色、もしくはドラゴンのシルエットやデフォルメされたウサギのキャラクターなどが描かれた傘をさしていた。
俺が一人シックな傘をさしているのを見ると、友人達は興味を示してきた。
「大人っぽいな」「おしゃれだね」
そんな言葉をかけられ、嬉しくなった記憶がある。
俺があの傘を今まで飽きずに使っているのは、あの出来事のせいなのかもしれない。
倉沢がサスペンデッドシンバルを使っていたあのときとはまるで真逆だった。
倉沢だけを一人浮かせまいとサスペンデッドシンバルを買ったわけだが、倉沢は浮くことを危惧し、クラッシュシンバルを持ってきていた。
そして、一人だけサスペンデッドシンバルユーザーとなった俺は、注目の的となっている。
人だかりの隙間から、少し遠くにいる倉沢を見る。
倉沢は、暗く沈んだ目でこちらを見つめている。
俺ではなく、人だかりを見つめているのか。
何が悪かったのだろう。
俺は交友関係を広げすぎたのだろうか。
それともこのサスペンデッドシンバルは、人を呼び寄せる客寄せシンバルなのだろうか。
いずれにせよ、これでは浮けるはずもない。
結局俺は浮けないままで、クラッシュシンバルとサスペンデッドシンバルの相違点を話し合っていたらいつの間にか授業が終わっていた。
帰りのホームルームの頃には雨は止んでおり、空は晴れ渡っていた。
だが俺の気分は晴れやかではない。きっと倉沢もそうだろう。
担任の松島はいつものように明日の予定と連絡事項をまとめて伝えた。
帰りの電車の中では俺が、昨日楽器屋に傘忘れたんだよな、このまま取りに行くわ、と言ったほかに会話は無かった。
俺は倉沢と別れて、乗り換え口の改札へと進んでいく。
今日は昨日より若干時間が早いためか、昨日と比べて人が少なく感じる。
やってきた電車に乗り込む。
今日は運転席の近くで前を見るのではなく、シートに座って流れていく景色を眺めてみる。
今考えてみれば俺は、昔から浮きたがっていたのかもしれない。
あのシックな傘も、他の人とは違うものがいい、という理由から選んだものだ。
人と話すのが上手かった俺は、集団の中で浮くことはまず無かった。
クラスの大半が知り合いだったため、入学したてだというのに友達としゃべってばかりいた中学一年生の一学期。
しかしそこで倉沢は浮いていた。
一人浮いていた。
そんな倉沢のことを思って俺は話しかけた。
と、思い込んでいた。
今思えば、浮いている倉沢に魅力を感じていただけだったのだろう。
「浮いている倉沢」は、俺の目には「孤高の一匹狼」のように映っていたのだろうか。
俺は人間関係が広くなっていく現状に満足してはいたが、それと同時に孤高の倉沢に憧れていたのかもしれない。
我ながらくだらない憧れである。
しかし、今日その気持ちに気づいたところでどうしようもない。
俺は結局浮けなかったのだから。
車内アナウンスが流れる。
いつの間にか三駅過ぎており、次は中野楽器の最寄り駅であるあの小さな駅だった。
車窓からの景色を眺め続ける。
空は梅雨時とは思えないほど雲が無い。
ふと、横に流れていく木や家の奥に、何かを見つけた。
あれは何だろう。
「何か」が空を飛んでいる。
目を懲らすと、その「何か」が見えてきた。
それは、浮いている倉沢だった。
仰向けになり、家々の屋根をかすめながら風に乗ってふわりふわりと進んでいく。
俺は驚いた。
あんなに高く浮いているのは初めてだったからだ。
浮くとしてもせいぜい2メートル、教室の天井に頭をぶつけないかどうか、くらいだっただろう。
中学の入学式のときの倉沢も、中野楽器で見た小学生の倉沢も、宙に浮いてはいた。しかし、高く浮かび上がって風に乗って飛んでいく、ということはなかった。
浮いている倉沢を目で追い続ける。
電車が駅に着くと、俺は真っ先に降りて改札を抜けた。
駅の周りを囲む樹木も、不思議な雰囲気の白い駅舎も今日は目に入らない。
浮いている倉沢をどうにかしなければならない、とにかくそんな気がした。
小学校や中学校で浮いていた倉沢を思い返す。
俺は、倉沢が浮いてしまう理由がなんとなくわかったような気がした。
倉沢は、浮いてしまう運命なのだろう。
人間性や、醸し出している雰囲気といった要因もあるのかもしれない。
だが、もっと単純なことなのだ。
それは変えられない運命なのである。
倉沢は浮くべきなのだ。
倉沢を追って、ひたすら走り続ける。
倉沢は仰向けのまま、中野楽器とは反対方向の通りの上空をゆっくりと飛んでいく。
速度はそれほど速くなかったため、すぐに倉沢の真下に付くことができた。
大丈夫か、と言おうとした、そのときだった。
浮いていた倉沢がゆっくりと下降し始めたのだ。
空からゆっくりと落ちてきた人を抱き留める、それはまるで映画のワンシーンのようだった。
俺は両手を前に出し、今まさにその映画の主人公になろうとしている。
通りには誰もおらず、そよ風が木々を揺する音だけが聞こえてくる。
俺は倉沢を両腕で抱き留めた。
倉沢は死んだように目を閉じているが、心臓は動いているようで、呼吸もしている。
「大丈夫か?」
声をかけてみるが、反応はない。
「大丈夫?」
突然声が聞こえてきた。
振り返ると、そこには丸眼鏡をかけた中肉中背の男が立っていた。
青いエプロンのような物を着けており、「北川」と書かれたカードを首から提げている。
倉沢を追っていたため気づかなかったが、通りには大きな書店があり、この北川さんはその書店から出てきたようだった。
北川さんは倉沢の顔を見ると、少し驚いた表情で言った。
「あれ?倉沢君?」
「知ってるんですか?」
北川さんは問いに答えず、逆に俺に質問をした。
「店の中から見えたけど、浮いてたんだよね?」
「そうです」
救急車を呼んだ方が、と俺は思ったが、北川さんは落ち着いた態度で言った。
「安静にしてれば良いらしいから、とりあえず寝かせよう」
俺と北川さんで倉沢を担ぎ、店の裏口に運び込む。
俺は、大丈夫だろうか、と思った。
こういう場面では、大人の意見を聞かずに救急車を呼ぶという精神が大事なのではないか。結局そういうことができる人が主人公になるのではないか。
倉沢は書店の事務室の中にある長椅子に寝かせられた。
「ウチにバイトで来てる子の弟くんなんだよ」
北川さんは眼鏡に手を当てながら言った。
「え、あぁ、響香さんの」
「そうそう」
響香はここでバイトをしているようだ。
「一回だけ弟君が来たことあって、一昔前の渋い漫画とかいっぱい買ってったから覚えてるんだけど」
「ああ、結構そういうの好きなんすよね」
「僕、倉沢さんにちょっと電話してみるね」
「あ、ありがとうございます」
そう言って北川さんは部屋から出て行った。
俺はそばにあったデスクチェアに座り、くるくると回転しながら部屋の中を見渡す。
本やファイリングされた書類などが入った棚があり、何も置かれていない机が一つと、キャスター付きデスクチェアが二つ。その一つは俺が座っているものだ。そして窓際に、観葉植物の鉢と倉沢が寝ている長椅子がある。
事務室、というものに入るのは初めてである。もっと学校の職員室のような散らかった空間を想像していたが、思ったより小さくて物が少ない。
他の事務室を見たことがないためよくわからないが、意外と殺風景に思える。
唐突に北川さんがドアを開けた。
「倉沢さんと連絡ついた、これからお母さんと二人で来るって」
「あ、そうですか」
「僕は仕事戻っちゃうから、ごめんね、弟君見といてくれる?」
「あぁはい、お疲れ様です」
北川さんが去ると、部屋は驚くほど静かになった。
倉沢が起きたら、何と言葉をかければ良いのだろう。
そもそも倉沢は起きるのだろうか。
北川さんの安静にするという判断は正しかったのだろうか。
様々な考えが巡る。
だが不思議と、不安感はあまり感じていなかった。
不安も焦りも、部屋の静けさが全て拭い払ってくれる、そんな気がしたのだ。
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