第3話

 雨は強さを増していた。



 俺はさしていた傘をたたみ、エスカレーターに乗る。

 後ろを振り返ると、広大な空き地が広がっている。

 駅の東口にあった大きな駅ビルは更地と化し、何か新しいビルが建つらしいと噂されているまま三年がたった。常に車が駐まっているんだから、ビルは建たずともコインパーキングか何かを造って金を取ればいいのに、などと考えてしまう。

 帰宅ラッシュの時間帯に加え、雨ということもあってか、いつもより車の数が多かった。


 いつも通学で使っている路線とは別の方面の改札をくぐる。俺は帰宅してくる人の流れに逆行してホームへと向かった。



 明日の授業でシンバルを使うので持ってきてください。


 そう言われたのは今日の帰りのホームルームだった。

 担任の松島は連絡を小出しにするのではなく、前日にホームルームでまとめて言うのが好きなタイプだ。連絡を伝達する方法はどうだっていいが、買いに行く必要がある物を持って来い、という連絡はもっと早くからしてほしいものである。


 中学からの友人である倉沢は、小学校の時に買ったシンバルがある、と言っていた。俺が通っていた小学校ではシンバルの購入はせず、中学校合わせ九年間、授業でシンバルを使うことは無かった。

 高校に上がり新しいクラスメイトと話してみると、小学校でシンバルを使う授業があった、という声が思いのほか多く上がった。使う学校があるのは意外なことではないだろうが、なかなかの多さに驚いた。

 どうやら俺はシンバルに関して少数派のようだ。



 薄暗い空の下、線路の向こうからサーチライトが近づいてきた。

 俺は先頭車両に乗り込む。ここから運転席を眺めるのが好きなのだ。

 前方を指さし確認する運転手。せわしなく動くワイパー。水滴が逐一拭き取られる窓ガラス。車窓からのおぼろげな風景。


 雨は下校中に降りだした。

 家に帰らず電車でそのままシンバルを買いに行きたかったが、どこで売っているのかわからない。近場に楽器屋があるか探そうと思っていたが、傘を忘れたという事実のせいでそれすらも忘れてしまった。

 駅から自宅まではそう遠くないため、濡れないようにと全速力で帰ってきた。

 荷物を置いて、財布に有り金をすべて詰め込む。


 倉沢にきけば、以前は駅ビルの中に楽器屋が入っていたようで、倉沢はそこでシンバルを買ったという。

 倉沢は小学校時代、少し遠くの私立の学校に毎日電車通学していたらしく、駅ビルに詳しかった。小学校の頃の俺には、駅ビルは駅ビルとして認識されておらず、時々買い物に行く大きなショッピングセンターというイメージだった。



 俺が駅ビルでした買い物で記憶に残っている物といえば、この傘だろうか。

 三階に傘の専門店が入っており、あそこの傘がほしいと親に何度もせがんだ。壁一面に開いた傘が並べられている光景は、子供心に胸躍るものがあったのだ。まあレゴランドの方が胸躍ったけど。

 和傘やこうもり傘、きらびやかな模様が描かれた物など、多様な種類があった。

 子供向けのキャラクターなどが描かれたビニール傘もあったが、小学生の俺はシックな色合いで上質な傘を選んだ。他のクラスメイトと同じような傘が嫌だったのだ。

 あの店は、どちらかと言えば観光客向けの土産物屋だったのだろう。一応は駅ビルであったため、この街の観光を目的にやってくる人は少ないものの、時間を潰したり、お土産を買ったりする旅行客は多かったように思える。

 その駅ビルも今は更地になってしまっており、なんともいえない切なさを感じる。



 ぼんやりと運転席を眺めながら携帯を取り出し、家を出るときに閉じたままだったマップアプリを開いた。

 画面はここから4駅先にある「中野楽器」という楽器屋を示している。

 自分の名前と同じ店名に親近感を感じた。特に珍しい名前でもないが、自分と同じ名前の俳優やスポーツ選手がいれば応援してしまうのと同じような感情だろう。

 アプリ画面に赤字で示された、営業時間外の可能性あり、というのが気になったが、とにかく行ってみるしかない。



 中野楽器の最寄り駅はとてもこぢんまりとした駅だった。

 樹木に取り囲まれている不思議な駅で、白く塗られた木製の駅舎は意外と新しい。

 改札は二つしか置かれておらず、この駅で降りたのが俺だけだったというのを考えれば、混み合うことなどほとんど無いのだろう。


 俺はなんだかこの駅の雰囲気が気に入った。

 もしこの駅が最寄り駅だったら、毎日この不思議な雰囲気に浸れるのだ。

 思えば、今の最寄り駅のいいところなど、デカいということ意外に見つからない。駅ビルも更地となった今では、殺風景な東口と、シャッター街につながる西口があるだけの悲しい駅になってしまった。


 俺はまた携帯を取り出し、マップを開いた。

 中野楽器までのルートを確認し、歩き出す。

 日はすっかり落ちて、あたりは暗くなっていた。


 雨はやむ気配もなく降り続いていた。




 暗がりに、中野楽器、と書かれた看板が浮かび上がって見える。

 くくりつけられた照明によってぼんやりと照らされたその看板は、手作りなのだろうか、無駄な装飾がほとんど無いとてもシンプルなものだった。

 どうやら店はまだ開いているようだ。



 傘をたたんで古びた傘立てに入れる。


 店のドアを開けると、カランカラン、とドアに取り付けられたベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」

 店の奥から声が聞こえた。


「シンバル探してるんですけど、置いてますかね」

「シンバルですか」

 立ち並んだ楽器の陰から、店主と思しき男が顔を出す。

「今日はシンバルを買って行かれる方が多くいましてね」

「明日学校で使うんで」

「そうでしたか」


 店主は50代くらいだろうか、身だしなみは整えられ、背筋はすっと伸びており、イケおじという言葉がよく似合う。

「今も学校でつかうんですねえ、シンバル」

「小学校とかでは結構使いますね、高校で使うとは思わなかったですけど」

 俺はクラスメイトから聞いた話を、さも小学校でシンバルを使った当事者かのように伝える。

「申し訳ないんですけど、実は先ほど最後のクラッシュシンバルが売れてしまいまして」

「あぁ」

「今サスペンデッドシンバルの方しか残ってないんですよ」


 クラシックシンバルには、主に二枚を両手で打ち合わせるクラッシュシンバルと、一枚をマレットやスティックで打ち鳴らすサスペンデッドシンバルの二種類がある。

 俺がイメージするシンバルと言えば両手でばしゃぁ~んと鳴らすクラッシュシンバルの方だ。クラッシュシンバルを買おうと心に決めていた訳では無いが、無意識に俺が思い浮かべていたのはやはりクラッシュシンバルだった。


「やっぱりクラッシュシンバルの方が良いですよね?」

「まあ、そうっすね」

「倉庫の方に在庫があるか、ちょっと確認してみますね」

「はい、すいません」


 そう言って店主は店の外に出て行った。

 ベルがカランカランと鳴る。

 来るときは気づかなかったが外に倉庫があったのか。

 俺は窓の外を眺める。窓からはじんわりとした街灯の光以外、外の景色はほとんど見えない。

 水滴の付着した窓に、明るい店内と俺の姿が映り込むばかりだった。


 俺はその窓を見つめる。

 通学中、電車の中で倉沢はよく窓の外の風景を眺める。俺はつい先頭車両の運転席を向いて進行方向を見つめてしまうが、倉沢は横に流れていく車窓をただ眺めているのだ。



 倉沢と初めて会ったのは中学一年生だった。

 俺は小学校の頃から人と話すのが得意で、年の差や男女など関係なくしゃべってばかりいた。


 中学に上がっても、クラスメイトのほとんどは小学校からの顔見知りだった。

 しかし、クラスのなかで一人浮いていたのが倉沢だった。


 俺はそのとき、とりあえずクラス全員と話すという目標を掲げていた。その頃は自分は人と話すのが得意だと自覚し始めた頃だった。自分で自分の長所を自覚したときの無敵感といったらたまらない。

 迷わず倉沢に話しかけた。

 浮いている倉沢のことを気遣って、というのもあったが、全知全能になった気分で、無限に人間関係を広げていけそうな気がしていたのだった。


 今思えばそのときの話しかけ方はとても適当なものだったような気がする。とにかく話せればいいや、と言う気分でいたのだろう。

 しかしその後、倉沢と話す機会は何かと多かった。生活班が同じだったか、体育のバスケで同じチームだったか、自然と倉沢との会話の回数は増えていった。その頃もまだ全知全能気分は抜けていなかったので、自分のことにしか興味が無く、倉沢がだんだん俺に心を開いてくれているなどとは感じなかった。感じようとしなかった、という方が正しいだろう。


 だが倉沢とは何だかんだ気が合い、卒業する頃には一番の親友となっていた。




 カランカラン、とベルが鳴った。

「やっぱり、クラッシュシンバルの方は在庫がなくなっちゃってました、申し訳ありませんね」

「じゃあ、サスペンデッドシンバルにします」

 やっぱりクラッシュシンバルを使いたい気持ちはあったが、在庫がないのであれば仕方ない。別の楽器屋に行ってクラッシュシンバルを探す気力ももう無い。


「ちょっと叩いてみますか?」


「あ、いいんですか?」


 小学校でシンバルを使わなかった俺でも、クラッシュシンバルを触ったことは何度かあったように思うが、サスペンデッドシンバルは初めてだった。

 店の奥、打楽器類の近くに置かれたサスペンデッドシンバルは、金管楽器のような艶は無いものの、独特の輝きを放っていた。


 俺はシンバルの縁に近い部分ををマレットで小刻みに叩いた。

 ここからどんどん盛り上がっていく、そんな音が響き渡る。



 俺は目を閉じた。


 調子を全く変えずに叩き続ける。


 シンバルの音に聞き入る。




 不思議な感覚だ。




 夢を見ているようで心地よい。




 俺は目を閉じたまま、マレットを手放してみた。






 シンバルの音はし続けている。



 この音は誰が出しているのだろう。



 誰がシンバルを叩いているのだろう。









 いつの間にか目の前には、サスペンデッドシンバルを叩いている小学生が現れていた。


 倉沢だ。


 倉沢が小学生の時に買ったのは、サスペンデッドシンバルだったのだ。


 倉沢の周りにも同じくらいの小学生がたくさんいた。

 その小学生達は、両手にクラッシュシンバルを持っていた。

 倉沢だけがサスペンデッドシンバルを使っている。



 倉沢は、小学校でも浮いていた。



 シンバルの音は止んでいた。

 小学生の倉沢は沈んだ顔だった。

 一人浮いている倉沢は、沈んだ顔をしていたのだ。









「いかがでしたか」


「え?」


「たたき心地は」


「あぁ、良かったです、これ、買います」

「ありがとうございます」



 倉沢が浮くのを防いでやろう。

 そう思った。

 倉沢がサスペンデッシンバルを持っているのであれば、俺も持っていってやればいい。そうすれば、少なくとも倉沢だけが一人浮くことはなくなるだろう。


 俺はサスペンデッドシンバルの入ったバッグを背負って店を出た。

 雨は止んでいた。




 駅まで戻ると、ホームに一人、電車を待っている女子高生がいた。

 同い年か、一つ、二つ年上か、もしかしたら大学生かもしれないが。

 俺が電車の時間を調べようと携帯を取り出したところで、彼女は話しかけてきた。


「楽器買ったんだ?」

「あ、そうです、中野楽器で」

 年上の可能性を鑑みて、敬語で答える。

「まあこのへんで楽器買えるとこなんてあそこくらいしか無いけどね」

 その通りだ。

 その通りだが、そんなことを言っていたら会話が盛り上がらないということがわからないのだろうか。

 自分から話しかけておいて水を差すようなことを言うのはどうなんだ。


「あそこ、僕と名前一緒なんですよ」

「中野君ていうんだ」

「はい」

 名前が一緒、という話のネタがあって良かった、と俺は思った。それすらなかったら本当に盛り上がらない会話になってしまっていただろう。

「私は倉沢っていうんだ」

 俺は倉沢に、響香という姉がいることを思い出した。

「よろしくね」

「あ、よろしくです」

 俺と同じような、やけに無責任な「よろしく」だ。この人と俺はこの後関わることがあるのだろうか。


「私の弟の友達にも中野って人いるよ、ていうか、そのくらいしか友達いないと思うけど」

 おそらく倉沢の姉で間違いないだろう。

 まあ、倉沢の姉も倉沢ではあるのだが。

 とりあえずこの人も少しは話を広げる気があるのだな、と安心した。


「弟さんがいるんすね」

 俺は倉沢のことも、目の前にいる響香のことも知らないふりをした。

 どうせこの人とまた会話する可能性はほとんど無いだろう。

 これまでの経験で培った、あえて嘘をつくことによって会話を円滑に進める、というもう二度と会わないであろう人だけに使える技である。


「君と同じくらいの歳だよ」

「倉沢君、ですか、聞かないですね」

「君は別の中野なのかぁ」


 駅の放送案内がきこえてきた。ちょうど、次の電車で帰ることができる。

「俺、次のです」

「私も」


 電車がやってくる。


 電車に乗り込んでから、中野楽器に傘を忘れたことに気づいた。

 その話をすると響香は、明日は午後から晴れるらしいよ、と言った。

 じゃあ朝は雨なのか。困るんだが。


「楽器、何買ったの?」

「シンバルです、明日学校で使うんで」

「シンバルかぁ、私も昔買ったなあ」

 響香は淡々と言葉を発する。


「買ったは良いけどあんまり使わないんだよねえ」

「小学校で使うことも結構あるっぽいですね、俺は使わなかったですけど」

「高校で使う方が珍しいんじゃない?」

「そっすね、しかも今日サスペンデッドシンバルの方しか売ってなくて」

「弟がシンバル買ったときも、クラッシュシンバルが売り切れちゃってたんだよね」

 響香は、自分自身のことに関してはほとんど話さず、まるで俺が倉沢の友達であるということを見抜いているかのごとく、倉沢の話ばかり出してくる。

「それでサスペンデッドシンバル買ったんですか?」

「たぶんそう」


 サスペンデッドシンバルを叩いている小学生の倉沢を思い返した。

 倉沢は運悪くクラッシュシンバルを買えなかったのだ。

 そのせいでクラスの中で浮いてしまった。


 俄然、倉沢が可哀想に思えてきた。


 倉沢はもう浮きたくないはずだ。

 思えば中学時代の倉沢は、学年が上がるにつれて友達も増えていき、クラス全体を前にしての発言もよくするようになっていった。

 当たり前のことではあるが、いつの間にか浮かなくなっていたのだ。

 高校に入ってからは、倉沢が明らかに浮いている姿は一度も見たことがない。


 大丈夫だ倉沢。

 俺も明日サスペンデッドシンバルを持っていく。


 もうお前を浮かせまい。



 電車から降り、ホームから改札へエスカレーターで上っていく。

 響香は階段を駆け上がった後、エスカレーターに乗った俺が少し遅れて上がってきたのを見て誇らしげな顔をした。


 ホームもコンコースも、来たときより人が少なくなっている。


 響香は、じゃあね、とだけ言って階段から駅ビルの跡地へと歩き出した。


 俺は携帯を取り出し、メッセージアプリを開く。

 倉沢との、駅ビルの中にあった楽器店に関してのやりとりが表示される。

 帰る途中で響香に会ったことも、倉沢が浮くのを防ぐためにサスペンデッドシンバルを買ったことも、シンバルを買った店が自分と同じ名前だった、ということすら言わず、隣町の楽器屋に行ったという旨のことを伝えた。


 空は雲に覆われており、星はほとんど見えない。


 明日の朝も、やはり雨になるのだろうか。


 俺は携帯をポケットにしまい、雨上がりの駅ビル跡へと歩き出した。

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