約束小道 -8【最終話】
まるで時が止まったかの様な獣道を抜けて、マサキは広場に顔を出した。随分と久しぶりに通る森の中、枝の先を引っ掛けた腕を摩りながら微笑む。
「やっと見つけた、狼」
「早かったな」
のろのろと頭を持ち上げた狼が欠伸をする。以前と寸分変わらぬ光景にマサキが吹き出した。ひとしきり笑って浮かんだ涙を右手で拭う。
「変らないな、狼。もうあれから六十八年経ってるんだぞ」
「その程度の月日、私には有って無いようなものだ。お前こそ以前と同じ子供の姿ではないか」
狼の言葉に、そうだな、と応じる子供に、老人の姿が重なる。老けたな、と呟いた狼をマサキは軽く睨んだ。
「幽霊は好きな年齢になれるみたいだな」
愉快そうに己の手足を見るマサキに、狼は呆れた視線を向ける。あの頃、物好きだったのは子供ゆえではなくマサキゆえだったようだ。
「高校生になって狼に会いに来たらここが遊園地になってて驚いたよ」
「お前が成長するようにこの辺りの様子も変わるだろうよ」
「遊園地の中を探しても見つからなかったのに、なんでここは昔のままなんだ、狼?」
マサキが狼と別れてから、この場所は再開発で遊園地になり、その数十年後、廃園になった。その跡地には今はマンションが建っている。それなのに今こうして狼と顔を合わせているこの場所はまるであの夏に立ち返ったようだ。ただひとつ広場の端にあった桜の木だけが無くなった。
「桜が咲いているところ見たかったのに、残念だな」
マサキの言葉に狼はふっと小さく息を吐き、桜の木があった場所へと目を向けた。そうだな、と口の中だけで呟き狼はすぐに視線を戻す。
「ここは外界とは隔絶されている。わかり易く言えば異空間だな。考えてもみろ、子供が簡単に入り込める場所に狼がいたらとっくに駆除されている」
「それなら、なんで俺は入れた?」
「崖から落ちたお前を私が招いたからだ。頭を打って気を失った子供を放置するわけにはいかないだろう。お前は私が『存在している』と知っていたからここまで来れたんだ。遊園地になってからは見つからなかっただろう? それはお前がこんなところに私が『居るはずが無い』と思っていたからだ」
「俺が今回ここに来られたのは?」
「私の『声』が聞こえたろう? 本来私の遠吠えは死者にしか聞こえない。あるべきところへ辿りつけない魂が『声』に惹かれて集まるんだ」
たしかにマサキはここに来る前に獣の遠吠えの声を聞いた。そうして気がついたらこの森の入り口に立っていたのだ。
「そっか。でも狼が日常に適応できなかった子供の空想でなくて良かった。探しても見つからないから、幼い俺が幻を事実と勘違いしていたのかと思ってたんだ」
「単純なのも相変わらずだな、マサキ?」
狼が意地悪く笑う。マサキが睨み返すと狼は懐かしそうに目を細めた。
「今更だけど狼ってどれくらい生きてるんだ?」
「もう忘れたが五百は越したな」
「それは、すごいな」
おそらく狼にとってマサキや草太と過ごした時間はマサキの想像よりもはるかに短かい。いままでも、そしてこれからも狼はここで独りで過ごしていく。できればあの夏のように傍らで穏やかに過ごしたい。
「でも、もう時間がない」
この数十年、マサキはそれなりに心安らかに生きた。人の生を全うした今となっては心残りは狼のことだけだ。しかしたった今、その狼との再会の約束も果たしてしまった。己をこの世に繋ぎとめる「執着」はもはや無い。
マサキよりもずっと長い間、人の終わりを見ている狼はもうそのことを知っているようだった。
「狼、あの時の実香ちゃんとの内緒話を教えるよ」
実香の名につきりと胸が痛む。出会ったときにはすでに命のなかった少女。その出会いが恋だったと知ったのは随分と後になってからだった。おそらく狼はそんな自分の心に気が付いていた。この狼は案外人間臭い。
「本当は俺の名前は
初めに狼に会った日もそうだ。学校で名前のことをからかわれ、悔しくてひとりになるために森に入った。崖の上の小道を歩いている時に、飛び立った鳥に驚いて足を踏み外した。そうして滑り落ちた先で狼と出会ったのだ。
「そうか」
「なんだつまらないな。もう少し驚いてもいいだろ」
頷くだけの狼にマサキは口を尖らせる。不満そうにしながらもマサキは狼の首に抱きついた。
「俺の分の鎖も用意してくれたんだな」
マサキが狼の足に繫がる丈夫な鎖を撫でる。重い鎖は昔と同じように鈍い輝きを放ち、その数を二本に増やしていた。
まだ新しい方の鎖をマサキが引き寄せる。岩に止めつけている鉄の輪はあっけなく外れて落ちた。そのまま地面に吸い込まれるように消える。試しにもう一方の鎖も引っ張ってみたが、輪はびくともしなかった。
「やっぱりダメか。草太さんでないと外せないね」
「今更一本になると落ち着かないな」
前足を持ち上げて狼が地面を掻く。残った鎖が重い音を立てて波模様を作った。
「また来る、なんて約束はもうできないから、代わりに名前を置いていくよ」
狼の首筋の毛を梳きながらマサキが言う。
「
「随分と可愛らしい名だな」
「そう言わずに受け取ってよ。俺にはもう必要の無いものだから狼にあげる。狼の為の狼だけを表す言葉だよ」
「それは、悪くないな」
答えた狼にマサキが微笑む。子供の顔には不釣合いな長い月日を感じさせる笑みだ。
「これで、思い残すことは何も無い」
ゆらりとマサキの輪郭が揺らぐ。水に落としたインクが滲んで消えるようにゆっくりと空気に溶けていく。
「先に、人が死んだらどうなるか確かめてくるな」
遠足に出かける子供のように、マサキは楽し気に手を振った。もうそこに誰かが居た形跡など欠片も無い。
「まったく、お前が居なくて誰が私の名を呼ぶんだ?」
勝手に再会の約束を取り付けて、今また勝手に去っていった友人に、狼は溜め息をつく。もうマサキの他に狼を知る者は、草太と、おそらくもう会うことのない二人の人間だけだ。こんな誰にも呼ばれない名に何の意味があるのか。
それでも、
「礼を言うのを忘れたな」
胸に残る暖かさに狼は空を仰いだ。
約束小道 終
四時話集 藤名 @tsk_yc
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