約束小道 -7

 雪はいつの間にか消え去り、緩んだ空気に遠く花の香が混じる。水墨のような景色が若芽に覆われる変化はいつも早急で、この時期は知らず狼も気分を高揚させた。

 広場の端の古い山桜が咲いた。ここ十数年沈黙していたが、思い出したように葉と薄紅の花に枝を賑わせている。蕾が綻んでいる事は少し前から気がついていたが、直視する気にはならず狼は時折ちらちらと視線を向けていた。


「なんだい、この前から失礼だね」


今日もまた横目に眺めていた狼に声が掛かった。落ち着いた女の声は山桜の方から聞こえる。狼が嫌そうに顔を歪めたのと同時に、声の主は桜の幹の裏から姿を見せた。ゆっくりと近づいてくる。

 

「随分とご無沙汰だったな、さくら。十年位か?」

「正確には十二年だね。あたしがいなくて寂しかった?」


 櫻と呼ばれた妙齢の女は口の端を持ち上げた。ゆるく束ねた長い髪に、赤色に、透ける白を重ねた着物、紅を引いた唇が弧を描く姿はなかなかに様になっている。しかし不機嫌に鼻を鳴らした狼に、女はつれないねぇ、と笑った。


「そういえば少し前に来た子供。マサキとか言ったっけ? あの子、可愛かったね。あたしも一緒に遊びたかったわ」

「お前みたいな女と一緒にいたらマサキの性格が捻じれる」

「何であんたはそう突っかかってくるかね。いくら草太があたしに惚れてたからって大人気ない」

「何の話だ」


憮然とする狼に櫻はからりと笑う。


「だってそうだろう? 春になると草太の気がそぞろになるから拗ねてんだ」


ねえ、と念を押す櫻に狼が黙る。是も否も、どちらを答えようとも口の回る櫻には揚げ足を取られる。狼が無視を決め込んで寝る体勢に入ると、櫻はつまらなさそうに形の良い眉を歪めた。


「あんたはいつまでここにいる気だい?」


狼の隣に腰を下ろし、櫻が問う。


「この鎖が消えるまでだ。お前だって知っているだろう?」


狼がここに留まる理由など、とうに櫻は知っている。答えると、今度は櫻が呆れたように息をついた。


「草太は、病で記憶を失って百五十年も前に死んだ。あんただって知ってるだろう? 何百年待ったって来るもんか」


その情報を当時狼に伝えたのは櫻だ。狼が知らないはずはない。


「あたしはここから動けないけれど、全国にいるあたしの仲間達の情報は確かだよ」

「お前の話を信じていないわけではない。ただ、待っていると決めたのは私自身だ」

「ったく、頑固だね。せっかく人が親切で言ってるのにさ」

「悪いな」


伏目がちに眉を寄せ、櫻は諦めた様に狼に視線を流す。狼はそんな彼女を少しだけすまなそうに見た。


「あたしも別れの挨拶をしにきたんだ」


その言葉に狼が頷く。十二年、姿を見せなかった櫻が現れた時点で薄々気付いてはいた。ただやはり本人の口から聞かされると目を背けたい気分になる。

 仲の良い隣人、ではなかった。いつだって草太を挟んで言い争っていたし、この世に存在する月日は狼よりも短いのにいつも姐さん風を吹かせていた。しかし今となっては草太を知るのはもう狼の他にこの櫻しかいない。


「あたしもとうとう寿命が尽きた」


穏やかに笑う櫻には、終わりへの焦りや恐怖は感じない。


「寿命が尽きた、と言うのならもうちょっとそれらしい姿で出てきたらどうだ?」


引き止める言葉は持ち合わせていない。代わりに狼が若い女の姿では説得力がないと軽口をたたくと、櫻が笑みを深くした。


「散り際も美しいのが女ってものだろう?」


艶やかに唇を持ち上げた櫻に、やはり敵わないと悟った狼は口を噤む。


「あたしはもう充分生きた。心残りはあんたのことくらいだ。けど良い女は相手を待ったりしないのさ」

「誰が良い女だ」

「あたしに決まってるだろ。寂しかったらあんたが追ってくるんだね」


口元を隠してくすくすと笑う櫻を狼が睨み付ける。しかし効果はないようで、櫻はひらひらと手を振った。


「まあ、あんたの気が済むまで待つといいよ。草太も、あのマサキって子供も約束を破るような性質じゃなさそうだ」

「お前に言われるまでもない」


ふんと鼻を鳴らした狼に、櫻は可愛くないね、と呟く。狼は聞こえない振りをして欠伸をした。


「おや、そろそろ限界みたいだ」


ちょっとそこまで、とでもいう身軽さでタイムリミットを告げた櫻は、狼の首に白く細い腕を回す。


「じゃあね」


耳元で聞こえた声はまたたく間に消えた。幽かに残った春の香りが空に溶ける。


「薄情だな」


返事も待たずに居なくなった櫻に、狼が息をつく。彼女の本体の枝が笑っているかのように風に吹かれて揺れる。ちらちらと薄紅の花弁が舞った。

 二百八十年あまり狼と共に過ごした山桜が、力を失くして地に落ちたのは次の冬が過ぎる頃だった。その幹が土に還り、次の生を育むまで狼はただ見守っていた。

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