約束小道 -6
すべての音が消えたかのような静寂の中、少女は目を開けた。辺りを覆う真っ白い光に瞬く。すぐに一面の雪景色だと気がついた。
何もかもが白く、雪の花を咲かせる木の幹だけがどこか寂しげな色を覗かせている。少女が体を起こすと、声が掛かった。
「やっと起きたか」
「え?」
声の方へ顔を向けると、僅かに土肌が覗く低い崖の斜面に凭れて、少女と同じくらいの歳の少年が座っていた。高校生だろうか。
「えっと、ここはどこ?」
少女が気になっていることを訊く。怯えを含んだその声に少年は少しだけ口の端を上げた。
「覚えていないか?」
問い返されて記憶を辿る。直近の記憶は自宅のマンションの階段を走り降りて、積もった雪に足を滑らせたことだ。その時階段から落ちて気を失ったにしても、こんな森の中で目覚めるはずはない。
「階段から落ちたのは覚えているけど……」
「そう、お前は階段から落ちて気絶した。ここは簡単に言えば死者の寄り合い所。強い後悔や執着で世を彷徨う魂がここに来る」
「えっと?」
あまりにも想定外な言葉に少女が声を漏らす。どこか古めかしい話し方も相まって、少年が危険な人間だったのかと身構える。
「信じられないのも無理はないが、事実だ」
「それが本当だとして。私、打ち所が悪くて死んだの?」
「違う。先ほども言ったが気絶しているだけだ。まあ通常生きた人間の魂はここには来ないんだがな。生霊ってやつだろう」
「それは幽体離脱みたいのをしてるってこと?」
「そう。その証拠にこんな場所にいるのに寒さは感じないだろう?」
言われて、少女は改めて自分の服を見る。学校の制服だがコートは着ていない。それでもこの一面の雪の中確かに寒さは感じない。手で雪を掬っても冷たさは伝わってこなかった。
「時間が経てば元通りになる。心配するな」
「つまり、夢を見ているようなものなんだ、今」
呟いた少女に少年が頷く。少女は一度辺りを見回して、それからゆっくりと少年に近づいた。
「あなたも生霊なの?」
少年は薄手のシャツ一枚で、少女よりもさらに寒そうな服装をしている。しかし凍える様子は無い。
「いいや。私はここの案内人のようなものだ。死んだ人間の交通整理をしている。まれにお前のような生きたまま入り込んでくる人間の相手もするが」
その説明を聞きながら、少女は少年の手首に二つの鉄の輪が嵌められていることに気が付いた。その輪から繋がった鎖は崖下の岩に留めつけられている。
視線に気づいた少年が手首を持ち上げてみせた。擦れた鎖がじゃらりと重い音を立てる。
「気になるか?」
なんとなく気まずくて少女は曖昧に頷く。そんな少女の様子に少し笑い、少年は逆の手でゆっくりと鉄の輪を撫でた。
「これを外せる人間を待っているんだ」
愛おしそうに輪を見つめる少年は外見よりも大人びて見える。
「それ、私には外せないの?」
「無理だ。これは物理的なものではないからな。どんな道具でも不可能だ」
「物理的なものではないってどういう意味?」
「ここは死者が来る場所だぞ。人間が住まう世界とは違う」
「……そうなんだ?」
いまいち納得できないが、頷く他はない。幽体離脱なんて漫画のようなことが起きているのだ。そういう事もあるのだろう。
「そんな訳で、私もたいがい暇でな。時々お前のような意思のある人間が迷い込んでくるのは嬉しいよ。どうせ体が目覚めるまで何もできないからゆっくりしていくといい」
これまで淡々と話していた少年が思いの外嬉しそうに言った。乏しい表情と古臭い話し方で人間離れして見えた少年に急に親近感が沸く。よく見れば、彼はきれいな顔立ちをしている。今更ながらそれに気がついて少女は少しだけ頬が熱くなった。
「ずっと、逃げ出したいって思ってた」
少年の隣に座って、少女が言った。まさかその願いがこんな形で叶うとは思っていなかったけれど。
「うちの親仲悪くてさ。今日も家に帰ったら喧嘩してたんだ」
毎日のように言い争う両親を、いつもは自室に篭ってやり過ごすのだが、今日は自分の方が後に帰ってきた。玄関の外まで響くその声に二人の前を通って部屋に入る勇気はなく、そのまま家を出てきた。
いつからこんな風になったのか、どうして私が平気だと思うのか、そんな不満が積もり積もって、意味もなくマンションの階段を駆け下りた。そうして足を滑らせたのだ。
いつも両親の声を聞きたくなくてベッドに潜って嵐が収まるのを待った。腹の奥にわだかまる空気を押し出すように浅く呼吸を繰り返し、流れ出た涙を枕に押し付ける。
「そんなに嫌なら結婚なんてしなければ良かったのに」
少女の話に、少年は静かに耳を傾けている。この現実感の希薄な状況に少女の口は随分と軽くなっていた。話し終えていくらか気まずそうに口を押さえる。
「ごめん。どうでもいい話で」
こんな話、誰かに言ったところでどうにもならない。聞かされた方も迷惑だ。初対面の相手に家の事情を話すなんてどうかしている。
込み上げてきた後悔に、少年の顔を見ていられなくて地面の雪に視線を落とす。手で掬ってみても融けることのない雪に改めて不思議に思う。やはりこれはただの夢ではないか。
しばらくの沈黙の後、お互いの息遣いだけが聞こえる空間に気まずくなって顔を上げた。その先で少年と目が合う。彼は大人びた顔で微笑んだ。
「友人も、同じようなことを言っていた」
正面を向いた少年に倣って、少女も前を向く。視線の先の木の枝からぱらぱらと雪が落ちた。
「幼い頃両親を亡くした友人は苦労したようでな。周りの人間と上手くいかなかったらしく、皆いなくなればいい、自分なんて生まれなければ良かった、と零していたよ。私がそれを聞いたのはその一度だけだがな」
「小さい子なら誰か助けてくれなかったの?」
「貧しい村だ。皆、自分達が生きていくだけで必死なんだ。余計な食い扶持は増やせないのさ」
「それでそのお友達はどうしたの?」
「さあ、ある日ぱたりと来なくなってから久しく会っていない」
少年の友達の話にしては随分と時代錯誤だ。しかし肩を落として苦く笑った少年に、それ以上尋ねることは出来ずに口を閉じる。
「すれ違いも対立もいつだって隣にあって、辛さも痛みも人によって与えられる。けれど心が震える喜びも、泣きたくなるような癒しも結局は誰かがいるから知ることができる。いつまでも独りきりでいるほうが無意味だ」
少年は手首の輪を大切そうに指先で撫でる。すぎるほど穏やかに紡がれたその言葉に、少女はなぜか泣きたい気分になった。
「せめてそう伝えてやればよかった」
ぽつりと付け足された言葉は、少女に向けられたものではなさそうだ。涙など一筋も流れていないのに、なんだか少年を見てはいけない気がして目を逸らす。一面白で覆われた綺麗で物悲しい景色はまるで彼の心の内を表しているようだ。
「あれ? 何か、聞こえる」
唐突に、遠く拾った音に少女が声を上げた。時折木から雪が落ちる音だけが響くこの空間に、新たに生まれた音に少女が耳を澄ます。だんだんと大きくなるそれはやがて人の声だと気付いた。
「と……こ、……うこ」
それはとても郷愁を感じる声だった。
「……瞳子」
とうこ、と自分の名を呼ぶのは母の声だ。不安そうに揺れる声はいつになく弱々しいが、聞き間違える筈はない。聞きたくなくて飛び出してきたはずなのになぜだかひどく懐かしい。
「お母さんが、呼んでる」
「私には聞こえないな。目覚めが近いんだろう、きっと」
少年の言葉が終わるか終わらないかのうちに目の前が暗くなる。
「お前が思っていることをそのまま両親に伝えてみろ。逃げ出すのはその後でも遅くない」
意識が途切れるその前に、少年の柔らかな声が聞こえた気がした。
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