処分しないで、主様

羽間慧

処分しないで、主様

 作業に没頭する主様のもとへ、私はマグカップを届けた。猫舌でも火傷しない温度にしているのだが、主様はいつも必死で息を吹きかける。


「ありがとう、ニィーベ。今日の紅茶も美味しいよ」

「もったいないお言葉でございます」


 私はお盆で顔を隠す。主様の笑顔を見るだけで、自分に恋心を向けられていると勘違いしてしまう。そんな私の心中を知らない主様は、自分の隣のいすを叩いた。


「ここに座って」

「申し訳ありません。私は店の前で宣伝をしないといけませんので失礼します」

「雨だから人は来ないよ。それに、きみを外に出したくない」


 主様は私に右手を差し出した。


「先にニィーベの状態を見させてくれ。マグカップを運んでから異変がないかどうか」

「私は平気です。主様は過保護すぎますよ。ものを運ぶのが、自動人形としての生きがいなのですから」


 私は絹糸でできた横髪を耳にかける。意味のない動作をしないと、異常のないはずの体に不具合が生じてしまいそうだった。


 私は売れ残った四世代前の自動人形だ。動かせないと状態が悪くなるという理由で、主様が展示品としての使命をくれた。商品の陳列とお茶出しくらいしかできない私に、主様は月に一度メンテナンスをする。じっくりと念入りに。ほかの機械人形師なら十五分で終わらせてしまうところを、主様は一時間も費やす。先に済ませるべき注文や配達があっても、お構いなしだ。私が遠慮するのは当然だろう。メンテナンス中に何も知らない客が訪ねてきたら、女性の腕を執拗に触る主様を変質者だと思うに違いない。


「ニィーベ。僕の目はごまかされないよ。利き手に違和感があるからお盆を使った。違う?」

「たまたまです。考えすぎですよ、主様。糖分が足りていないのかもしれませんね。頂きもののお茶菓子を持ってきましょうか?」


 図星だったことを悟られないよう、私は微笑む。昼から雨は止む予報だ。温度変化で修理の依頼が舞い混みやすい。主様には常に万全でいてもらわなければ。


「嘘までつくような不具合は、放っておけないなぁ。きみの部品は生産されていないし、もう処分するしかないか。テストしたい機械はいくらでもいるしね」


 そんなことを言わないで。信頼すらなくなれば、ほかの自動人形に勝てる要素は皆無だ。人肌に近い体温や、可愛げのある言葉遣いは備わっていない。私は反論しようとしたが、黙り込んだ。


 ニィーベ、頭では理解しているでしょう。主様の隣に、自分のような自動人形はふさわしくないと。蚤の市で売られるような旧式は、実用性よりも鑑賞用としての価値しかありません。主様のサポートを望んでいるのなら、判断を受け入れるべきですよ。


 私は冷静に考えた結果、処分は嫌だと子どものように駄々をこねていた。


「おそばに、いさせてください。私が動かなくなるときまで」


 こんなわがままを言ってしまって、主様の機嫌がますます悪くなったら。不安のあまり、下げた頭を動かすことはできなかった。


「動かなくなる日なんて来ないよ。僕が修理してあげる。足りない部品は新しく作る。だから安心して。僕だけのニィーベ」


 主様が私の頭を撫でた。髪の毛を無心で触っていた幼少期より、ためらいが伝わる。そんなに気を使わなくても髪は抜けないのですが、素直に優しさを感じておきましょう。


「はい。主様の自動人形でいられて……」


 自動人形に睡魔は来ないはずだった。途切れることのない記憶が唐突に断たれた。





 長い眠りについていた私は、重いまぶたを開ける。


「おはよう、ニィーベ。僕が誰だか分かる?」

「お父様によく似ておいでです。主様」


 頭を撫でる手は硬く、結われた髪の毛に白いものが増えていた。目元に刻まれたしわの深さからも、主様が一人で重ねた年月を感じられる。


「あのときの続きを聞かせて」

「仰せのままに。主様」


 私は途中になっていた返事を囁いた。

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処分しないで、主様 羽間慧 @hazamakei

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