朧月夜

浦科 希穂

朧月夜

 かの文豪、夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという。

 しかし、どうしたものか、今宵の月は朧月である。

 春の風物詩、里わの火影ほかげも森の色も、その他全てをかすませる朧な月のよるである。

 私は月を見上げながらポツリと君に言った。

「残念ながら、今宵は君に愛をささやけそうにないよ」

 隣を歩いていた君はチラと私を見上げたが、いつものように、やれやれといった調子で一つ肩をすくめただけだった。

「君は悲しくないのかね」

「……先生、そんなことは至極どうでもよいのです。本当に今月の原稿は出来上がりそうにないのですか?」

 凍えそうなほどのめた言葉が春のを駈ける。

「君、季節違いもはなはだしい。今は春だ、そんな冬みたいな言葉を使ってくれるな」

 私は君のあまりの風情ふぜいのなさに驚いて、呆れたように苦言をていした。

 しかし、君はそんな私を無視したかと思うと、ツカツカと歩みを早めてしまった。

 私も君にならって、やれやれと肩を竦めてみせる。

 それから、君の背をゆっくりと追うことにした。たまに速度を速めながら、けれども、決して近付き過ぎぬように、そして、この朧月夜に君を見失わない程度に。

 春霞はるがすみに君を霞取られてしまってはかなわない。

 そうして、カラコロと私の下駄の音だけが夜道に響く。着物のそでに手を突っ込んで、ゆうるく腕を組みながら。

 しばらくして、前を行く君がふと何かを見つけたように突然道端にしゃがみ込んだ。

 不思議に思いながら近づいてゆくと、君は私の方なんぞ見向きもせずに小さな手招きだけを寄越した。

「先生! 見てください、ヒメスミレが咲いていますよ。綺麗ですねえ」

 ヒメスミレに夢中になっている君の横顔を眺めながら、私は人知れずそっとみをこぼした。


 ああ、そうだ、君は足元に咲く小さな花にもきちんと気付く子なのだ。――君の真上には立派な夜桜が咲き乱れているというのになあ。


 抑えることの出来なかった笑みがふっと口からこぼれてしまった。

 私の笑い声に気付くと、君は不思議そうに私を見上げながら小首をかしげた。

「いや、なに、夏目先生は随分と回りくどい言い方をしたものだなと思ったんだよ」

「……?」

 ますます不思議がる君のまんまるな目をじっと見つめながら私は言った。それはもう大真面目な声で。

「私は君を一等、愛しているよ」

 途端、二人の間で、さあっと桜が吹雪いた。

 君はじっと私を見つめていたが、やがて、大きなため息をいて、すっくと立ち上がった。

「そんなことは随分と前から存じておりますよ。そんなことよりも! 公私混同はいけません、今は作家と編集者という立場ですよ!」

 そんなことか……手厳しい。

 しかしながら、君の頬が桜の花弁のように薄桃うすもも色に染まっているさまを見て、私は胸の内からこみ上げてくる笑みを止められなかった。

 ただ、あまり君を怒らせたくないので私はそれを告げずに、そっと胸の内にしまっておくことにした。

 からかい過ぎて、君に嫌われてしまうことだけは避けたかったから。

 まさか、とおも年の離れた女子おなごに心を寄せるとは思ってもみなかった。

 原稿を取りに、私のうちに足しげく通う君を、私はいつしか心待ちにするようになっていた。

 はつらつとした物言いと、爛漫らんまんとした笑顔、時折見せる無垢さに、どうやら私はやられてしまったようだった。

 そうして、去年の暮れに贈った銀色の指輪リングが、君の左から二番目の指にはまっている。

「さあ、先生、気晴らしは十分に出来ましたでしょう。帰ってしっかり続きを書き上げてくださいませ。そしたら、先生の大好物のかすていらを一緒に食べましょう」

 君はそう言うと、両腕を広げながら私に振り返って微笑んでみせた。

(なるほどなあ、今宵の月は君のせいか)

 私は君に微笑み返したあと、ゆっくりと月を見上げた。

 さて、月が霞むほど美しい我が妻の笑みを、貴方なら何と訳すのでしょうか?

 私は心の内でそっと、かの文豪に問いかけた。――私はというと「いとおしい」以外の言葉がてんで浮かんでこないのです。物書きであるにもかかわらず。

「先生ー?」

「ああ、今行くよ」

 私は一つ頷くと、ゆうるく腕組をして再びカラコロと下駄を鳴らし始めた。


 今宵の月は朧月。

 薄桃うすももけぶ淡春たんしゅんに、私は君に愛を囁く。

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朧月夜 浦科 希穂 @urashina-kiho

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