『時をかける少女』

 貸本屋ばべるは夫婦で経営している。ばべるの本を読むのに必要な「栞」を作れるのは、旦那だけだ。その日も店主の男は、連日降りやまぬ雨音を聞きながら、栞作りに精を出していた。

 今作っているのは布製の栞だ。厚紙に水で溶いたボンドを塗り、薄紫の綺麗な布を張り付ける。それを二枚、貼り合わせる前にリボンなどの装飾を施す。店主の男は、中の隠れてしまう部分に、紫色の小さな粒をボンドで張っていく。匂いを嗅げばそれらがラベンダーであることがわかるだろう。そのラベンダーを、力を入れて薄く延ばしていく。隠れてしまう部分ではあるが、そもそも貸本屋ばべるにとって栞とは、ばべるの客になってもらうためのものだ。その客が「ばべるの本が読める」ようになるための魔法具だ。見えないところに施されているものにも意味はある。


 栞の厚紙がすっかり紫色になったあたりで、店主は一息ついた。軽く伸びをしながらマグカップに手を伸ばすと、中身がすっかり空になっていることに気が付く。中身が無くなったことにも気が付かないほど熱中していたようだ。コーヒーを入れてくるかと立ち上がった時、来客を告げるベルが鳴る。見れば、セーラー服姿の少女が、おずおずとこちらを伺いながら来店してきた。店主はマグカップを机に上に置き直し、来客へと向き合った。

「いらっしゃい。ようこそ、貸本屋ばべるへ」


 少女の着ているセーラー服を、店主は確かに見たことがある。アルバムの中にいる、昔の妻が同じ服を着ていた。というより、店主自身も通っていた。つまり、彼女は自分たちにとっての後輩にあたるのだろう。懐かしいな、なんて思いながら、店主は少女を接客用の机へ案内した。

「何か飲む、じゃない、飲みます? コーヒーとか紅茶とか、ジュースもありますよ」

「あ、じゃあジュースで……オレンジジュースあれば、それが良いな。あと、あの、もし苦手のようだったら、別に敬語いらないです」

「……ごめん、じゃあお言葉に甘えさせてもらう。えっと、君も好きに話してね……君のようなお客さんは、普段かみさんに相手してもらっているから……その、慣れていなくて。オレンジジュース持ってくるから、少し待っていて」

 慣れぬ言葉遣いをすぐさま見抜かれ、少しバツの悪い思いをしながら頭を掻いた。オレンジジュースと自分用のコーヒー、それからお菓子のクッキーをお皿に並べて、少女の待つ机へと戻った。少女の対面に座る。

 客は二種類いる、と店主は常々思っている。何か借りる本が明確に決まっていて来店する客と、とりあえず来てから借りる本を考える客。目の前の少女は前者のように感じられた。ただ、少女はなかなか話し始めなかった。どこか緊張しているようにも見える。珍しい本を探しているのかな、と思いながら、店主は敢えて何も聞かずに、少女が話し始めるのを待つことにする。


 暫くして、少女が話し始めた。

「ええと、もしかしたら図書室とかで相談した方が良いような話かもしれないんですけれど、図書委員の子に聞かれるのが恥ずかしくて。クラスの図書委員の子が委員長なんです」

 それの何が恥ずかしいのかよくわからないと店主は思ったが、些細なことや他人から見てよくわからないようなことが妙に気になってしまう年頃はある。きっと彼女にとっては恥ずかしいことなのだろう。一つ頷き、話の続きを促した。少女は安心したように小さく息を吐き、方から力を抜くと、話を続ける。

「『時をかける少女』ってありますか?」

 予想に反してそれは、映画化されたこともある有名作品だった。様々な出版社から出ているし探すのもさほど手間ではないだろう。ばべるにも勿論置いてある。ジュブナイル小説、確かにこのくらいの年齢で初めて読んだ記憶だ、などと思いながら店主は頷いた。

「ああ、筒井康隆の。あるよ。女の子がタイムトラベルするやつ」

「そう! それです。私、その話が好きで。この前、母さんと『時をかける少女』の話をしていたん、です、けれど……どうも、母さんが言っている話と、私が言っていた話が、違っていて。一部とかじゃないんです。話していて、ずっと、あれっ? ってなって」

 そう話している最中にもその時のことを思い出したのか、少女の眉が少しずつ下がっていく。店主は出来る限り優しい声を意識して言葉を紡いだ。

「例えば?」

「えっと……電車と事故に遭ってタイムトラベルするようになるんだよね、って言ったら、母さんはトラックじゃなかったっけ? って。そういう小さな違和感が次々出てきて」

 はて、と店主は首を傾げた。彼の記憶では母親の言っていることが正しい。最後に読んだのは結構前にはなるが、それでも何度も読み直している作品だ。記憶には自信がある。だが目の前の少女が嘘をついているようにも思えなかった。トラックと電車だけならば少女の記憶違いも考えられたが、どうもそういうわけでもなさそうだ。

「お母さんと、そのことについては話したの?」

 店主のその問いに、少女は顔を曇らせた。

「いいえ、その……新しい母さん、なので……あまり喧嘩したくなくて………。もともと好きな話だったから、母さんも好きだって聞いた時は嬉しかったんですけれど……」

 少女はそう言ったきり俯いて、クッキーにも手をつけなくなってしまった。店主はオレンジジュースのお代わりを注ぎながら、頑張って頭を働かせる。少女もお母さんも嘘をついていない答えがどこかにあるはずだ。

 しかし映画化までされた有名作品で、そんなに食い違うことがあるだろうか、と考えたところで閃いた。そうだ、映画。映画なのだ。

「……違っていたらごめんなんだけれど、君は『時をかける少女』を、映画で見た?」

「えっと、はい。好きな監督の作品だったので。一年くらい前かな、見ました」

「うん、それでわかった。アニメ映画版の設定だ、君の記憶の方。お母さんは小説の方で話しているんだ。だから話が噛み合わなかったんだよ」

 店主のその言葉に、少女はぱちくりと、大きな瞳を瞬かせた。

「違うんですか?」

「うん。例えば原作の――えっとこの小説の方ね――主人公がいるでしょ。その姪が、アニメ映画の方の主人公なんだ よね」

「あ、主人公違うんだ」

「そう。で、主人公が違えば、それはまあ、話の内容自体も違うわけで。主人公もだし、出てくる男の子二人の名前も全然違ってたはずだよ」

「へえ……じゃあ、私も母さんも、嘘をついていたわけじゃなかったんだ」

 良かった、と小さい声でこぼし、少女は再びクッキーに手を伸ばし始めた。


「帰ったら母さんにも言ってみる」

「うん、それが良いよ。お母さんも多分、アニメ映画の方は見ていないんだと思う。映画も有名だけれど、実写映画もあるし」

「あ、でも……話が違うってことは、母さん、アニメの方の話はそんなに好きじゃないかもしれない」

 再び眉を下げた少女に対し、店主は先ほどと変わらぬ調子で話を続けた。

「それで良いんじゃない?」

「……え?」

 店主は立ち上がり、本棚の中へ進んで行く。文庫本の棚から比較的大きい文字で印刷されている『時をかける少女』を取り出し――目の前の少女はきっと、読書にはそこまで慣れていないと感じたので、その方が良いと思ったのだ――席に戻って少女に本を差し出す。

「君がこの本を読んだら、今度はお母さんと一緒に、映画の方を見たりとかして。それで、どっちが好きだったか、みたいな話をすればいいよ。そりゃ意見分かれるだろうけれど、さ」

「……それって、喧嘩じゃない?」

「喧嘩じゃないよ、日常の会話さ」

 その言葉を聞いて、少女は笑みを浮かべながら、差し出された文庫本を受け取った。

「借りて行く? 学校の図書館にも多分あるとは思うけど。店主の俺が言うのもなんだけれど、うちはほら、貸本屋だから。あまり高くないとはいえお金かかっちゃうんだよね」

「うーん……ううん、ここで借りて行きます」

「わかった。ちょっと待ってね」

 店主はそう言うと、作りかけていた栞の元へ急いだ。丁度、先ほど作っていた栞が、彼女に会うはずだ。残すは最後の工程だけ、さほど時間はかからない。

「君、名前は?」

「あ、ええと、かおりこです。香る子で香子」

「香子さんね」

 店主は彼女の名前を厚紙に書いてから、ささっとボンドを塗り、二枚を貼り合わせた。薄紫の布でできている栞は、赤色の少し太いリボンが付いている。綺麗に仕上がったことを確認してから、栞も少女――香子へ差し出した。

「これ、君の栞」

「え、私の?」

「うん。うちはお客さんに栞を渡しているから。会員証みたいなものだと思ってもらえれば」

「そういうことなら遠慮なく。へへ、かわいい」

 栞を優しく撫でながら嬉しそうに香子が言った。読めるようになってもらうために作っているものだが、栞自体を気に入ってもらえると、それはそれで嬉しい。つられて笑った店主は、説明を続けた。

「一日銅貨一枚……じゃなかった、一日十円、後払い。で、購入とかしたい場合は別途相談。購入は取り寄せもできるから」

「そんなに安いんだ。お店やっていけるの?」

「まあ……うちはちょっと、特殊でね。詳しく説明すると、とても長くなってしまう」

 初めから「読める」世界から着ている人に、異世界が、など言い始めても、実際に納得してもらうには難しいだろう。苦笑しながら店主は窓の外に目をやった。雨は、降りやんではいないものの、随分と小雨になっていた。帰るならば今だろう。少し不満気であることを隠さない香子を、出口まで案内する。

「また来てくれた時に説明します、ということで。今日はもうおかえり、そろそろ暗くなってしまう時間帯だし」

「……そうだね。夕飯の手伝いもしたいし、どうせ返す時にまた来るし」

「そうそう」

 香子は本と栞を大切そうに鞄の中へしまった。もしかしたら今度は、お母さんと来店してくれるかもしれない。そんなことを思いながら店主は、傘を差した香子に向かって笑顔を見せる。

「またのご来店をお待ちしております」

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