宿題 Ver.18

青海老ハルヤ

8月9日

 雨が降っていた。夏の夜。大きな雨粒がバタバタと傘を踏んで遊んでいる。傘から自分の若々しく滑らかな手を出すと、ぬるくて、なめらかで、それでいてどこか芯のあるような、そんな丸っこい雨が身体の中を柔らかく濡らした。足を一歩踏み出すたびに靴の中で子供のように水が舞う。それがだんだんと嫌でなくなって身体も全部乗っ取られたかのように思えた頃、ぼおっと雨に濡れ揺れている公園の銅像を見つけた。傘なんかあげてしまおうかしら、なんて考えてみる。


 すると銅像はまるで首を振ったかのように揺れた。揺れたように見えた。実際は雨の屈折でそう見えているだけなのだと、昔に塾で教わった知識がとっさに結びついて納得したが、見えない糸で引っ張られているかのように、道を曲がってその公園が見えなくなるまで、目だけはその銅像から離すことができなかった。


 今日の塾の帰り道は、もうとっくに藍色に染まり、人通りもほとんどなかった。時々、街灯の鋭い明かりが私を突き刺して通り過ぎていってしまうだけ。水滴が腕から熱を奪っていくのを感じる。むしろ侵食されているようにも思った。自分が溶け出していくような、むしろ身体が立体化して大きくなっていくような、そんななにかわけのわからないものが周りを囲っていく。心細さを感じた私は、少しだけ足を速めた。


 夏とはいえ、熱を奪われた身体には少し肌寒い日だった。山場の夏は風邪はひきたくない――そう、私は受験生だった。受験生だから、と今年の夏は自分でも信じられないほど勉強して、でもそれが辛くなってくる、そんな日でもあった。


 カンカンカン、という高い音が、雨を避け、か細く小さく聞こえてきた。どこかの道路で車が水溜りを轢く音で掻き消され、そしてまた途切れ途切れに聞こえる。藍が黄色を隠して覆いかぶさって、その僅かな隙間から黄色が指を覗かせる。そしてまた車の音で隠される。


 また一つ角を曲がると音が大きくなった。いつも必ず通るこの踏み切りは、一度鳴り出すととても長い。近くに駅があるからだ。電車が駅に止まっている間、延々とされるのは、あまり良い気分ではない。


 案の定、ようやく私が踏切の前まで来ても、踏切はまだ開かなかった。踏切は青に染まっていた。藍じゃない。もっともっときれいな青。多分LEDの原色そのままの色。道を濡らす水に反射して震えている。黄色い雄叫びが雨を潰していく中で、青は暖色よりも暖かく私の目に映った。鉄の匂いがする。赤い矢印が二本、ここにいるぞとばかりに爛々と光っていたが、その努力は虚しく死んでいた。


 カンカンカン――。ふと踏切の端を見ると、雨に濡れ、薄汚れた花束が添えてあった。藍が景色と間違えて一緒に塗られてしまったかのように、くすんで潰れて、ひっそりと息を潜めて萎れている。私は思わず目を閉じた。


 ここで自殺があった。


 二年前のことだ。誰が死んだのかは知らない。理由も分からない。分かっているのは一つだけ。私と同い年の子だった、ということ。


 私は高一だった。その子も。その日も雨が降っていた。夏にしては冷たい、氷のような雨だったのを覚えている。そう、私は傘を忘れたのだ。部活帰りの道を、土破りに打たれながら走ったのだ。最寄り駅からのわずか二十分で、魂までずぶ濡れになったような、そんな不吉な日だった。


 家に着いてすぐ親から聞いた。スマホが濡れるのも気にせず調べた。スマホが熱くなるのも気にしなかった。友達だったらどうしよう、知り合いだったら、知り合いだったら――。手が汗でベタベタになっているのに気がついたのは、夕食で母に呼ばれたときだった。吐きそうになるほど、心臓はきつく鳴っていた。


 結局分かったのは一つだけ。ネットニュースにも、Twitterにも、LINEでも、私と同い年であること、それだけ。運転手の対応も書いてあったが、もう覚えていない。たぶんどうでも良かったのだろう。


 私だけじゃなかった。高一の少女の自殺。話題性としては十分だ。次の日にはトレンドに上がっていた。あの踏切は一時期使えなかった。マスコミが、たくさんの人が来たせいだ。あとから置かれた花束で先に置かれた花束が潰れ、ゴミ捨て場に花が積もった。自殺した少女と銘打って顔写真が上がったときもあった。もちろんそれはガセで、それは別の問題に発展したらしい。その時には、もう花束は踏切にはなかった。今となっては、藍に染まった花束を捧げた誰かと――もしかしたら少女の家族かもしれない――私だけかもしれない。


 私と同じ若々しい手を、ああそうだ、銅像や、もっともっとシワの寄ったものに比べてこの世界で生きていくにはあまりに軽すぎるその体を、ここでちぎって潰して細切れにして何が何か分からなくなって……。ここで自殺があった。あったはずなのだ。顔も知らない少女がここで死んだのだ。私と同じ歳の少女が。


 目を開けた。駅の反対方向から電車が来た。光だけがまっすぐに見えて眩しい。コロコロと音が大きく強くなっていく。とても速いはずなのに、何故かゆっくりと近づいているように光が震えている。


 近づいてくる。色のない色が。無機質な四角い箱。街灯よりも冷たい光。


 もし三歩前に出たら、私も死ぬ。


 くだらない考えだ。誰が死ぬか。私は受験で疲れているだけだ。私は首を振った。しかし――


 ごうんごうんと地面が揺れる。心臓が締め付けられる。引き寄せられる。万有引力にも説明できない引力が私に迫る。どこか遠くへ行くためのゲートだと。私がくぐるべき門なのだと。さあこっちへおいで。大丈夫、すぐに終わるから。こっちへおいで。足を前に。手を出して。こっちに来い。おい、こっちに――カンカンカン――


 ゴォー、という音とともに電車が通り過ぎて行った。地面が頼りない。振動が足を伝って体全体を揺らす。窓から誰かが私を見ていた。赤い矢印の片方が消えていた。


 私は息を吐いた。ゆっくりと静かに。いつの間にか私は傘を下ろしていた。汗と雨が、服をびっしょりと濡らしている。何を考えているんだ、私は。死にたいわけないじゃないか。死にたいなんて――。ああ、そうだ。私は死にたくない。死にたくなんかない。


 今度は駅からもう一つの電車が来た。今度は変な気なんか起こしてやるもんか。お尻に力を込めた。再び傘を上げた。爪が食い込むほど、それを持つ両手に力を込めた。


 再び地面から振動が伝わってくる。ゆっくりとコロコロという音が強く早くなっていく。電車が来る。今度は、今度は大丈夫だ。私はまだ――。


 誰かが線路の上で笑っていた。


 ――カンカンカン……。電車が通り過ぎていった。そこにはもう何もなかった。心臓が破裂するほど鳴っていた。バーがゆっくりと上がった。待ちきれなくて私は走り出した。久しぶりに、私は本気で家まで走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

宿題 Ver.18 青海老ハルヤ @ebichiri99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ