最終話 ただの大家

 あれだけ厳重に規制をかけていた検問所も、犯人が捕まればすぐに通常通りに戻った。

 どれだけの早さかというと、俺が医務室を出てロビーに足を踏み入れたら既に擬態皮を選ぶヒトで検問所がごった返していた。少し前まで閑散としていたのが嘘のようだ。

 結局あの泥棒は偶然来た、僻地へきちの孤立した家を狙っただけの、普通の人間だったらしい。盗んだ物も適当に目についた物を盗っただけと供述しており、検問所から警察に移送されたと職員から聞かされた。紛らわしい話だが、そのおかげで俺は契約が完全に消える前に検問所に来れたのだから複雑だ。

 もしあのままだったら、結界はもちろん、空間把握も警告も使えないことに気づく頃には命の危険に晒されている時だったろう。

 そうなっていたら俺はあっけなく死ぬだろうし、なにより彼女が野放しになってもっと被害が出たかもしれない。そう考えたらあの泥棒は救世主だった……いや気のせいか。


 ロビーの高い壁に備えつけられた電光掲示板は、指名手配犯の捕縛と安全確保が終了したと簡潔な文字を表示している。それを誰も気にせずにロビーのヒトは旅行パンフレットを片手に機嫌良く歩いて行く。いつもの賑やかな検問所の光景だ。


 俺が帰る扉に近づけば近づくほどヒトの流れは少なくなっていき、ついには俺の足音しかしなくなった。職員さんに担いでもらったりしたから、医務室からこんなに遠かったかと思わず息を吐く。

「大家さん!」

 不意に後ろから明るい声がして振り返ると、赤と白の鞠が視界をうめつくした。ロロアさんの着物の柄だと理解したのは、ロロアさんに力強く抱きしめられてからだ。

「ロロアさん……」

「一昨日こっちに来たらここは閉鎖されてるって言われて、まさか何かあったんじゃないかって心配したよ……ああ大家さんが無事で良かった」

「ご心配を、おかけしました」

 今にも泣きそうな震え声のロロアさんに、俺は両腕を下ろしたまま謝罪した。


 俺が戻るまでは爺ちゃんが大家になってくれたのだが、いざ戻ってみたらシャケさんと共用スペースで酒を呑んだくれて泥酔状態で業務を何もしていなかった。

 いや別に事務は急ぎもないし酒の在庫はシャケさんの私物だから問題は何もないけども。もっとこう、なんか引き継ぎ作業とか、形式的に何かあるだろうが。

「お! 戻ったか大家ぁ!」

 また高そうな酒瓶を持ってシャケさんが元気よく手を振った。昨日の件もある。今日は何も言うまいと苦笑いで返すと、シャケさんは俺の後ろを指差した。そうだ、ロロアさんの受付をしなければ。

 慌ててロロアさんから木札を受け取って受付を終わらせたら、ロロアさんはやっと安心できたと俺の顔を見て笑った。理解できずに首を傾げる俺に、ロロアさんは少しの涙を指で拭いながら説明してくれた。

「いつもの光景だって安心しただけ。大家さんがいつもみたいにここで木札を受け取って、ソファーにはシャケさんがお酒を飲んでる──まだここがあるって、まだここに来れたんだって、そう思ったら安心したんだ」

 紛らわしくてごめんね、と付け加えるロロアさんの言葉はとてもまっすぐだった。

 同時に、俺も同じことを思っていたと気付かされた。

「……ありがとうございます、ロロアさん」

「え? どうしたの? それはこっちのセリフだよ」

 いつもの日常に戻りたいと願ったのは、平凡な日々に安心していたから。

「大家も呑むか? ロロアも荷物を部屋に置いたら来ると良い、軽い口当たりの酒もあるぞ!」

「あたしは緑茶でいいよ。シャケさんの勧める酒はつい飲みすぎるからね」

「あ、ロロアさん、衣型を置ける大きさまで部屋を広げるんでちょっと待ってください」

 部屋を狭めたままだったと慌てて間取りを変更した。それをソファーに座ったシャケさんは楽しくて仕方ないと言わんばかりに笑った。

「大家のそれは本当に便利だな!」

「まあここでしか使えませんけどね」

 いつものやり取り。俺は自然と返していた。

「俺は外ではただの──普通の人間なんで」

 シャケさんは満足そうな笑顔で違いないと頷いた。

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非凡な大家の平凡な日常 朝乃倉ジュウ @mmmonbu

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