第6話 浅野すみれの小さな幸せ
あの日から、莉奈と私はほとんど話さなくなった。
馬酔木に怪しまれない程度には会話するものの、ほとんどが事務的な連絡ばかり。
「おはよう」
「あ、おはよう……莉奈」
名前を呼んでくれなくなった。以前ならすみれ、と明るく呼んでくれた彼女は、私の名前すら口に出したくないようだった。もしかしたら、私にももう莉奈なんて呼ばれたくないかもしれない。だけど、私は名前を呼ぶのをやめる気はなかった。私まで莉奈の名前を呼ばなくなってしまったら、なんだか本当に終わってしまいそうな気がしたから。それだけは避けたかった。往生際の悪い私は、まだ彼女のことを諦められないのだ。
当然、キスもハグもなくなった。あの旅行以前だってしていた通話や、メッセージアプリでのトークもしなくなった。今の私たちを繋げているのは、会社での挨拶と端的なやりとりだけ。
辛い。こんなにももどかしく感じているのに、うまく話すことができない。
ちょっとでも暇になると莉奈のことを考えてしまうから、私は今まで以上に仕事に打ち込んだ。打ち込んだというより逃げたのほうが正しいかもしれない。とはいえ集中なんてできたもんじゃなくて、雑念ばかりが頭に浮かんでは消える日々を過ごしていた。
ほら、今日だって。夕日が差し込む室内で、私はパソコンの文字を打っては消し、打っては消しを繰り返していた。
最後にまともに話したの、いつだっけ。ふとカレンダーを見て驚愕した。気づけばあの日から三か月が経っていた。
このままじゃダメだ。
私は決意した。莉奈と話そう、そして、あらためて彼女にちゃんと告白しよう。
前にも同じようなことがあった気がする。あれはそう、私が初めて莉奈にキスをした日の二日後だった。
ああ、私はどうして、いつもいつも気づくのが遅いんだろう。うまく話せない? どうしてうまく話す必要があるんだ、下手くそだっていいじゃないか。私はいつだって下手くそだったくせに、何を今さらかっこつけようとしているんだろう。
莉奈が好き。誰よりも大切に思ってる。傷つけて、ごめんなさい。
その思いだけで十分だった。不器用でいい、ダサくていい。それが私の想いなら。
莉奈はたくさん気持ちを伝えてくれた。今度は私が伝える番だ。
パッと顔を上げて時計を見た。定時まであと十分を切っている。莉奈の様子をうかがったところ、彼女はやや散らかった机の上を整理し始めていた。彼女も今日は定時で帰れるのだろう。
言おう。今日しかない。
強くそう決意して、頭の中で軽くシミュレーションを始める。と、次の瞬間「浅野」と誰かに名前を呼ばれる声で、それは中断された。
声の主は部長だった。手招きされ、なんですか、と言いながら立ち上がるも、嫌な予感が背筋を駆け巡る。
まさか、仕事じゃないよね? おねがい、今日だけはやめて……!
なんて私の願いもむなしく、部長は印刷された文字で真っ黒の資料を渡してきた。
「いやぁ、こんな時間に本当に申し訳ないんだが、取引先からこんなのが届いててね。今日中に読んで返事してくれないか?」
今日中だって? そんなことをしていたら、確実に定時には間に合わない。いつもなら快く引き受けるところだが、今日だけは勘弁してほしい。
「あ、ええと……」
「浅野は優秀だからなぁ。こういう処理にも長けてるし、引き受けてくれると非常に助かるんだが」
眉をへの字にして、困ったように言う部長。ダメだ、すごく断りにくい雰囲気。予定があるんですみませんと断れる性格ならよかったのだが、あいにく私は頼まれたら基本的にノーと言えないタイプだった。しかも相手が困っているとなるとなおさら断れない。仕方ない、莉奈のことは日をあらためるしかないか……。そう思って、承諾しようと口を開きかけた瞬間だった。
「あ、部長。俺暇なんでやっときますよ! 浅野、今日予定あるらしいんで」
突然、後ろからそんな声が聞こえてきた。驚いて振り向くと、そこにはにこにこしながら片手を挙げている馬酔木の姿が。
「おお馬酔木くん、助かるよ、ありがとう。じゃあ浅野、これ馬酔木に渡してくれるかな。浅野も予定があるならそう言ってくれればよかったのに」
「え、あ、はい……」
資料を受け取りながら、私は困惑ぎみに返事をする。
どうして馬酔木が?
不思議に思うものの、引き受けてくれるに越したことはない。何がともあれ助かったと、席に戻った私は資料を馬酔木に手渡し、小声で話しかけた。
「ありがと、助かった。でもなんで? 私予定あるなんて言ってないよね?」
すると馬酔木はニッと笑って、ちょいちょいと私を手招きした。耳を貸せということらしい。首をかしげつつ顔を近づけると、馬酔木は「お前さ、莉奈となんかあっただろ?」と、いきなりびっくりするようなことを言ってきた。
「えっ、なんで……」
「だってめちゃくちゃ気まずそうなんだもん、まあ気づいてんのは俺くらいだと思うけど。喧嘩だか何だか知らねーけど、今日仲直りでもしようと思ってたんじゃねーの?」
恐ろしや、馬酔木の観察眼。私はどうやらこの男を舐めていたらしい。
「顔、顔。図星って顔しすぎだから」
馬酔木はくすくすと笑いながら言った。何も言えない私に、馬酔木は続ける。
「仕事のことは気にしなくていいから行ってこいよ、俺が超完璧にこなしとくから。そんで、自分の思うこと全部言ってきな」
後悔だけはすんじゃねーぞ。まぶしいくらいの笑顔でそう言った馬酔木は、ぽんと私の背中を軽く叩いた。彼の言葉に勇気づけられ、しっかりとうなずく私。
カチリ、時計が午後六時を指した。定時だ。ぞろぞろと動き出す人込みに紛れて、莉奈も立ち上がるのが見える。
「ほんとにありがとね、馬酔木」
「おう。頑張れよ」
ひらひらと手を振る馬酔木に手を振り返しながら、私は急いで荷物を鞄に突っ込み、駆け出した。机を整理できていなかったせいで少し時間がかかってしまった。いつもならもう少し丁寧にしまうのだが、今日ばかりはそうも言っていられない。
素早くタイムカードを切り、莉奈の姿を探す。人が多いせいで、髪色も背丈も目立つほうではない莉奈を探すのには苦労しそうだ。
おねがい、見つかって……!
祈るような気持ちで必死に周囲を見渡した、そのときだった。
ふわり、甘く柔らかな香りが鼻腔を刺激した。このフローラルな香りの香水をつけているのは——。
「っ、莉奈!」
茶色い巻き毛が揺れる。ゆっくりと彼女が振り向くその瞬間、世界がスローモーションに見えた。
「え、すみれ……?」
当惑したような表情が浮かぶ。どうして、そう言いたげな目をしていた。
「莉奈、今から私の家来れる?」
「え? いや、そんな急に言われても……」
「少しでいいから。おねがい」
「……わかった」
莉奈は渋々と言った様子ではあるが了承してくれた。よかった、ここで断られたらどうしようかと思った。とりあえず最初の関門はクリアしたことにほっとする。とはいえ、本番はこれからだ。気を引き締めながら、「じゃあ行こっか」と彼女に声をかけた。
家に着くまでは、互いに終始無言だった。何を話せばいいかわからなくて、以前のような心地のよい沈黙ではなく、気まずい空気が流れる。
ようやく家に着き、私はさっと鍵を開けた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
どこかぎこちない挨拶を交わしながら、私はテレビの正面のソファに、莉奈はテーブルの横のクッションのような椅子に座った。私の斜め前の場所だ。なんとなくいつもの定位置に、無意識に座ってしまったことに気づいたのだろう、莉奈は少し気まずそうに目をそらす。
「……莉奈」
先に沈黙を破ったのは私だった。莉奈が顔を上げ、こちらを見る。その目はひどく不安そうに揺れていた。
ごめん、莉奈。私のせいでそんな顔をさせて。
心臓が掴まれたように痛い。だけど、きっともっと苦しい思いをしてきたのは莉奈だ。私ですらこんなに痛いのに、莉奈は、いったいどんな気持ちで過ごしていたんだろう。莉奈の気持ちを思うと胸が張り裂けそうだった。
「ごめん。私……莉奈のこと傷つけたよね。本当に、ごめんなさい」
頭を下げる。莉奈は今どんな顔をしているんだろう。怖い。でも、言わなきゃ。
「散々傷つけておいて、身勝手だと思うかもしれない。ううん、思って当然だと思う。だけど、私」
おねがい、届いて。
「莉奈のことが、好きです」
息を呑む音が聞こえた。沈黙が満ちた部屋で、時計の秒針が進む音だけがいやに響く。
しばらくして、鼻をすするような音が聞こえてきた。パッと顔を上げると、うつむいて肩を震わせる莉奈の姿が目に映った。莉奈は、泣いていた。
「あ、莉奈、ごめ、泣かせるつもりじゃ……」
「っ、ひどいよ……! キスのときしか言ってくんなかったくせに、なんで今さらそういうこと言うのぉ……!」
「そう、だよね、ごめん」
「遅いよ……あたしが、どんな気持ちでいたのかも知らないくせにっ……!」
莉奈はわんわん泣いていた。今まで彼女がここまで激しく感情を爆発させるところなんて見たことがなかったから、ちょっと面食らってしまう。
「り……」
「あたしはっ!」
莉奈、と声をかけようとしたけれど途中で遮られてしまった。今は彼女の言いたいことを受け止めるのが先だ。私は口を閉じ、黙って彼女の言葉の続きを待つ。
「何回も……何回も、すみれのこと、諦めようって思ったんだよ。いっそ嫌いになってしまおうって、すみれの嫌なとこ探したりしてさぁ」
嫌なとこ。どこだろう、直せるところだといいのだけれど……じゃない、ちゃんと聞かなきゃ。
「っでも、そんなの全然意味なかった! だって、いくら嫌いなとこ探したって、そんなのよりずっと、あれが楽しかったとか、これしてくれて嬉しかったとか、好きなとこばっか出てきちゃうんだもん……」
泣きじゃくりながらそんなことを言う彼女に、愛おしさがこみあげる。思わず抱きしめようとしたけれど、拒否されたことを思い出して手を引っ込めた。
「嫌いだよ、すみれのことなんか。でも、でも、すみれに幸せになってほしいのに、諦められない自分が、一番大っ嫌い……!」
嗚咽する莉奈に、私はそっと近づいてひざまずいた。できるだけ優しく、彼女の両手を握る。
「本当に、私のこと嫌い?」
「……嫌い」
「ふふ、私に負けないくらい嘘下手だね、莉奈」
きゅう、と彼女の喉から小さな音が鳴る。困った顔をした莉奈は、視線を落としてようやく握られた手に気づいたらしく、頬を赤くした。
「莉奈、好きだよ。もう傷つけない。だからさ、ずっと私のそばにいてくれませんか?」
目を見て、まっすぐにそう伝える。莉奈は何度かおろおろと目を泳がせたあと、再び涙を流し始めた。
「え、ちょ、莉奈……」
「ばか! あたしだって、あたしだってだいすきだよぉ……!」
震える声で、振り絞るようにそう叫ぶ莉奈。私は今度こそ、その華奢な身体をしっかりと両腕で包み込んだ。すがるように抱きつく莉奈を、もう離さないと言わんばかりに強く抱きしめる。
それはロマンチックなハグというより、むしろ母親とその腕にすがりつく子どものようだった。
しばらくの抱擁のあと、私は鞄に入れておいたあるものを取り出した。
「実はね、少し前に買って渡せなかったものがあるの。莉奈にプレゼントだよ」
「え、あたし何も用意してないよ?」
「ああ、いいのいいの、そりゃあ用意なんてしてないだろうし。私が勝手に買ってきただけだから気にしないで」
そう言って私は、おもむろに箱を取り出した。手のひらより少し大きいくらいのサイズの箱だ。
「なあに、それ?」
莉奈は箱の中身にまだ見当がついていないらしく、首をかしげている。私は微笑み、その箱を彼女に手渡した。
「開けてみて」
「いいの?」
「うん、もちろん」
莉奈は興味津々といった様子で箱を受け取り、中身を取り出す。そして……。
「わあ、香水だ!」
パッと顔を輝かせる莉奈。嬉しそうな顔に、私もつられて笑顔になる。
「かわいい、これどこで買ったの?」
「私の家の近くに新しくできた香水ショップだよ」
「やっぱり! あそこ一回行ってみたかったんだよねー」
はしゃぐ莉奈の満面の笑みを見て、買ってよかったと幸せな気持ちでいっぱいになった。つい数分前の悲しい気分が嘘のようだ。
しかし、これはただのプレゼントではない。もちろん喜んでもらえるようにと選んだものではあるが、それだけではないのだ。
「え、つけてもいい? 今つけてるやつ落とすね」
そう言って莉奈はウェットティッシュで手首やうなじを擦った。それからさっきプレゼントしたばかりの香水を手に取り、シュッと手首に吹きかける。
「あ、いい匂い! これってなんの……?」
普段嗅ぎ慣れた香りではないからだろう、莉奈は手首の匂いを嗅ぐと不思議そうな顔をした。それから私は、莉奈がパッケージを見る前に、口を開く。
「それね、スミレの香りだよ」
次の瞬間、みるみるうちに莉奈の顔が赤く染まった。え、とかあ、とか意味のない母音を発しながら、彼女は両手で顔を覆ってしまう。
「先に言ってよぉ……」
「ふふ、だってつけてから言ったほうが面白いでしょ?」
「やっぱ意地悪だすみれ……」
抗議するような目を向けてくるけれど、そんな顔をしてもかわいいだけだ。
「それより、これちゃんとつけてね? 莉奈は私の彼女だって示したいから」
「匂わせってことぉ?」
「お、確かに。ふふ、これがほんとの匂わせだね」
くすくすと笑う私に、耳まで真っ赤になった莉奈。照れながらも、莉奈が小さな声で「……ありがと」と言ったのを私は聞き逃さなかった。なんだかんだ喜んでもらえたようで何よりだ。
ごめんね、私、結構独占欲強いみたい。
「……ねえ、すみれ」
「ん?」
「あたし、まだ彼女じゃないよ?」
え、と声が漏れる。どういうことだろう。私はちゃんと告白してオッケーもらったはず……いや、待って。私、もしかしてまだ告白してない?
「ずっと私のそばにいてくれませんか、とは言われたけど、あたしまだいいよなんて言ってないもん」
「あ、そっか……」
莉奈の言葉でようやく気づいた。私たち、付き合ってもいないままグダグダやってたのか。
「じゃあ、今からちゃんと言うよ」
「うん」
深呼吸をする。あらためて言うとなると少し緊張するけれど、これだけは絶対に伝えなきゃいけないから。
「莉奈のこと、愛し続けます。だから私、浅野すみれと付き合ってくれませんか?」
真剣に、右手を差し出す。
「はい、喜んで!」
莉奈はとびきりの笑顔でそう言うと、私の右手をつかんで、ぶんぶんと大きく上下に振った。
「ちょ、痛い痛い! ちぎれるって!」
「ちぎれても好きだよ!」
「嬉しいけどそうじゃないから!」
あはは、と声をあげて笑う莉奈の笑顔は、今まで見たどんな笑顔よりもかわいくて、愛おしかった。
「ねえ莉奈。キス、していい?」
興奮が少し収まったころ、私は彼女の頬に触れながら言った。莉奈は目を丸くしたあと、はにかむように笑って、小さくうなずく。
「愛してるよ、莉奈」
「あたしも愛してる……すみれ」
三か月ぶりのキスは、少し苦い味がした。
ふわり、部屋には咲いたスミレがつつましく、いつまでも香っている。
花に香るは恋心 しらゆき @shirayuki_mofu
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