第5話 浅野すみれの白昼夢
莉奈を傷つけてしまった。
咄嗟に出てきた家に戻るに戻れず、私はぐるぐると近所を回りながらいろいろなことを考えていた。
初めてキスをしたあの日から、私は莉奈に求められるがままにキスをするようになった。私は不思議だった。莉奈はキスやハグなんかの物理的なぬくもりが欲しいだけだと思っていたのに、私が「愛してる」と言ったときが一番嬉しそうだったから。そのくせときおり見せる表情はひどく寂しそうで、ますます彼女がわからなくなった。
どうしてそんな切ない顔をするの。あなたは何を見ているの。
そう聞きたくても聞けなかった。私にはそれをうまく言葉にする自信も、受け止める勇気もなかったから。未熟な私は不安でいっぱいだった。
もしも莉奈が私のもとから離れてしまったら?
想像するだけで恐ろしい。ほんの少しでもこの関係が崩れてしまう恐れがあるのなら、何かを口にするなんてとてもできなかった。私は臆病だった。
『もしかしてさ、浮気、とかじゃないよね……?』
私の首にくっきりと残る赤い痕に、おそるおそるといった様子で聞かれたことを思い出す。蚊に刺されたというのは嘘ではなかった。でも、どこか怯えたような莉奈に少し意地悪をしたくなって、『私たち付き合ってないよね』と、そう返したのだ。
『だいたい、すみれにどうこう言われる筋合いないでしょ。付き合ってもないのに』
あのときの莉奈の言葉を思ったより根に持っていたらしい。相変わらずの自分のしつこさに、呆れを通り越して笑ってしまう。
莉奈のことだから、肩や手首の痕にも気づいていたのだろう。『……そっか』と言う彼女の声には覇気がなく、表情もどこか暗かったから。ああ、こんなことになるくらいならもっと早く誤解を解いておけばよかった。あれはいつか莉奈に、と練習したときの、自分でつけた痕だったのに。
莉奈に見せられた赤い華々には、やっぱりものすごく嫉妬していた。あいにく痕なんてつけたことのない私はうまくできなくて、だから練習していたのだ。でもそんなこと恥ずかしくて、とてもじゃないけど言えなかった。
『好きだよ。……すみれのことが、好き』
莉奈にそう言われたとき、ああ、やっとかという思いで胸がいっぱいになった。本当に、本当に嬉しかったのだ、心の底から。
それなのに。
私は莉奈を疑ってしまった。それを素直に受け取ることができない理由なら、いくらでも思いついた。
久々のお酒でいつも以上に酔ってしまっているから。
寂しいから。
好きとさえ言ってしまえば、もっと愛してもらえると思ったから。
本心からそう言っているのか、それとも私からの「好き」という言葉が欲しいだけなのか——私には判断がつかなかった。翌朝、莉奈は再び好きだと伝えてくれたのに、それすらも私は信じきれなくて。
だって莉奈は、嘘がとっても上手だから。
私は今まで通り、何もないときには「好き」と言わないことを貫いた。
なんて、こんなの全部言い訳だ。
いくら莉奈が嘘をつくのが得意だとしても、さっきの反応は絶対に嘘なんかじゃなかった。
『……ごめん。なんでもない』と言ったときの見ていられないくらいに痛々しい表情も、私を突き飛ばしたときの戸惑うような表情も。
好きになってくれたんじゃなきゃ、あんな顔できるわけがないのに。
私を突き飛ばしたのは、きっと莉奈の本能が拒絶していたんだ。適当な慰めなんかいらない、そう思ったんだろう。
なんだ、莉奈の大事な感情、まだ残ってるじゃん。
そのことに安心するとともに、なぜだか涙が止まらなくなった。あれ、なんで私が泣いてるんだろう。泣きたいのは莉奈のほうだろうに。
「莉奈……ごめん、ごめんね……っ」
思わずその場にうずくまる。道の端っこでうずくまる成人女性なんて迷惑極まりないだろうと頭ではわかっているのに、身体は動いてくれなかった。人通りも車通りも少ない道なのが不幸中の幸いだ。
私がキスやハグのときしか莉奈に「好き」と伝えなかったのは、私のわがままが理由だった。もしいつでも愛を受け取れるという状況になってしまえば、付き合うことの価値がなくなってしまうと思ったからだ。私は莉奈のことを愛している。彼女が私のことを好きになってくれて、付き合いたいと思ってくれるまでは、簡単に「好きだ」なんて言いたくなかった。物理的な触れ合いのときしか愛を囁かないことで、付き合うというのがどういう意味をもつのか、莉奈に知ってほしかったのだ。
ああでも、失敗だったのかもしれない。その考えにこだわるあまりに、莉奈を傷つけてしまったんだから。
莉奈のことは深く知らない。けれどきっと過去にとてつもなく辛いことがあったのだろうということくらいは想像がついた。これほどまでに愛を求めるようになったのも、もしかしたら過去と関係があるのかもしれない。
そんな莉奈を救いたかった。でも、救うどころか私は彼女のことを余計に追い詰めてしまった。愛してあげようなんて傲慢だった。私が愛して、愛されたかっただけなのに。
「……莉奈」
ぽつりとこぼれた言葉は誰に聞かれることもなく、朝の澄んだ空気に混ざって溶けた。
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