第4話 深海莉奈の断ち切れぬ想い

 すみれと付き合いたい。

 そう思うようになったことに、あたし自身が一番驚いていた。


 あの日から、すみれは頻繁にキスをしてくれるようになった。あたしが求めれば、いつもあたしの求めるとおりに口づけてくれる。あたしはそれが嬉しかった。けれどそれ以上に嬉しく感じるのは、すみれが「愛してる」って伝えてくれることだった。

 すみれに愛を囁かれるたび、胸がきゅんと甘酸っぱくうずく。最初はなんでかわからなかったけど、しばらく経ってからようやく気づいた。


 あたしは、すみれを愛してしまっているのだと。


 でも、すみれへの気持ちを自覚した瞬間、あたしの中の莉奈が言うのだ。


『あんたは結局、あの子のこと騙してるだけでしょう? 善良なすみれちゃんが可哀想。最低ね』


 わかっていた。

 あたしは所詮、人を誘惑することしかできない人間だってことくらい。


 すみれといる時間は楽しかった。今まで生きてきた中で一番幸せだった。

 こんなに楽しい時間を与えてくれてありがとう、すみれ。あなたがいなかったら、あたしはある意味で一生孤独だったと思う。裕くん以外に誰も信用できずに、誰かを愛することも知らずに、枯れ果てていく人生だった。


 ねえ、すみれ。好きだよって言ったら、あなたはどんな顔するんだろう。驚くのか、今さらって呆れるのか、それとも——もしかしたら、喜んでくれたりするのかな。


 あ、まただ。あたしより少し高い位置にある彼女の首を見つめて、思う。そこには見覚えのない小さな傷痕があった。それに気づいたのはつい最近だ。前は肩に、その前は腕についていた赤い痕。その意味がわからないほど、あたしは子どもじゃない。


「ねえ、これどうしたの?」

「これ? ああ、これは……」

「もしかしてさ、浮気、とかじゃないよね……?」

「……浮気って何? 私たち付き合ってないよね?」


 にっこりと微笑みながらそう言われ、あたしは黙ってしまった。


 これはきっとわざとだ。すみれはあたしが悲しむことをわかっていて、わざと傷つけるような言葉を選んでいるのだ。あたしがすみれのことを好きになってしまったことに、彼女はきっと気づいている。

 何も言わないあたしに、すみれはふっと笑みをこぼした。彼女の言葉が、こんなにも怖くてたまらない。


「ごめんごめん、意地悪言っちゃったね。これは前、蚊に刺されちゃって、ちょっと搔きすぎただけだよ」

「……そう、なんだ」

「うん、だから安心して」


 嘘つき。

 そう言ってしまえたら、どんなに楽かしれない。すみれは嘘をつくのが下手だった。蚊に刺されたというのは本当なのかもしれない。でも、と思う。

 だったらこの前肩にあったのは、その前に手首についてたのはなんだったの。


 ねえすみれ。愛してくれるって、そう言ったじゃん。

 あたしすみれがいなきゃもう、ダメなのに。おねがい、見捨てないで。


 あたしの懇願は声にならないまま、胸の中でぐるぐると回るばかり。

いつからか、あたしが欲しいのは口づけなんかじゃなくて、彼女からの愛そのものになっていた。

 その日、すみれは初めて自分からキスをしてくれた。いつもよりももっとずっと優しくて、とろけるようなキス。とびきりの甘い声で「大好きだよ、莉奈」と囁きながら。すみれのその行為は、かえってあたしの心の穴を大きくした。


 彼女はいつもそうだ。キスだってあたしが言わなきゃしてくれないし、愛してるって言ってくれるのもそういうときだけ。己の思うままに行動しているように見えて、その実いつも一歩引いている。まるであたしのことなんか眼中にないみたいに、あたしばっかり夢中になっているみたいに。


 寂しい。

 あたしの中で、またその言葉が大きくなった。じわじわと侵食されて、いつか呑まれてしまうんじゃないか、とたまに不安になる。そのくらい、あたしの心はそれでいっぱいだった。

 だけど、仕方のないことなのかもしれない。あたしはどこか諦観的だった。ぼんやりと過去の自分を思い起こせば、数えきれないほどの行いが次々と浮かんでくる。

 あたしは今までまともに人と向き合ってこなかった。恋も愛も遠ざけて、人との間には必ず壁があった。そういう風に生きてきたのは、他でもないあたしなのだから。

 もしすみれに見向きもされなくなって、愛されなくなって、そういう未来が訪れたなら——そのときは、受け入れなければならない。

 それはきっと最低なあたしへの、罰なんだから。




「ねえ、すみれ」

「ん、何?」

「……ごめん、何言おうとしたか忘れちゃった」

「ふふ、あるよねそういうこと。思い出したらまた言ってね」


 そう言って優しく微笑むすみれ。彼女の声色から表情から、すべてからあたしを愛おしいと思ってくれているのが伝わる。それなのに、臆病なあたしはまた何も言えなかった。ああ、あたしには彼女の考えていることを聞くことすらできないのだ。


 仮にも親友として付き合ってきたんだから、すみれのことはある程度知っているつもりだった。誕生日に好きな食べ物、お気に入りの服。けれどそれはあくまで表面的なものでしかなかった。普段何を考えているのか、あたしのことをどう思っているのか、そういう大切なことは何ひとつ知らなくて。


 ゆっくりと彼女の首筋に手を伸ばす。小さな傷を、人差し指でそっと撫でた。

 ねえ、すみれ。今まであなたは何人の人と付き合ってきたんだろう。何人がその身体に触れたんだろう。


 考えるだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。嫉妬で狂いそうになる。あたし自身は数えきれないほどの人間に触れさせてきたというのに。


「どうしたの、莉奈。甘えたいの?」

「……ぎゅってして」

「ん、いいよ」


 おいで、と広げてくれた腕に飛び込む。あっという間にすみれの匂いに包まれて、冷房で冷えた身体が少しずつ温まっていく。


「あたしのこと、好き?」

「好きだよ。大好き」


 なんの迷いもためらいもなく、即座に返ってくる言葉に、なんだか泣きそうになった。

 ねえ、なんで普段は言ってくれないの。寂しいよ、悲しいよ、すみれ。


 ねえ、すみれ。

 あたしはもうこれ以上、幸せになっちゃダメなのかなぁ。




 その日はすみれの家で、一緒にお酒を飲むことになっていた。明日は久しぶりの休日だ。最近は仕事が忙しくて、帰ったらすぐに寝てしまっていたから、お酒を飲むのも、すみれと一緒に過ごすのも久しぶりだった。


「なんか久々だよね。二週間ぶりくらい?」

「かなぁ。そんなに経ってたんだ。忙しすぎて気づかなかった」


 レジ袋を持ったまま、すみれはせわしなく動いている。何か手伝おうと立ち上がったものの、「すぐそっち行くから座って待ってて」と言われてしまい、そのまま大人しく待つことにした。


 帰ってきたすみれは、たくさんのお菓子を手にしていた。ほとんどが帰りに一緒に買ったものだけれど、その中にはいくつか買った覚えのないものも混じっていて。


「あれ、それ買ったっけ?」

「ああ、これね、いつか莉奈が来たときのためにストックしておいたんだ。莉奈こういうの好きでしょ?」


 そう言って笑うすみれの手元にあるのは、確かに私の好きそうなお菓子ばかりだった。


「……すき」

「ふふ、やっぱり。買っといてよかった」


 嬉しそうにまた笑うすみれ。

 こういうところが本当にずるいと思う。無意識なのかなんなのか知らないけど、これ以上好きにさせないでほしい。


「今日は飲むぞー!」

「いいけど、あんまり飲みすぎないでね?」


 心配そうにあたしを見つめるすみれを無視して、どんどん飲み続ける。気づけば缶が六本ほど空いていた。

 あれ、なんか頭がふわふわしてきた。やばい、眠い……。


「もう、飲みすぎだよ莉奈。だから無理しないでって言ったのに」


 呆れたようなすみれの声が頭上から聞こえる。えっと、あたし、何してたんだっけ……?


「すみれぇ」

「わっ、びっくりした。急に抱きつくと危ないでしょ?」

「ごめぇん……」


 ぐりぐりと頭を押しつける。すみれは困ったように頭を撫でてくれた。柔らかな手つきがずいぶんと心地いい。

 今なら言えるかもしれない。ふとそう思った。本当はお酒の力を借りずに言ったほうがいいんだろうけど、あたしにはとてもできないから。


「すみれ」


 おねがい、届いて。


「好きだよ。……すみれのことが、好き」


 しんと静まり返る室内。ぽやぽやとした頭と閉じかけているまぶたのせいで、すみれが今どんな顔をしているのか判断がつかない。

 それでもどうしても彼女の顔が見たくて、必死に眠気と格闘しながらうっすらと目を開いた。


 すみれは、とても驚いた顔をしていた。それから一瞬だけ泣きそうに顔を歪めて、でも見間違いかと思うほど、すぐに微笑んだ。


「うん……私も。私も、莉奈のことが大好き」


 刹那、ぎゅうっと強く抱きしめられる。


 ああ、幸せだなぁ。

 まどろみの中、あたしはただぼんやりとそう思った。あたしはすみれのことが好きで、すみれもあたしのことが好きで。そんな単純な事実が、信じられないくらいに幸福だった。今まで感じたことのないような満足感が、みるみるうちにあたしの心の中を満たしていく。


 一筋の涙が頬を伝い、床に落ちて弾けた。




「……おはよう、すみれ」

「あ、莉奈おはよう」


 すみれはあたしよりも早く起きていたらしく、服も髪もある程度整っていた。いつも通りにこやかに挨拶をするすみれを、少しそわそわしながら見つめる。もしかしたら、今日は普通に言ってくれるんじゃないかと期待をこめて。

 昨日のことはしっかり覚えていた。朝起きた瞬間に、ちゃんと記憶が残っていてよかった、と安心したのを思い出す。

 はい水、とコップに入った水を手渡してくれるすみれに、ありがとうとお礼を言いながら受け取った。


「頭痛いとか気持ち悪いとかない? 大丈夫?」

「ちょっとガンガンするけど大丈夫だよ!」

「本当? 無理しないでね」


 そう言ってすみれは再びキッチンに戻ってしまった。

 あれ、おかしいな。いつも通りだ。

 なおも落ち着かない様子ですみれを見続けていたら、さすがに気づいたらしく「何? どうしたの、そんなに見つめて」と怪訝そうな顔をされてしまった。


 仕方ない、ここは勇気を振り絞ろう。ぎゅっと唇を噛んで、両手を握りしめる。こんなに緊張したことが過去にあっただろうか。


「あのぉ……好き、だよ?」


 恥ずかしいのを我慢して、なんとかそう口にすることができた。ほっとしながらすみれを見るも、彼女はあっさり「あ、そうなんだ」としか言わなかった。


 え、それだけ?

 あまりに淡白な反応にショックを受けると同時に、もうダメなのかもしれないというような、絶望にも似た感情が押し寄せてくる。苦しい思いを隠すように、笑ってみた。しかしそれは、苦しみに拍車をかけるだけだった。


「莉奈?」


 すみれがあたしの名前を呼ぶ声がする。

 好きって言ってよ、なんてとても言えなかった。酔った状態でも言えなかったものが、今、しらふで言えるわけがない。


「……ごめん。なんでもない」


 あ、ダメだ。泣きそう。


 うつむいたまま無理に上げた口角が引きつる。いつもなら勝手に作られるはずの笑顔が、今は意識しても作れなかった。

 ああ、なんでこんなにもうまくいかないんだろう。あたしが、最低だから……?


 不意に目の前が暗くなった。見ると、いつの間に近くに来ていたらしいすみれが、あたしのことを抱きしめていた。

 ひゅっと喉の奥が鳴る。反射的に、その身体を突き飛ばしていた。

 急に抱きしめられたことによる驚きと混乱で、頭の中がぐちゃぐちゃになる。怖い、そう思ってしまった。


「あ……ごめ……」


 咄嗟に謝罪の言葉を口走る。違うのに。あたしはただすみれのことが好きで——そんな言い訳も出てこない。それ以上何も言えずに固まるあたしに、すみれは苦笑いして言った。


「……ごめんね」


 たったひとことだけ残して、すみれは部屋を出て行ってしまった。引き留めようと慌てて右手を伸ばしたけれど、その手は無慈悲にも空を切るだけだった。


 また一人ぼっちになってしまった。あたしにはもう、誰もいない。


 裕くんは、家族みたいな存在だから。恋愛対象にはどうしてもならない。初めて好きになった彼女を、すみれを失ってしまったら、あたしはいったいどうすればいいのだろう。


「……好き、なのに」


 好きな気持ちは、本物なのに。

 あたしはどうして突き飛ばしてしまったんだろう。わからない。好きなのに怖くなって、気づいたら身体が動いていたんだ。


 ただ愛してくれればそれでいいと思っていた。求めたときに求めるだけのことをしてくれるなら、十分だと思っていた。

 それなのに、こんなにも胸が苦しいのはどうしてなの。


「うぅっ、すみれぇ……っ」


 いくら拭っても、あとからあとから溢れてくる涙は止まらなくて。


 本当はわかっていたはずだ。

 あたしは壊れてなんかいない。好きでもない人に触られるのだって、心のどこかでは悲鳴を上げていたはずだった。あたしは愛されたくて、でも誰かを愛することもできないあたしは本当の意味で愛されなくて、寂しさを紛らわせるために、自分の心に嘘をつき続けてきただけだった。


 きっと、あたしはどこかおかしいのだ。

 幸せになりたかった。愛されたかった。だから、自分を満たしてくれる存在を探していた。だけどそれだけじゃなくて、本当はあたしも、愛したかった。

 表面上だけでいいなんて嘘だった。あたしは心からそう思える人に出会いたかったんだ。


 やっと見つけたのがすみれ、あなただったのに。


 あたしは間違えた。もっと早く気づくべきだった。

 あたしは彼女を不幸にするだけだ。あたしみたいな人間が、彼女のような綺麗で穢れのない人を好きになっちゃいけなかった。この恋自体が、間違いだったんだ。


 あのね、すみれ。楽しかったよ。すみれと過ごした五年間、本当に幸せだった。

 一緒におすすめのご飯屋さんを教え合ったり、お互いの服を選んだり、カフェでたくさんおしゃべりしたり。夜中まで一緒にゲームしたこともあったな。朝からランニングして、すぐ疲れちゃって海で休憩して。誕生日にケーキ焼いてくれたり、お正月には一緒に初詣に行ったりもしたよね。

 手繫いだり頭撫でてくれたり、ハグしてくれたり。そして、キスも。

 あたし、かなりの時間すみれと一緒に過ごしたんだね。思ったより思い出が多くてびっくりしちゃった。


「……ふふ」


 思わず笑みがこぼれる。誰もいない部屋で、小さなそれはすぐに消えた。


 あたしね、もう十分満たされたよ。すみれのおかげ。こんなに濃い経験、きっともうできないからさ。

 だけどね、そろそろすみれのこと、解放してあげなくちゃ。

 今までいっぱい迷惑かけてごめんね。ありがとう。大好きだよ。愛してるよ、すみれ。これまでも、これからも、ずっと。

 一方的な想いだけなら許してくれませんか、神様。


 そう願いながら上を見上げた。クリーム色の天井に、光っていないシーリングライトがひとつだけぽつんとあった。もうこの子ともきっとお別れだなあ、なんてね。


 さよなら、すみれ。

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