第3話 馬酔木裕の献身

 深海莉奈は悲しい女だ。

 彼女を誰よりもずっと近くで見てきた俺は、そう言わざるを得ない。


 莉奈——会社では深海と呼んでいるが、ここでは莉奈でいいだろう——は、美人だ。今さらそれがどうしたという感じだろうが、これは彼女を語るうえで欠かせない要素だと俺は思う。なぜなら、その美しさがすべての元凶だからだ。


 莉奈は幼いころに父親を亡くしており、厳しい母親のもとで育てられた。いつも丁寧な所作や話し方を強制させられていて大変そうだなとは思ったものの、そのおかげで彼女は上品に育ったのだから、よかった部分もある。それはいいのだ。問題は、彼女の母親が再婚した新しい父親にある。


 莉奈の義父はまだ若くて、母親とは十歳くらい差があった。そのせいなのか、一緒に歩いていると夫婦というより親子みたいに見えた。

 その若い義父がまあひどいやつで、普段は優しいけれど酒が入ると手がつけられなくなるタイプだった。たまに母親に暴力も振るっていたらしく、夜中に何かが割れるような音や怒鳴り声が聞こえてくることもあった。いわゆる典型的なDV親父だったというわけだ。

 幸いなことに、莉奈が殴られることはなかった。綺麗な顔に傷がつくといけないから、と父親も自制していたらしい。その代わり——薄々察している人もいるかもしれないが——幼い莉奈は性暴力を受けた。毎日のように、行われていたそうだ。詳しいことは知らないし、知っていたとしても言いたくない。


 莉奈は少しずつ壊れていった。俺以外の前で心からの笑顔を見せることがなくなった。

 今だったら警察や児童相談所に相談することができたかもしれない。でも、当時の俺は無力だった。俺以外に莉奈の闇に気づくことができたやつはいなかった。隠すことばかりが得意になった彼女の、莉奈の偽物の笑顔を、誰もが本物だと思っていた。愚かにもみんな、莉奈は幸せだと信じて疑わなかったのだ。


『あははっ、俺やっぱ莉奈と話してるときが一番楽しいわ!』

『ふふっ、あたしも! 裕くんの前だけだよ、こんなに笑えるの』


 幼心おさなごころに、莉奈がいつかふっと消えてしまうんじゃないかと不安になることがあった。花畑で笑う彼女はまるで天使のようで、笑っているはずなのにどこか寂しくて、頼りなかった。俺にとっても莉奈は家族同然の大切な存在だったから、失いたくはなかった。恋とかそういうレベルのものじゃなく、俺らの関係はもっと不安定で、でも確かな絆があって。今は互いにだいぶ落ち着いているとはいえ、昔は莉奈がいなくなったら俺ももうダメなんだろうと思うくらい、俺たちは一心同体だった。


 せめて俺だけは、莉奈の心のよりどころになろう。どんな莉奈でも受け入れよう。

 俺はそう決意して、ずっと彼女のそばで過ごしてきたのだ。


 そんなある日、莉奈は電車の中で痴漢にあった。莉奈が抵抗しなかったのをいいことに、調子に乗った痴漢は彼女に好き放題触れたのだ。しばらくしてから近くにいた人が気づいて通報してくれたらしく、痴漢は連行された。


『かわいい子がいたからついやってしまった。次からはしない』


 これが痴漢の言い分だったらしい。夕暮れどきの河原、風に吹かれながら莉奈と並んで座っていた俺は、このとき初めて莉奈が痴漢されたことを知った。莉奈から直接それを聞いて、俺はあまりの怒りにそいつをぶん殴ってやりたいと思った。


 『次からはしない』? 莉奈には次なんてねぇんだよ。

 お前からすればちょっとした軽い気持ちの一回かもしれないが、その一回が被害者にどれだけ深い傷を与えるか、そんなこともわかんねぇのかよ!


 そう言ってやりたい気持ちだった。それなのに、莉奈は困ったように笑って言うのだ。


『いいんだよ、裕くん。被害にあったのがあたしでよかった』


 何がいいんだよ、いいわけないだろ。あまりにやるせなくてこぶしを強く握りしめる俺に、だって、と莉奈は続ける。


『大丈夫だよ。あたし、慣れてるもん。いつからかね、何されてももう何も感じなくなっちゃったんだ』


 だから平気だよ、ありがとね。そう言って笑う莉奈の顔には、諦めたような笑みが浮かんでいた。俺は何も言えなくなった。どうしようもなく悔しくて、無力な俺は、黙って莉奈の背に片手を添えるのでせいいっぱいだった。


 そんな俺たちも成長し、気づけば社会人になっていた。運よく二人で同じ会社に就職できたのは本当に奇跡だと思う。そこで出会ったのが、俺と莉奈の唯一の同期、浅野すみれだ。




 浅野すみれの存在は、莉奈の人生に多大な影響を与えたと思う。


 初めは警戒していた莉奈が、次第に心を開き始めたのだ。俺はかなりびっくりした。莉奈が俺以外の前でまともに笑うのを見るのは久々だったからだ。

 ともかく俺は安心した。ようやく莉奈にも心を開ける友達ができたんだと、そう思っていたのだ。ああ、しかし俺は気づいてしまった。


 浅野は莉奈に恋している。


 俺は嘆いた。いっそ気づきたくなかった。もし莉奈が浅野の気持ちに感づいてしまったら、彼女たちの関係はどうなってしまうのだろう。莉奈はそういう感情には人一倍敏感だ。まして俺ですら気づくような浅野の深い恋情に、莉奈が気づかないはずがない。


 俺はひとまず莉奈の様子を観察しようとそう決めた。もし莉奈が突然距離を置き始めたら、浅野はきっと壊れてしまうだろう。俺は莉奈にはもちろん、浅野にも傷ついてほしくなかったのだ。浅野はいいやつだし、俺の大事なでもあるのだから。


 だが、そんな俺の心配はとんだ杞憂であることがわかった。莉奈は浅野からの好意に気づいてはいそうだったが、態度が変わることはなく、むしろ日に日に仲を深めているようだった。しょっちゅう食事に行ったり遊びに行ったりしているらしく、たまにツーショットが送られてくることもあった。『なんだ、自慢か? 笑』なんて冗談まじりに送れば、『いいでしょ! すみれとデートなの!』とご丁寧にハートマークのスタンプつきで返ってきた。


 これなら大丈夫そうだと再び安心した俺は、莉奈のしていることに気づいていなかった。まったく、俺が安心したら次は困ったことがやってくる呪いでもかかっているんだろうか。


 莉奈はいわゆるパパ活をしていた。誰にでも自分の身体を差し出すことに、彼女はなんの抵抗もなくなっていた。

 俺は当然怒ったし、悲しんだ。莉奈をつかまえて、どうしてそんなことをするのかと問い詰めた。だって莉奈は、義父のことも痴漢のことも、トラウマのはずだ。確かに彼女は何も感じないと言っていたが、だからといって自分からいくなんて、本当に何を考えているんだ。まったく意味がわからなかった。


『なんで自分から誘ったりするんだよ! もっと自分のこと大事にしろよ。嫌だったはずだろ、それなのになんで……』


 つい声を荒らげる俺に、莉奈は悲しそうに笑った。怒ることも否定することもせず、ただただ悲しそうに、笑っていた。


『だって……誰かに求められてなきゃ不安になるんだもん。あたしのことなんか誰も必要としてくれてないんじゃないか、あたしなんか生まれてこなきゃよかったんじゃないかって……』


 嘘でもいいから愛してるよ、って言ってほしいの。


 莉奈は今にも泣き出しそうな顔でそう言った。

 俺は彼女の言葉に何も言い返せなかった。莉奈には自分を守るための手段がそれしかないのだと悟ったからだ。莉奈は、俺が思っていたよりもずっとずっと深く傷ついていたのかもしれない。少しでもバランスが崩れれば壊れてしまいそうな心を必死に騙して、隠して、取り繕ってきたんだろう。それでもどうしてもダメになりそうなとき、彼女は——。


『……浅野が、傷つくぞ』


 長い沈黙の後、ようやくぽつりと漏れた言葉はそれだった。自分でも卑怯だと思った。浅野の名前を出して、莉奈の心に追い打ちをかけたんじゃないかとも。

 だけどどうしても、思い出してほしかった。お前には浅野がいるだろ、莉奈。

 俺だっている。俺は莉奈のことを必要としてる。だけど、俺以上にまっすぐに愛を伝えられるのは、きっと浅野だけだ。


『すみれは、関係ないでしょ……』


 言い返す莉奈の声はひどく弱々しくて、その様子はなんだか、飼い主に捨てられた子犬みたいだった。

 そんな莉奈を見て俺は察した。ああ、莉奈も浅野に恋をしているのだと。


 愛に飢えた莉奈に、浅野は純粋で優しい愛情を目いっぱい注いでくれた。浅野は自己肯定感が低いから、たぶん何もできていないだとか自己満足だとか言うのだろうが、莉奈にはきっと届いている。自分の欲を満たすためだけじゃない、莉奈の幸せを心から願った本物の愛情が。


 莉奈は、恋とか愛とかそういうものに距離を置いてきた。無理もない、今までの経験が悪すぎたのだ。だからきっと、浅野への気持ちにも気づいていない。しかし、俺がそれを伝えるのはいくらなんでも野暮というものだろう。


 浅野、頼んだぞ。自分の心に蓋をし続けてきた莉奈だからこそ、幸せになって欲しい。助けてあげて欲しいんだ。いいかげん、莉奈を呪いから解放してやってくれ。その役割を担えるのはお前しかいない。


 二人が幸せなら、俺のなんか叶わなくても構わないから。

 だから浅野、莉奈のこと、絶対幸せにしてやってくれよな。

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