第2話 深海莉奈の乱れる乙女心
人間は馬鹿だ。あたしが少し誘惑すれば、すぐに目の色を変えるんだから。どいつもこいつも、あたしにかかればすぐ落ちる。ああ退屈だ——そんな風に思い始めたのはいつからだろう。
もう覚えていないけれど、あたしはあるときから徐々に壊れ始め、今となってはもう戻れないくらいにすっかり歪んでしまっていた。けれどそんなことはどうだっていい。だって、あたしの手のひらの上でくるくると踊る人間を見ているのは楽しいから。
たくさんの人間に囲まれてちやほやされるのは悪い気分ではなかった。みんなが口をそろえて「莉奈ちゃんはかわいいねえ」だの「べっぴんさんだねえ」だの「お嫁さんになって欲しいなあ」だの、耳にタコができるくらい言うもんだから、あたしはたぶん美人なのだと、幼いころから自覚していた。
でも、それはそれで結構大変だった。自分は美人なんだというオーラ全開で歩けば女子から疎まれることを、あたしは知っていた。それに、美人なんだからと人一倍言葉づかいや遊びには気を付けなければならなかった。もし少しでも汚い言葉を使えば、かわいいのにもったいないとかなんだとか、あからさまにがっかりした顔をされるのだ。母はそれを恥ずかしがって、あたしにより厳しくしつけをした。まあそのおかげで多少は美しい立ち振る舞いができるようになったから、母にはいちおう感謝している。とはいえ、それがまだ小さかったあたしには窮屈でたまらなかったんだけど。
本当の父のことは知らない、というかほとんど覚えていない。父はあたしがまだ物心つく前に亡くなってしまった。会ってみたいような気もするけれど、寂しいという感情はほとんどない。覚えてないからね。
そんなこんなで、結構しんどかった時期に出会ったのが裕くんだ。裕くんは唯一、あたしが素をさらけ出せる人間だった。優しくて明るくて、ムードメーカーの裕くんは、みんなの人気者だった。学校ではいつもみんなに囲まれていて、まさに太陽のような存在だった。
でもあたしは知っていた。裕くんが実は無理してるんだってこと。
裕くんは本当は人見知りで、サッカーよりも読書が好きだった。あたしと一緒にお花畑でおしゃべりしてる時間が一番落ち着くって、笑ってた。あたしはあたしで、女の子らしく上品にとか走り回ってはいけませんとか、そういうことに嫌気がさしていたもんだから、裕くんと一緒に馬鹿なことをして大笑いするのが最高に楽しかった。
そういうわけで、あたしたちはほぼ家族みたいなものだった。家族よりも信頼していたし、大人や周りの人々が望む「深海莉奈」や「馬酔木裕」を演じなくて済むから本当に楽だった。
ただ、あまりにも近くにいすぎるせいか、いまだに彼に対して恋愛感情を抱いたことはない。それは裕くんも同じみたいで、そういうところも一緒にいて楽だと感じる要因なんだと思う。
今の会社に就職して、そこですみれと出会った。初めて見たときは、なんだか真面目そうでいかにも育ちのいいお嬢様って感じがして、合わなそうだなって思ってた。でも、話してみると彼女は意外にもズボラであっさりとした性格をしていて、気が合った。真面目なのはそうなんだけど、要領がよくて仕事ができて、しかも融通が利くタイプの真面目だった。本当にいい子なのだ、すみれは。
そんないい子ちゃんなすみれをたぶらかしてみようと思ったのは、ちょっとした気まぐれからだった。だってすみれ、明らかにあたしのこと好きなんだもん。頭いいのに嘘をつくのが下手で素直なすみれは、きっとみんなに純粋に愛されて、何不自由なく暮らしてきたんだろう。そんな彼女がうらやましくて、少しだけ、妬ましかった。
見てみたかった。順調だった自分の人生がある日突然狂わされたとき、彼女はいったいどんな
なんて、そんなことを考えていた矢先に入った突然の旅行案件。あたしは内心でほくそ笑んだ。これはチャンスだ。すみれと二人きりになれる、しかも仕事だから簡単にはキャンセルできない。神様が与えてくれた絶好の機会を逃すわけにはいかないと思ったあたしは、週末の予定を確認もせずに旅行に行くことを決めた。
その日、すみれは一日中楽しそうだった。普段はわりと落ち着いているぶん、子どもみたいにはしゃぐすみれはちょっと珍しくて、かわいいな、なんて思ってしまった。
部屋でくつろぐすみれに抱きついたとき、わかりやすく動揺する彼女は面白かった。あたしがわざとらしく甘えるたびに、顔を赤くして。
『あたしのこと好きでしょ?』
そう言ったときのすみれの顔は忘れられない。この世の終わりみたいな、死ねるなら今すぐ死にたいみたいな、まさに絶望的な顔。
『ごめ、ごめん、私、そんなつもり、じゃ……』
さっきまで赤かった顔を真っ青にして、すみれは震えていた。見ていて可哀想になるくらい、ひどく怯えて。
そんなすみれを見ていたら、なんだか胸が苦しくなった。もう面白いだとか、からかってみようだとかそんな気持ちはすっかりなくなっていた。
でも、あたしにはこんなときどうすればいいかなんてわからなかった。どうすればすみれは喜んでくれるのか、笑顔になってくれるのか。好意を知られただけでこんなにも苦しそうな顔をする人間を、あたしは他に見たことがなかった。
『ねえすみれ、キスして』
あたしにできることはそれくらいだった。あたしとキスしたら、みんな嬉しそうな顔をするから。きっと間違っていることくらいわかっていた。だけど、他にいい方法なんか思いつかなかったんだ。あたしはもうそれ以上、すみれの辛そうな顔を見たくなかった。すみれがそんな顔するたびに、あたしまで胸が痛むのだ。まるで熱い鉄の塊をまるごと飲み込んだみたいな、激しい痛み。こんな感覚、初めてだった。
すみれにキスされたとき、なぜだか妙に安心した。
ずっと待っていた、なんて馬鹿みたいなことを思ってしまうくらい、彼女の愛は心地よいものだった。まさか逃げ出してしまうとは思わなかったけど、あたしはなんだか呆然としてしまって、追いかける気にもなれなかったのだ。
ねえすみれ、もっと愛して。あたしのことだけ想ってて。
あのふわふわとした心地のよい気分に浸れるのなら、彼女以外の愛なんて捨ててしまえるとさえ思った。ああどうか、少しでいいから、あたしに幸せな夢を見せて。
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