花に香るは恋心
しらゆき
第1話 浅野すみれの愛
誰かこの状況を説明してください——なんてタイトルの本があった気がするが、私は今まさにそんな状況に陥っていた。
どうしてこんなことになっているのか、きっかけは約一週間前にさかのぼる。
「突然なんだが、今週末、誰か空いてる人いないか?」
八月四日、都内オフィスにて。
一歩外に出れば吐き気がするほどの暑さに襲われるそんな季節に、クーラーの冷気をガンガンに浴びながら仕事をしていた私の耳に突然聞こえてきたのは、そんな言葉だった。
今週末、か。パソコンのキーボードを叩きながら、頭の中でスケジュール帳をめくる。特に予定はなかった気がするけれど、いちおう確認のために、とパソコンを触る手を止めて、鞄の中をあさった。
「今週末ですか? 何かありましたっけ?」
スケジュール帳を取り出すと同時に、同僚の
「いや、それがだなぁ。先方とのコラボ企画で、PRのために旅行に行こうってのあっただろ?」
「ああ、ありましたね」
「向こうの都合で、どうしても今週末じゃなきゃダメらしくてな……」
「えっ、それはまた急ですね」
驚いた声をあげる馬酔木。私もびっくりだ。
私の勤める会社は広告関連で、私は主に営業を担当している。先日の取引で、旅行会社とコラボを行うことになり、私たち営業部の誰かが旅行に行くことになった。そこまではよいのだが、双方の予定が合わず、なかなか日取りが決まらなかったのだ。それがいきなり今週末だなんて、いくらなんでも急すぎる。
「すみません、僕ちょっとパスでお願いします」
「私も予定があって……」
皆申し訳なさそうに、口々と断っていく。無理もない、営業部は大学を出たばかりのピチピチの子が多いのだ。まだまだ遊びたいざかりだろうし、友達や恋人との約束があるのだろう。
一方、定年間際の人々も「俺たちじゃ宣伝にならねぇよなぁ」「家族がいるしねぇ」などと言っており、あまり乗り気ではなさそうだった。
これはたぶん私に話が回ってくるな、と思った瞬間、困り顔の部長がこちらを向いた。
「
やっぱりね、と私は心の中で呟いた。
実を言うと、私はあまり旅行が好きではない。乗り物に酔いやすいのと、疲れてしまうからというのが理由で。行けばそれなりに楽しめはするものの、進んで行こうとは思わなかった。
しかし、会社のためとなるとそうも言ってはいられない。若い子たちもおじさんたちも、困ってるみたいだし。
「大丈夫ですよ、行けます」
できるだけ明るくなるように努めて、私は微笑んだ。社内の空気がほっと緩んだのを感じ、内心息をつく。
よかった、これでなんとかなりそうだ。
そう安心していたところで、向かいの席からかわいらしい声が聞こえた。
「わたしも行けます〜」
「おお、
部長が嬉しそうな声をあげる。
深海くん、と呼ばれたその女性は、人好きのする笑みを浮かべ、顔の横の巻き毛を揺らしながらうなずいた。
深海
ぱっちりした二重に、くるんと毎日丁寧に巻かれた茶髪のセミロングヘアー。近くを通れば香水らしきよい香りが漂うし、甘え上手で、いつもかわいく笑っている。
私は、彼女のことが好きだ。
生まれて初めて、ひとめぼれというやつをしてしまったらしい。後にも先にも、あんなに心を揺さぶられることなんかないと言い切れるくらいの胸のざわめき。
彼女に出会った瞬間から、私の中の“恋”の認識はあっけなく崩れ去ってしまった。それなりに恋愛はしてきたし、デートも、ハグも、キスも、それ以上のことだって。
でも、そんな今までが本当に恋だったのか疑うほどに、私の彼女への想いは異常だった。
彼女の笑顔と幸福が守られるのなら、他の何物をも犠牲にしたって構わないとさえ思ってしまう。そばにいられるだけで幸せだなんてふざけた冗談だと思っていたのに、近づくことすら不安になるこの感情こそが、きっと恋なんだろう。
今までだって、付き合った相手には幸せでいて欲しかったし、彼のためにといつも尽くしてきた。ありがとうと笑ってもらえるのが嬉しくて、彼の好きな「私」になれるよう努力してきた。だけど、会えなくても、好きだと言ってもらえなくても、身体を触れ合わせることができなくても、それほど心の痛みはなかったのだ。それなのに、莉奈のことを考えると苦しくて、痛くて、たまらない。
彼女が私のことを考えてくれればどんなにいいだろう、あのかわいらしい笑顔を私にだけ向けて欲しい。
考えてもどうしようもないことばかりが頭を埋めつくして、自分がとてつもなく馬鹿になってしまったみたいだ。
だいたい、今まで同性に対してこんな感情を抱くことなどただの一度もなかったのに。私はいったいどうしてしまったんだろう。
「すみれ、頑張ろうね!」
いつも通り、あどけない笑顔を浮かべた莉奈にそう声をかけられて、ハッと我に返る。いけない、仕事中に意味もない考え事にふけるなんて、私は何をしているんだ。
「うん、そうだね」
「ふふ、楽しみだなぁ。行ったことないとこだし、すみれが一緒でよかった」
そう言って、いたずらっぽく笑う莉奈。
ほら、またそんなこと言って、私を惑わせる。
彼女の言葉に深い意味なんてないんだろうことは、私が一番わかっているのに。
それでも、嬉しいやら苦しいやら、溢れ出てくる感情が止められない。
莉奈への想いは、吐き気がするほど複雑で、情熱的で、エモーショナルで、歪んでいた。
それでも、私のこの想いを莉奈に伝える気はまったくなかった。
莉奈に初めて出会ったのはこの会社だ。私たちは同期から友達、いまや親友と呼べるまでの関係になっていて——だからこそ知っていた。莉奈が異性愛者であることも、私のことは友達としてしか見ることができないことも。この恋は墓場まで持っていこうと、そう決めてから、気づけば五年以上が経っていた。
本当は、莉奈と旅行に行けるなんて、仕事でも嬉しくてたまらない。莉奈とは長いこと一緒に過ごしてきたが、旅行は初めてなのだ。彼女と同じ部屋に泊まって、一緒にご飯を食べて。おいしいね、なんて笑い合うのを想像しただけで、心拍数が跳ね上がってしまうような。
馬鹿だなあ、私。何もあるわけないのに。今までどちらかの家に泊まったときだって何もなかったし、彼女からすれば私はただの友達でしかなくて、それ以上を望んでいるはずがないのに。
もしかすると、なんて期待してしまう。こんな妄想に、莉奈を登場させることすらおこがましい。
ああ、私は彼女を前に、この気持ちの悪い感情を露呈させてしまわないだろうか。
自己嫌悪と罪悪感、ちょっぴりの期待を胸に、私は不安だらけの旅行に向かうことになった。
なった、のだけれど。
そんな邪な感情を抱いたまま来てしまったものだから、天罰が下ったのだろうか。
順調に取引先との打ち合わせを終え、仕事と称して観光を楽しんできた。ヒノキの香りが落ち着く素敵な旅館に、柄にもなくはしゃいだりなんかして。旅館にチェックインした私たちは、おいしいご飯を食べて、予想通りにおいしいね、と顔を見合わせて笑った。そこまでは、よかったのだ。互いにお風呂も済ませ、さあ寝ようというときに、事件は起こった。
午後十時過ぎくらいだったろう。眠るにはまだ少し早いけれど、久々の旅行と、一日中好きな人——莉奈が隣にいる環境のせいで、私はなかなかに疲れてしまっていた。プライベートで一日中、一緒にいることもあるとはいえ、これはあくまで仕事だ。変に気を抜くわけにはいかない。そういう意味でも、日中気を張り続けていた私はもうくたくただった。明日の予定の確認をしようと、足を投げ出して座ったままスマホを操作する。もうすぐ眠れるという安心感のためか、私は完全に油断していた。何度でも言おう。そう、完全に油断していたのだ。
一瞬の出来事で、最初は何が起きたのかわからなかった。両肩にのしかかる質量と、甘い香り。私の手から、カタンと音を立てて畳に滑り落ちたスマホ。バランスを崩して咄嗟に後ろについた左手。
突然、莉奈が私にぎゅっと抱きついてきたのだ。
「……え?」
ひどく間抜けな声が口から漏れる。慌てて口を押さえると、私は高速で頭を回転させ始めた。そして冒頭に戻る。
ちょっと待って。何が起こってる?
莉奈が私に抱きついてきた。オッケー、いや何もオッケーじゃないんだけど、とりあえず状況はわかった。問題は、なぜ莉奈が突然そんなことをしてきたか、だ。
わからない。わからないが、もしかしたら、体調が悪いのかもしれない。そうだとしたら大変だ。
「ど、どうしたの、莉奈。具合悪い? 大丈夫?」
「ううん、全然元気だよー」
「そ、そっか。それはよかった……」
全然よくない。じゃあなおさら意味がわからないじゃないか。夕食で少しだけお酒を飲んだから酔っているのかと思ったけれど、彼女はこの程度で酔う人間ではない。今まで何度も莉奈と飲んできた私にはわかる。現に、彼女はケロッとしていた。抱きついてきていること以外におかしな様子はひとつもない。
「酔ってないよね?」
「うん。深海莉奈、二十八歳、今は仕事が終わってすみれと一緒に寝ようとしてるとこ」
「……自己紹介ありがとう」
うん、意識ははっきりしているみたいだ。酔ってないっていう人ほど酔ってるだなんてよく言うけれど、彼女は本当に酔っていない。できれば酔っていてくれたほうがまだよかった。
体調は悪くないし、酔ってもいない。だったら考えられる可能性はあとひとつ。
「寂しくなっちゃった?」
莉奈は結構寂しがり屋なところがあるから、たぶん抱きついて気を紛らわせたかったのだろう。こっちからすれば、心臓に悪いことこの上ないんだけど。
そう結論づけて、私は彼女にそう問いかけた。しかし、莉奈の返答は意外なもので。
「ううん。すみれがいるから寂しくないよ」
少し体を離した莉奈は、きゅるりとした小動物のような丸い瞳を私に向け、小さく首をかしげる。あざとい。そしてかわいい。
ドキドキと激しく波打つ心臓の音が聞こえていないかと不安になる。今になって考えてみれば、女子が女子に抱きつく光景なんてよく見るし、学生時代には自分もそういうことをされていたような気もする。しかし、なにせ相手が莉奈だったものだから、私は完全に冷静さを欠いてしまっていた。
「そ、そっか。じゃあなんでハグ……」
「嫌?」
「べ、別に嫌ってわけじゃないんだけど、珍しいなって」
落ち着け、落ち着け浅野すみれ。
心の中で必死にそう言い聞かせるが、動揺のためかわずかに声が震えてしまう。なんとか平静を取り戻そうと、目を閉じたときだった。
「そうだよねぇ、嫌なわけないよね」
どこかねっとりとした、含みを持った莉奈の声が下から聞こえた。パッと目を開けて見下ろせば、そこには上目づかいで私を見つめる笑顔の莉奈。
なぜだろう、とてつもなくかわいいはずのその笑顔が、ひどく恐ろしく見えた。
「えっ?」
「ねえ、すみれさあ」
にっこりと微笑んだまま、莉奈は甘い声で囁く。聞いちゃいけない、そんな気がした。けれど私は彼女から目をそらすことも、言葉を遮ることもできなかった。
「あたしのこと好きでしょ?」
しんとした室内に、莉奈の声だけが響く。聞き間違い、ではない。あまりに唐突に訪れた己の恋の終わりを悟り、頭の中が真っ白になる。
「え、は、何、言って……」
なんで、なんでバレた? 今までずっと、こんなに頑張って隠してきたのに。想いを伝える気なんてなかったのに。どうして、どうして——。
「あはは、すみれってば焦りすぎでしょ。ほんと、昔から嘘下手だよね」
私の気持ちを知ってか知らずか、莉奈はいつものようにかわいらしく笑った。まるで、初めからこうなることがわかっていたかのように。
「さすがに気づくよ。いっつもあたしのこと見てるし、今だって好きじゃないならそんな顔しないと思うもん」
莉奈が言葉を紡ぐたびに、指先からどんどん体が冷えていくのを感じる。夏なのに、冷房のよく効いた室内では暑さなんて関係なかった。
そんなにわかりやすく態度に出ていたのだろうか。ずっとバレていないと思っていたのに、それが実は、初めから気づかれていたとしたら。
私の重苦しい感情を知っていながら、気づかないふりをして今日まで黙ってくれていたのだとしたら。
莉奈が、とっくの昔に私を見放していたのだとしたら。
「ごめ、ごめん、私、そんなつもり、じゃ……」
呼吸が浅くなる。口の中が乾いて、うまく声にならない。
ダメだ、落ち着かなくっちゃ。このままじゃ莉奈が悪者みたいになってしまう。
悪いのは全部、私なのに。気持ちを隠せなかった私なのに。
美しい莉奈に、この歪んだ感情の一端でも見せてしまっていたかもしれないと、そう考えるだけで猛烈な吐き気に襲われる。
「えっ、なんで謝るの。違うよ、あたし、すみれにそんな顔させたかったんじゃない」
ああ、どこまでも優しい莉奈は、まだこんな私の心配をしてくれるのか。泣きそうになるのをギリギリで堪えて、ぐっと唇を噛む。下を向いた私には、莉奈がどんな表情をしているのかもわからない。
怖かった。目を合わせてしまえば、何かが壊れてしまいそうだったから。
「ねえすみれ、顔上げてよ。あたし、嬉しかったんだから……すみれの気持ち」
物柔らかな声に、思わず顔を上げる。パチリ、目が合った。私に向けられた莉奈の目は、とても優しかった。
「ねえすみれ、キスして」
莉奈の口から聞こえた言葉に、自分の耳を疑った。疑わざるを得なかった。彼女への想いが強すぎるあまりに、ついに幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか。そうとしか思えなかった。
あるいは夢なのか。だとしたら、どこからが夢だろう。
出張が決まったところから? 莉奈に気持ちがバレてしまったところから? それとも——ああもう、なんでもいい。夢なら一刻も早く覚めてくれ。お願いだから。これ以上、私の妄想で莉奈を汚したくない。
「すみれ」
少し冷えた両手に、頬を包まれた。感触がしっかりと伝わってくる。私の名前を呼ぶ声は、間違いなく現実の莉奈のものだった。
「あ……莉、奈……」
ん、と愛らしくうなずく莉奈。ダメだ、流されちゃいけない。二度と戻れなくなる。絶対にダメ、早く離れなきゃ、早く——。
「いいよ、すみれ。キスして」
耳元で囁かれる甘美な響きに、脳がくらりと揺れる。なんで、そう理由を聞けばよかったんだろう。でもそのときの私はまるでどうかしていたのだ。全身が沸騰したように熱くて、何も考えられない。すみれ、ともう一度呼ばれた瞬間、私の中の理性の糸がプツンと切れる音が聞こえた気がした。
耐えられる、わけがなかった。
「おはようございます、浅野さん!」
「あ、おはよう……」
出勤すると同時に明るく声をかけてくれる後輩。彼女に挨拶を返しながらも、私は自分の声が思ったより沈んでいることに気がついた。
「どうしました? なんだか元気なくないですか」
心配そうにそう尋ねてくる後輩に、私は慌てて笑顔を作る。
「ううん、ちょっと考え事してただけ。ごめんね、大丈夫だから気にしないで」
「そうですか? 悩みとかあったら言ってくださいね、なんでも聞きますから!」
「うん、ありがとう」
彼女が去るのを見届けてから、小さくため息をついた。考え事、か。まあ嘘ではないな、と心の中で呟き、またため息をつく。
自分の笑顔は引きつっていなかっただろうか。優しい後輩に、余計な心配をかけたくはない。
彼女はなんでも聞くと言ってくれたけれど、まさか職場の先輩が目先の欲に負けて、付き合ってもない女性の唇を奪ってしまったなどとは夢にも思わないだろう。しかも、相手はまた別の先輩。聞かされるほうの身になれば、とても相談をする気など起こらない。
「おはよう、すみれ」
突如聞こえた愛らしい声に、私は思わずびくりと肩を震わせた。私の驚きと連動するように、オフィスチェアがギッと音を立てる。
「……お、はよ。莉奈」
立っていたのは、まさに私の悩みの中心にいる人物、そしてできることなら今は一番会いたくない人物だった。
無理もない。あんなことがあったあと、どんな顔をして彼女に会えばいいというのだろう。
私は激しく後悔していた。合わせる顔がないとはまさにこのこと。
なかば衝動的に唇を重ねてから、私はハッと我に返った。やってしまった、どうしようという感情だけが頭を埋めつくし、弾かれたように立ち上がる。スマホとまとめてあった荷物を引っ掴むと、なんと私はその勢いのまま泊まる予定だった旅館を飛び出し、逃げ帰ってしまったのだ。「すみれ!」と私を呼び止める声が聞こえたけれど、振り返らず、無我夢中で走り去った。
次の日、私は一日中家に引きこもっていた。莉奈から何か連絡が来ているかもしれないと思うものの、電源を切ったままのスマホを見る勇気などなくて。何をするでもなく、ただ時計の針が進むのを見つめていた。
誰にも会いたくなかった。何もしたくなかった。
もともとは今日帰る予定だったため仕事の心配はなかったが、明日会社で莉奈と顔を合わせなければならないと思うと気が重くなった。
それでも出勤しないわけにはいかず、覚悟を決めて出てきたのが今日だ。
そして、今に至る。
ぎこちない笑みを貼りつけながらなんとか挨拶を返した私に、莉奈はいつも通りの笑顔を向けた。私がしたような不自然なものではなく、とても自然なスマイル。
始業まであと十五分。彼女は私の隣の席——本来は馬酔木の席だ——に座り、顔をパタパタとあおいだ。椅子の上でゆらゆらと揺れながら、元気に話しかけてくる。
「はー、生き返るっ! 今日外すっごい暑くなかった? もう汗やばいよー」
「え、ああ……うん、そうだね」
「ねー。ほんと勘弁してよ太陽さんって感じ」
ぐっと伸びをする莉奈。あまりに普段通りの彼女の様子に、少し拍子抜けしてしまう。
実はこの前のことは全部夢だったんじゃないだろうか。そんな希望すら抱いてしまうが、残念ながらそれはなさそうだ。
だって、確かに覚えている。彼女の柔らかな唇の感触も、熱くなった頬も、対照的に少し冷えた指先も。
なにより自分の感情が、これは嘘でも夢でもないと証明していた。今にも吐いてしまいそうなほどの罪悪感と後悔が、現実から目を背けさせてくれない。
このままじゃいけない。
私はある意味では真面目な人間だった。ある程度の常識や、倫理観は持ち合わせているつもりだった。彼女でもない相手とキスをした時点で説得力はないかもしれないが、ともかくこのままじゃいけないと、そう思ったのだ。
「……でさあ、さっき食べたメロンパンがめちゃくちゃおいしくて!」
「莉奈」
莉奈は何か喋っていたようだけれど、正直それどころではなかった。一刻も早く、この状況をなんとかしなければ。私はそのことで頭がいっぱいだった。彼女ときちんと話し合いたい、それが私の思いだ。
莉奈は忘れたがっているかもしれない。罪悪感から逃れたいがための、私の自己満足でしかないかもしれない。でも、このままなあなあにしてしまうよりは絶対にそっちのほうがいい。
莉奈は何を思ってあんなことを言ったのか、私のことをどう思っているのか。そして、これからどうすべきか。
間違っても私は、莉奈のようにはできなかった。何事もなかったように、なんてできるわけがなかった。だって私は、莉奈のことが好きだから。
「ん、どしたの、すみれ」
「今日仕事終わり、時間ある?」
「えっと、うん、たぶん大丈夫。どうかしたの?」
不思議そうに小首をかしげる莉奈。本当に何もわかっていないのだろうか。だとしたら、莉奈にとってあの晩のことは、気にするほどのことではないとでもいうのか。
莉奈、あなたはいったい何者なの。
そう問いかけたくもなるが、今重要なのはそこではない。私はすっと小さく息を吸うと、莉奈の目をまっすぐに見つめた。
「少し、話せないかな。この前のこと」
数秒の沈黙。始業まで、残り十分を切った。ざわざわと人々が話す声が、どこか遠くに聞こえる。
「うん、わかった! じゃあ、仕事終わったら声かけるね」
にっこりと笑いながらうなずく莉奈に、ほっと息をつく。一瞬だけ彼女の表情がこわばった気がするのは、私の気のせいだろうか。
「ちょっと深海、そこ俺の席なんだけどー」
不意に聞こえてきた声に驚いて上を見ると、そこには頬を膨らませた馬酔木が立っていた。どうやら彼の席を占領している莉奈に対して言っているらしい。
「あ、裕くんごめんね? すぐのくから」
「おう。お前ら仕事しろよー」
「いっつも始業ギリギリに来るあなたに言われたくないんだけど?」
「うっ、間に合ってんだからいいじゃん。浅野は真面目だなあ」
「馬酔木が不真面目なんじゃないの?」
「あっはは、裕くん怒られてやんのー」
ごちゃごちゃ言いながらも、笑い合う私たち。馬酔木のおかげで幾分か空気が緩んだ気がする。心の中で彼に感謝しながら、私はそっとコーヒーを口に含んだ。
そうこうしているうちに予鈴が鳴った。慌てて席に戻る莉奈と、相変わらずなんだか楽しそうな馬酔木。彼らを見ていると、私もなんだか笑顔になってくる。
よし、今夜きちんと莉奈と話し合おう。大丈夫、きっとうまくいく。
根拠のない自信を得た私は、先ほどまでとは打って変わって、すっきりとした気持ちで部長の声を聞いていた。無意識のうちに背筋がしゃんと伸び、頭が仕事モードに切り替わる。
この決断が私の運命を大きく変えることになるだなんて、このときはまるで予想していなかったのだが。
「お疲れ様でーす」
「お疲れー」
午後六時過ぎ、仕事を終えた社員たちが次々と会社を出ていく。うちの会社は比較的ホワイトなので、定時退社の人が多いのだ。
ちらりと向かいの莉奈の様子をうかがう。莉奈はまだパソコンと向き合い、真剣な表情でキーボードを叩いていた。どうやらまだかかるらしい。
莉奈は誤解されることも多いけれど、仕事にはとても一生懸命取り組むし、やるときはやる子なのだ。普段の笑顔とこの真剣な顔のギャップがいいんだよね、なんて考えながらぼんやり眺めていると、パッと顔を上げた莉奈と目が合った。驚くと同時にドキリと鳴った心臓をごまかすように、慌てて言葉を発する。
「お疲れ様、まだ結構かかりそう?」
「お疲れ! うーん、あと五分くらいあれば終わりそうかな。ごめんね、急ぐからちょっと待っててもらっていい?」
「わかった。ゆっくりで大丈夫だからね」
「うん、ありがとう!」
ニコッと笑うと、すぐに真剣な表情に戻って再びパソコンとにらめっこし始める莉奈。かわいいな、なんてにやけてしまいそうになるのをなんとか堪える。
四分後、「できた!」と向かいの席から嬉しそうな声が聞こえてきた。声の主はもちろん莉奈。
「終わったの?」
「うん! あと送信したら終わりだよ」
「よかった、お疲れ様」
「ありがと~! ごめんね待たせちゃって」
「ううん全然、早かったから気にしないで。頑張ったね」
微笑みながらそう言うと、莉奈はえへへと照れたように笑う。存在しないはずのぶんぶんと揺れるしっぽが見えそうだ。
頭を撫でようと、手を伸ばしかけたところで思いとどまった。いけない、今日はきちんと話し合いをするつもりなんだから。
「どうする? どっかでご飯食べよっか?」
「そうだね、個室のとこがいいから……この前行った駅前の居酒屋とかどうかな?」
個室、という言葉に少しドキッとする。あんなことがあったあとに個室なんて、本当に大丈夫だろうか。しかし、正直なところ会話の内容を聞かれたくないのもまた事実。大事な話をするのに個室という彼女の選択は間違っていない。メンバーが私と莉奈じゃなければ、の話だが。
しばらく悩んだ末、私は莉奈の意見に賛成することにした。やっぱりこのことを他人に知られるのは困る、というか嫌だ。他の客だって、楽しく飲んでいるときに私たちのとんでもない話が聞こえてきたら迷惑だろう。大丈夫、今までだって何度も二人で食事してきたし、お互いの家に行ったことだってある。第一、もしそういう雰囲気になっても、私が断ればいいだけの話じゃないか。大丈夫、きっと大丈夫だ。
「いいね。じゃあ行こっか」
「うん!」
ああ浅野すみれ、あなたが思っているよりもはるかに人間の意志なんてのは脆い。
よくも悪くも、この事実は今後の私の人生における教訓となった。
ガヤガヤと騒がしい声が聞こえる中、私たちは個室内で、いつものように向かい合って座っていた。まずはビールを二杯、それから唐揚げやカツオのたたきなどお酒と一緒につまめるものをいくつか注文し、運ばれてくるのを待つ。
「それで、話って?」
注文の品がすべて届いたタイミングで、先にそう切り出したのは莉奈だった。覚悟はしていたものの何から話すかあまり考えていなかった私は、突然のパスに驚き、焦ってしまう。
「あっ、ええと……その、この前のことで、さ」
「うん」
ダメだ、まったくまとまらない。何か言わないと、と思うのに、いざ彼女を目の前にすると、言おうと思っていたことがすっかり頭から抜け落ちてしまった。
慌てる私とは対照的に、莉奈はずいぶん落ち着いているように見える。その落ち着きは、いっそ不気味なほどだ。気まずいとか、そういう感情がこの子にはないんだろうか。だとしたらすごいな、なんて思いながら、私はなんとか気分を落ち着かせようとビールをあおった。
「ごめん、この前は逃げちゃって。私びっくりして、自分が何したのか信じられなくって……本当に、ごめん」
話し始めてみると、案外すらすらと言葉が出てきた。ちゃんと謝れたことに、内心少しほっとする。
「あー……まあ、そうだね。危ないから、あんな夜遅くに一人で飛び出しちゃダメだよ? 心配したんだから」
莉奈はちょっとだけ怒ったような顔をして言った。もっと怒ってもいいのに、初めに出てくるのが心配だなんて、なんとも優しい莉奈らしい。
しかし、問題はまだちっとも解決していない。
「ねえ、莉奈。ひとつ質問したいんだけど」
「質問?」
「うん。その……どうしてあんなこと、言ったのかなって」
どうして私にキスをせがんだのか。一番の謎はそこだった。莉奈は少し考えるように、うーんと頬杖をついている。
「あんなこと、って、あたしがすみれにキスしてって言ったことだよね」
「……うん、そうだよ」
「どうしてって言われると難しいなぁ。強いて言うなら、すみれが喜んでくれるかなって思ったから、かな?」
あっけらかんとそう言い放った莉奈に、一瞬ぽかんとしてしまった。私が喜んでくれると思ったから、って……え、噓でしょそんな理由?
「冗談、だよね? そんな理由でキスってするもんじゃないでしょ?」
「冗談じゃないよ。え、これってそんなに悪いことかな」
「悪い、っていうか……」
相手を喜ばせたいという彼女の優しさ——サービス精神ということなのだろうか。だとしたら、いくらなんでも度が過ぎている。おかしいとしか言いようがない。
「でも、そんなのおかしいよ。好きでもない相手にそんな……」
「えー、そう? みんな喜んでくれるんだからいいじゃん」
そう言って不思議そうな顔をする莉奈。だが私はあまりの衝撃に、しばらく言葉が出てこなかった。
みんな? 今みんな、って言った?
まさか。嫌な予感が脳裏を駆け巡る。
「みんな、ってどういうこと?」
声が震える。もし私の予想が当たっていたなら、莉奈は、私の大切で大好きな人は、私以外の人間にもそういうことをしている可能性があるということで。
「え、だから、あたしのことを好きだのかわいいだの言ってくる人たちだよ。正直最初は気持ち悪かったけど、もう慣れちゃった。あたしもう、そういうことに関しては何も感じないんだ」
感情なくなっちゃったみたい、壊れちゃったのかな。そう言って微笑む莉奈の目は、少しも笑っていなかった。
絶句する。最悪の予想が当たってしまったことに対する絶望と混乱で、頭が支配されていく。
「あっ、すみれのことは気持ち悪いなんて思ってないから安心してね。好きだからって過剰に触ってきたりしないし、いつも優しいもん」
そう言って莉奈は無邪気に笑った。その笑顔は、子どもの悪意のない残酷さを思わせる。
「莉奈……自分が何してるかわかってるの?」
「わかってるよ。だけど好きな人とキスしたり、想像してたようなことできたりするのって嬉しいでしょ? 実際、すみれだってキスしてきたじゃん」
「そ、れは……」
言葉につまる。それを言われてしまえば、何も言えない。
「だいたい、すみれにどうこう言われる筋合いないでしょ。付き合ってもないのに」
「なっ……」
ふっと笑い、吐き捨てるように言う莉奈。五年も一緒にいたはずなのに、彼女がまるで別人に見える。こんな莉奈、初めて見た。
「……確かに付き合ってはないけど、心配するでしょ。友達なんだから」
「心配? 違うよ。すみれはあたしが他の人間にとられるのが嫌なだけだよ」
「違っ、だって、誰か一人の人と付き合ってるんなら応援するよ。だけど、こんなの間違ってる」
「間違ってるなんて誰が決めたの? あたしはちやほやされてハッピー、向こうはあたしと楽しいことできてハッピー。誰も損しないじゃん」
もうどうしていいかわからなかった。莉奈を止める方法を必死に探したけれど、うまい言葉は何ひとつ思い浮かばなくて。
『あたしが他の人間にとられるのが嫌なだけだよ』
莉奈の発言がフラッシュバックする。否定したいのに、絶対に違うと言い切れなかった。不甲斐ない自分が情けなくて、悔しい。
「見る? これ」
莉奈は自分の服に手をかけて、鎖骨付近の布をぐいと下に引っ張った。半袖のトップスがずれ、日に焼けていない真っ白な肌があらわになる。否、真っ白ではなかった。彼女の肌には、いたるところに赤や紫の鬱血痕が散っていた。
それを見た瞬間、頭に血がのぼるような、はらわたが煮えくり返るような、そんな感覚に襲われた。この気持ちは何かしら、なんてどこかの少女漫画の鈍感主人公みたいなことは言わない。
これは嫉妬だ。おまけに燃え上がるほどの激しい憎悪も。
嫌だ、すごく嫌だ。なんで、なんでなんでなんで!!
莉奈は私のものじゃない。わかっているのに止められなかった。とめどない怒りと悲しみが、全身から沸き起こる。
「あは、すみれすっごい怖い顔してる。やっぱり嫌なんだ?」
くすくすと楽しそうに笑う莉奈に、言い知れぬ感情で胸がいっぱいになる。呆れ、失望、そのどちらでもなかった。こんなことになってまで、それでも私は莉奈を嫌いになれないのだ。どうしようもなく好きで、だからこそ辛くてたまらない。
「嫌に決まってるでしょ!? だって、私……」
視界が涙で滲み、ぼやけてくる。私、の先の言葉が出てこなかった。口が動かない。喉がひりひりと焼けつくように痛む。
「莉奈のこと、好きなんだもん……」
ぽたりと一滴の雫が床に落ちた。苦しいなのか悲しいなのか、何による涙なのかは自分でもよくわからない。けれど、取り返しのつかないところまで来てしまっているのだと、それだけははっきりと理解できた。
「泣かないで、すみれ」
私よりも少し高めの、優しい声が響く。周りの音がすべて遮断されてしまったように、静かな部屋には彼女の声だけが聞こえる。
「怒ってないよ。嫌いじゃないよ、すみれ。だから泣かないで」
嫌いじゃない。決して好きだとは言わない莉奈に、またずきりと胸が痛む。わかっていても苦しいものは苦しいのだから、仕方がない。
「ごめん、こんな……気持ち悪いよね、迷惑だよね。ごめん」
「そんなことないから。これ以上自分のこと責めないで」
莉奈は幼い子をあやすように、そっと背中を撫でてくれた。それにどうにも安心してしまって、荒かった呼吸が少しずつ整ってくる。だいぶ落ち着いたところで、莉奈がゆっくりと口を開いた。
「すみれはさ、どうしたい?」
「……え」
何を問われているのかわからなかった。莉奈は続けて言う。
「あたしのこと、誰にもとられたくないって思う?」
彼女はとてもまっすぐな目をしていた。真剣なまなざしに、思わずたじろいでしまう。
誰にもとられたくない。
好きな人がいるなら、そういう思いは誰しもが抱くものだろう。もちろん私も例外ではない。しかし私は莉奈と付き合いたいとは思わなかった。
聖人というわけではない。むしろ、自分が傷つきたくないという自己防衛からこの気持ちは来ているのだと思う。
今の莉奈は、告白すればたぶん私のことを好きでもないのにいいよと言うのだろう。そして、ふらふらとすぐどこかへ行ってしまうのだ。そんなの、むなしいだけじゃないか。彼女が私のことだけを見てくれるようになるまでは、付き合いたくない。
「ふうん、そっか」
私の思いを聞いた莉奈は、意外そうに眉を上げた。
「てっきり付き合って、って言うのかと思ってた」
「言わないよ。私はわがままだから、莉奈の気持ちがないのに付き合うなんてことしたくない」
「……珍しいタイプの人間だね」
「そうかな、結構いると思うけど」
あたしの周りにはいなかったな、と呟く莉奈の顔が少しかげった気がして、私はそっと首をかしげた。今まで彼女と接する中で、何度かこういうことがあった。やはり過去に何かあったのだろうか。
「だけど、正直やっぱり誰のとこにも行ってほしくないって思いはある、よねぇ」
私の唇からこぼれ落ちた言葉が、静かに揺れる。
「ねえ莉奈、もう誰かに触らせたりしないで……なんて言ったら束縛みたいで嫌? 付き合ってもないのにって思う?」
どこか自嘲めいた笑みを浮かべながら、私は聞いた。莉奈からのよい返答などとても期待できないだろうから。
せめて引かれていませんようにと願いながら見上げると、莉奈はちょっと困ったような顔をしていた。なんて答えようか迷っているような、そんな顔。
ごめんね、困らせちゃったよね。そう言おうと口を開きかけたところで、莉奈の声が重なった。
「ううん。いいよ」
「……え?」
「あたし、もうすみれ以外の人に触らせないようにする」
「え、え!? ……本当に、いいの?」
驚いて、素っ頓狂な声をあげてしまった。ここは店内だということを思い出し、慌てて声のボリュームを下げる。
「いいよ。その代わり、ちゃんと愛してくれる?」
莉奈はすっと目を細めて笑った。試されているような、どこか色気のあるその表情につい見とれてしまう。
「わかった。好きだよ、莉奈」
「ふふ、知ってる」
本当にずるいと思う。こんなに振り回されているのに、それが嫌どころかむしろ心地いいなんて。
「ねえすみれ、あたしね、キス好きなんだ。なんかすごく安心するの。だからさ……」
言い終わる前に、私は彼女の唇を奪った。彼女がいつもつけている、スウィートな香りに包まれながら。触れるだけの軽いものだったけれど、充足感が胸の中に満ちていく。
「……ありがと」
そう言って笑う彼女の顔は、まるで花がほころんだようにかわいらしかった。
また、莉奈への愛が募っていく。
恋人ではない、友達や親友ともちょっと違う私たちの関係は、いったいなんなんだろう。なんという名前で呼ぶのが正しいんだろう。わからない、きっと正解なんてないんだと思う。それでもいい、だって幸せなんだから——そう思っていた。
まさか私が、その幸せを壊すなんて。
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