春の山のうしろから煙が出だした
僕はなるべく早く、句集を読みたいような気持ちになっていた。なんでかは分からないけれど。ただ、あんな人生を歩んだ人間がどんな俳句を作るのか、それは純粋に僕の興味を惹いた。
町の方へと戻ろうか。そう一瞬考えたけど、ここまでどうやって来たのかさえ僕は覚えていない。きちんと町の中心まで戻れるか怪しかった。そんな途方もない行脚はしたくない。僕は、来た道とは反対側、山の方へと目を向ける。坂に並ぶ墓地。坂はずっと先まで続いていて、その一番向こうに、他のものとも離れて立つ墓石が見えた。あれは、もしかして。僕の足は坂へと向かっていた。いつの間にか、先までの疲労は完全に消え去っていた。
僕の予想は当たっていた。それは、尾崎放哉の墓だった。墓石の前には、ワンカップの酒と煙草の箱。ご丁寧にライターまで供えられている。句集を読むならここだ。ほとんど確信に近く、そう思った。
僕は、墓石に背中を預けて地べたに座り込んだ。ペンはとりあえず胸ポケットにしまって、膝の上に句集を置く。目次までのページを飛ばして、句が書かれたページをめくる。
「底が抜けた柄杓で水を呑まうとした」
最初の句はそれだった。底が抜けた柄杓で水を呑まうとした。底が、抜けた柄杓で、水を呑まうと、した。そこがぬけたひしゃくで、みずをのまうとした。口先で、何度もそれを繰り返す。呟くほどに、何か胸の中で波立つような感触があった。花嵐が春野を吹き抜けるような。あるいは、琴の弦がりんと鳴るような。でもそれは、呟いている間の一瞬のことで、すぐに胸の中から消え去ってしまう。僕は、あの感覚を再び求めるようにページを繰る。「釘箱の釘がみんな曲がって居る」「何か求むる心海へ放つ」「入れものが無い両手で受ける」「バケツ一杯の月光を汲み込んで置く」「自らをののしり尽きずあふむけに寝る」
読むたびに、あの感触が胸を撲った。その大小にかかわらず。あの感触を追い求めるほど、僕の意識はそちらに向く。それに反比例して、この身体の感覚が薄くなっていく。文字の海に、意識が投げされる。太陽が次第に傾いて、光の色も変わっていく。そのことすら気にかからなくなっていた。そして。
「こんな良い月を一人で見て寝る」
これが最後の句だった。次のページには白が広がっていた。いや、白というのはあまりに冷たい、青白い、色。
僕は目を上げた。いつの間にか夜になっていた。そして、その夜の真ん中に月があった。明るい月。それが本の空白に光を降ろしていたのだ。僕は月から目を離せない。僕の心の中には、またあの頃見上げた月のイメージが表れていた。そしてそれが、現実の月と重なる。そうして、違和感が。
ああ、そうか。今日は十六夜の月か。当たり前といえば当たり前だけど。昨日は満月だったから。それから一日分、月は確かに形を失っていた。一日分の欠けが、そこには確かに表れていた。これから毎日欠けていく。どんどん、月は自分自身を失っていく。
それなのに、どうしてこの月は明るいんだ? 胸の内に疑問が浮かんだ。もう完全な形は失われてしまったのに。あとはもう欠けていくだけなのに。実際、昨日より確かに光は失われたのに。そんなの、自分自身が一番よく分かっているはずなのに。どうして、明るいままでいられるんだ?
いや、違うのか。そうじゃなくて。昔とか、未来とかじゃなくて。放哉が、全てを失っても俳句を作ったように。その俳句が、僕の胸を撲ったように。
今が、ぜんぶなんだ。今明るいことがすべてで、昨日とか明日とか、そんなのは関係ないんだ。だから月は、こんなにも。
僕は手もとの本に目線を下ろす。相変わらず空白のページが広がる。その空白を、月が確かに照らしている。僕はペンを取り出し、その月明かりにペン先をつける。
「それでも月は明るい」
僕は供えられた煙草の一本を取りだす。先を咥え、ライターを数回擦る。暗闇に点ったかすかな燈を、煙草の先につけて。僕は大きく息を吸って、煙を吐き出した。その煙は希薄になりながら育っていく。濃い山の陰へと消えていく。
「春の山のうしろから煙が出だした」
それは、放哉の辞世の句だった。
それでも月は明るい 橘暮四 @hosai
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