エピローグ

第32話 ソロモンの子

 赤城と石黒は食料と生存者を探しに行ったまま、一晩経っても帰って来なかった。窓も時計もないのではっきりしなかったが、夜半すぎ、船の予備電力が尽きたようで、突然、研究室は真っ暗になった。【天野あまのすい】は、まんじりともせず、二人の帰りを待っていた。


 …何かあったのだろうか。


 今日で船に乗せられてから一週間になる。

 翠の目の前で亡くなったのは【白石成道】だけだったが、医療室には【草野裕翔】が寝かされていた。【月城美墨】は海に落ちたと聞いた。【青山蓮也】と【小嶋葵衣】は機関制御室で亡くなったらしい。今、生存が確実なのは、翠、石黒、赤城の3人だけだった。茉白と朱音の行方はわかっていない。


 …やっぱり、一緒に行けば良かった。


 二人が船内の探索に行くと決定した際、翠は研究室で待つことを提案された。赤城が「朱音が生きてたら食人鬼化してる。危ないかもしれないぜ」と言い出し、迷った末に石黒も翠が研究室で待つことに賛成したので、渋々その提案を呑んだ。でも、もう待っていられない。


 ウィルスの実験で使っていたポータブル充電式UVランプが使えたので、その明かりを頼りに客用船内図を確認する。エレベーターが止まっていたので、二つの階段を下りて、ランプの明かりを頼りに真っ暗な1階から捜索する。セレモニーホールⅠ、レストラン、大浴場には人がいた痕跡すら見つけられなかった。

 しかし、大浴場の隣のリネン庫はドアが破られ、室内には異様な臭気がこもっていた。そして、翠は朱音と茉白が亡くなっていたことを知った。


 …なぜ、こんなことを?どうして、こんな目にわされなければならないのか。


 昏く冷たい死、目にした惨状への恐怖、理不尽への怒りに目がくらむ。

 和邇士郎はこの部屋で起きた殺人デスゲームもどこかで見ていたのだろう。

 父のエディデヤも和邇士郎の言いなりになることを拒否し、遺伝子を…命を冒涜する所業をやめさせようとして、和邇士郎の逆鱗に触れ、見せしめに仕置かれた。表向きは不慮の事故となっているが、一部始終を殺人動画スナッフムービーに撮られていたという。それは父の死後もどこかで再生されているらしい。何度も。

 金と権力があれば、命を、死を、魂を好きに弄んでいいものか。和邇士郎の考えは全く理解できないが、十七年をかけた後継者探しは本気のようだ。選ばれた者はSANDORAの全ての権利を譲り受けることが約束されていた。保証されていた。選ばれれば、和邇士郎の持つ金と権力を手にすることが出来る。


 …私達が止める。


 翠とその妹はその一心で、和邇士郎の招待を受け入れ、それぞれの船に乗った。どんなに恐ろしくても、父が…母が…和邇士郎にもぎ取られた禁断の錬成術【遺伝子操作】の負の連鎖を止めるために。


 翠は中央階段を上り、1階から2階に移動する。食堂にもセレモニーホールⅡにもめぼしい発見はなかった。翠は廊下を進み、突き当たりのプールデッキのドアを開けた。


 眩しい光の煌めきと潮の薫る風が吹き寄せてくる。


「これは…」


 見覚えのある眼鏡が落ちていることに気づく。そういえば、石黒は途中から眼鏡をかけていなかった。どうやら、ここで落としていたらしい。


 …割れていなくて良かった。


 拾い上げて、そのまま探索を続ける。このプールデッキで美墨が死に、赤城が大怪我を負った。水色の床のあちこちに黒く変色した血痕が残っていた。

 調べながら歩き回るうちに、奇妙なものを見つけて立ち止まる。


 …注射器?


 それは針が剥き出しになった使用済みと思われる注射器だった。


 …なぜ、ここに?


 何の薬が入っていたかはわからないが、とても嫌な予感がする。急いで手摺りに駆け寄り、海面を見下ろすが、海は穏やかで、小さな波が日の光を反射して、煌めいているばかりだ。


 …石黒は無事なのか…?


 居ても立っても居られず、手の中の眼鏡を握りしめ、翠はプールデッキを飛び出した。4階の専用階段を上がり、医療室と研究室を通り過ぎ、操舵室の横の階段を駆け上がり、5階のデッキに通じるドアを開ける。


「石黒」


 彼の姿を探し求めて、呼び掛ける。

 出会った日に、映画タイタニックのワンシーンの真似事をしないかと誘われた。4日前には、一緒に美しいダイヤモンドリングを見た。

 ここでなら石黒に会えるような気がしていたのに、デッキ上には誰もいない。

 手摺りから身を乗り出して、遥か下の海を見下ろす。やはり、海は小さくさざめいているだけで、そこに人影などあろうはずもない。


「石黒ーっ!!!」


 もう一度大声で呼ぶが返事はない。今までにないくらいに心が乱れる。石黒はいったいどこにいるのだろう。無事なのか…?


「出て来い、石黒!お願いだ…」


 翠はぺたんと座り込んで、広い海と果てしない空を見上げた。


 ボーッ。ボーッ。ボーッ。


 遠くで返事のような音が聞こえた。まるで船の汽笛のような…


「え?」


 やがて、音だけではなく、音の主も確認出来るようになった。それは…見覚えのある船だった。翠の乗っているこの船と双子のようにそっくりな客船。

 驚いて船を見下ろす翠の目の前で、向こう側の操舵室の上のデッキに飛び出してきた人影が見えた。


「どうして…君が…!」


「石黒っ!」


 その人物は上半身裸の石黒だった。驚いたように口元を覆い、翠を凝視している。どうしたことか、石黒の顔や手や…あちこちにどす黒く変色した血がこびりついている。


「石黒、怪我してるのか?私もそっちに行くぞ」


 翠の言葉に、目の前の船のデッキに立つ石黒は首を振った。


「来ちゃいけない。には食人衝動があるから。きっと、君を傷つけてしまう」


「なぜ?ワクチンを打ったのに?」


 翠が問うと、石黒は「ワクチン…?ワクチンは完成しなかったのに…」と、言って顔色を変えた。


「まさか…君は…【れいちゃん】じゃなくて…」


れいがどうかしたのか?」


 石黒は「あぁ…取り戻したよ、記憶を。シロワニの子宮は二つ。【シロワニの子は二人】」と奇妙なことを言った。


「残ったのはと君。なぜ…こんなことに…」


 静かな海上に【石黒フギン】の慟哭だけが響いた。




 ――――何故かって?吊り橋効果ドラマチックだよ。


僕の息子思考】は【君の娘知恵】と愛し合う。君は拒んだが、僕らのゲノムは一つになる。最高に優秀な後継者の誕生だよ、エディ。


 モニターの向こうの男は天を仰いで微笑んだ。

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共喰いの船 voyage de nuit 瑞崎はる @zuizui5963

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