魔女

 無数の星が近くに遠くに広がる夜空を眺めていると、まるで浮遊しているような感覚に陥る。身体の境界が、こごった光と闇の中で曖昧になっていく。時間まで溶け出して、何か昔の夢を見ていたような気がしたが、後部座席から漏れる携帯のネオンが目の前のフロントガラスに今現在ケンカ中の相手の俯いた横顔を映して、私は気分を害した。バッテリーの無駄使いすんな。


 そもそもなぜアウトバックのど真ん中で野宿をする羽目になったのか。ストームに会うまでは概ねスケジュール通りだったのだ。泥だらけで空回りしがちなタイヤを宥めすかして、幹線道路というにはあまりにも適当な舗装の道に戻り、レストエリアとは名ばかりの空き地で休憩していると、大型トレーラーがやってきた。見上げるほど大きくて、ギラギラに磨かれているヤツだ。こんなところでガールズが何してるんだ、と自分の髭の手入れは適当な運転手が車窓から顔を出した。それから雑談で盛り上がってしまったのである。広大なオーストラリアでは、輸送のネットワークがすこぶる重要である。この先の道の状況を情報交換し、どうも一人で長距離を運転しているせいか他人と喋りたくなるらしい気の好い運転手は、それまで路上で出会った面白い動物や人間の話、多様なアウトバックの景観と伝説、ホラー話にホラ話など、ミンはコーヒーまで飲み出して相槌を打っているし、私も思わず聞き入ってしまった。Safe driving! と言って分かれた時には、大分時間が押していた。


 次の問題は給油だった。ライトニング・リッジに着く前に、どうしてもどこかで給油しなくてはならない。ところが余裕を持って辿り着いた一軒目のガソリンスタンドは閉じていた。人手不足で営業できないことがポスター表示に書いてある。二軒目は場所を移っていた。スタンドを探し回ることでガソリンが無くなっていくというとんでもない事態である。やっと辿り着いた三軒目で給油を終えた時には、もう日が暮れていた。宵闇が迫るなか、だだっ広い荒野を慌てて走れば、当然道を間違える。ガソリンスタンドを探しながら、全く予想していなかった地域にまでやってきてしまったのだが、もはや右も左も分からない。


 疲労と緊張が重なれば、あとはケンカである。ミンは咄嗟の判断力に優れているし、社交的で器用なのだが、タイム・マネジメントが下手で嫌いなことが手につかない。苦手分野の成績が悪いのはこういうところからきているに違いない。とにかく私とは正反対のタイプの人間なのである。トレーラーの運転手とあんなに喋ってるから、とか、カンガルー追っかけて寄り道するから、とか、ガソリンスタンドを探している時に、あっちにいけばこっちにいけば、とか、携帯が繋がらないとか、お腹が減ったとか、疲れているせいで二人してヒートアップしてしまい、今に至る。周りに人工物があるのか皆目見当がつかない草っ原のど真ん中で、ヤケクソになって車を停め、眠ることにする。星灯りのために漆黒の闇ではないのだが、それでもやはり二人でなければとてもやってはのけられないだろう、いいんだか悪いんだか。


 けぶったように淡く輝く天の川は、まるで降ってきそうだ。外に出て眺めていると、ミンが後部座席のドアを開閉する音がした。

「あの星赤いね?」

 ひょこひょこと側に寄ってきて、天の川の裾が広がった辺りを指差す。私たちケンカしてたんじゃなかったっけ、と思いつつ、丸っこい指先を視線で辿る。

「アンタレスじゃない? 蠍座スコーピオンの心臓」

「んん? そうかひっくりかえってるんだもんね」

 図鑑でしか見たことなかったよ、ここの夜空、やっぱり凄いね。隣りで見上げる横顔は、何を考えているのかイマイチ分からない。ミンの実家がある高雄も、私が日本で働いていた東京も、明る過ぎてこんなに星が近くには見えない。毎日忙し過ぎて、夜空を眺める時間もない。

「運転手さんが言ってたけど、オパールの“ドリームタイム”っていろいろあるんだね」

“ドリームタイム”ストーリーというのは、インディジナスの人々による伝承・物語の総称である。

「天空の大蛇、砕けた虹、蝶の羽、それから“燃え立つ車に乗った女神が大地に撒いたもの”」

「うん、でも、神話まで遡っちゃうとさ。探したいのは今の持ち主なんだから」

 ああ〜そうだねえ、と間抜けた声を出して頭を掻くミンが、少し眉を顰めた。私たちは車道脇で(本当に車道なのか若干疑わしい)肩を寄せ合うように立っている低木にくっついて車を停めている。丘陵地帯の中腹だ。ミンは鼻先を撫ぜる。

「……ハルちゃん、なんか焦げ臭い」

 私は周囲を見渡した。ミンは闇に目を凝らしている。アンタレスの方角から、星空に黒い染みがにじみ出していた。空と草の暗く柔らかな稜線が、小さくだが鮮やかに紅く裂けた。



「打零零零(エマージェンシーコール)!」

 ミンは焦って携帯を取り落とす。本当に動揺するとマンダリンに戻ってしまうのを責めることはできない、私も日本語でしか小説が読めないからだ。感情に結びついている言語、それが母語なのである。

「ここ圏外でしょうが」

「ハルちゃあん、落ち着いてないで、ブッシュ・ファイアーだよ!?」

 落ち着いてなどいない。私は表情コントロールの上手い日本人なだけである。既に腰を抜かしかけているのだが、側にミンもいるし、周りには誰もいないので、どうにかしなくてはならない。山肌を紅く濡らして、炎がじわじわと下りてくる。鈍く反射する煙が、空の端を侵食し始める。


「乗って。シグナルのあるとこまで、出るよ」

 とにかく消防に通報しなくてはならない。実のところオーストラリアでは大小の森林火災が日常的に発生している。火の不始末によるボヤ、雷やヒートによる自然発火、電線の切断や故障が原因になることもある。乾燥した気候が、火の拡大を加速させる。人の住んでいない地域が広いので、知らずに発生し、知らずに鎮火するものも多いが、燃え広がると凄まじい災害になる。オーストラリアの樹木はたくましく、枝葉や外表が燃やされても再生能力を保っていられるが、動物たちは棲家を追われて黒焦げになってしまうし、住民は農地や家を失う。手をこまねいてはいられない。私は紙の地図を広げ、目星をつけている自分たちの居場所から一番近そうな街を目指して、アクセルを踏み込んだ。


 アッパーライトを点けても、それから先はざわざわと不穏に揺れる闇である。助手席ではミンが地図と携帯のアンテナを見比べている。アウトバックの道は大概速度制限100km/h以上なのだが、舗装が悪く視界が悪く方角が分からず、その上動物たちがやたら横切ってくる。火に気付いたのだろう、移動を始めたのだ。生き物の気配が一斉に揺らぎ、押し寄せる波のように猛進するのを肌で感じて鳥肌が立つ。ハンドルを握った手に汗が浮く。走れ走れ走れと声にならない叫びが聞こえる。

「ハロー、ハイ、we report bushfire」

 どれほど下ったのか、000を打ち続けていたミンが顔を上げてまくし立て始めた。電波が安定していないらしく、スクリーンを見て耳を付け怒鳴る、を繰り返す。

「正確な場所は分からないです、すみません、え、他にも通報があったんですか、よかった、私たち?大丈夫です、火からは遠いです」

 こちらを見て、指でOKサインをつくる。暗くて狭いフロントガラス越しの視界の片隅から点滅ライトが浮かび上がり、あっという間に近づいてくると、羽を回す轟音を伴って頭上を横切っていった。空中から消化剤や水を撒く消火ヘリである。当局は場所を把握できたらしい。二人して首を伸ばして目で追い、よかった、と顔を見合わせたところで、車道に飛び出した影があった。一瞬気が緩んでいたためハンドルを切り損ない、私たちの車は交通表示をひしゃげて、車道の敷かれた土手から滑り落ちた。



 ほとんどバウンスするように、湿地というか泥水の中に車は着地した。柔らかいため衝撃は少なかったが、ぬかるみにはまり込んで動けなくなる。ハンドルにしがみつき、なんとかブレーキを押し込んだ私と、その私にしがみついているミンは、そろりと顔を上げる。身体を起こそうとすれば、またがくりと車体が沈む。土が積もってはいるが、底は深いのかもしれない。

「なんでこんなとこにビラボン(billabong)があんのよ……」

「雨で水かさが増してるのかもね。クラッシュしなくてよかった」

 ミンと小声で囁き合う。星明かりにちらちらと波紋を揺らす水面はロマンティックなのかもしれないが、徹頭徹尾ツいていない。やはり呪いだ。こんな時間にこんな場所では、NRMA(ロードサイドサービス)につながるか怪しい。

「先に謝っとく、ごめん」

「何で?」

「事故ったの私のハンドルミスだし」

「たまたま運転してたのがハルちゃんだったからでしょ、私でも同じだよ」

 っていうか、この車もう廃車かな? あいつには未練なんてないけど、この子とはいろんなとこ行ったから。修理と洗浄どのくらいするんだろう、と首を傾げる。私は苦笑した。

「とっとと降りた方がいいと思うんだよね」

「ええ……ドア開けたら泥水入ってきちゃう」

「ちょっとずつ沈んでる」

「まじで」

 傾斜になっているようで、エンジンを切っても中心地に引き寄せらせるように車体が僅かに滑っている。まず車ごと水没するようなことはないがろうが、万が一のために腹をくくらなくてはならない。慌てるミンを差し置いて、私はドアの取手に手をかけた。


 腰まで浸かる水を掻き分ける。足元が泥とぬめる水草に絡まって、一歩一歩がひどく重い。水から上がっても、土と下草はじくじくと湿っており、乾いた木陰にやっとの思いで座り込んだ。

「なんでこんな一生懸命になってんだか……」

 二人して木の幹にもたれて、息をつく。夜空には相変わらず気が遠くなるほどの星が瞬き、草むらから虫と蛙の鳴き声がする。軽やかな風がバサついた髪に吹きかかる。ミンがこちらを覗いて笑った。ハルちゃん、顔にまで泥が跳ねちゃってるよ。あんたもだよ、手で擦るともっと間抜けになるよ。

「だってハルちゃん、ここが好きでしょう。だから一生懸命になるんだよ」

「好きじゃないよ。もといた場所にいられないだけ」

「いられない場所なんかないよ。あそこがどういうところで、ここがどういうところか、なんて、結局自分の経験と好みから判断してるだけじゃない。自然にあるものはアズイズ(ありのまま)なんだしさ。国家は社会契約に基づく想像の共同体だよ」

「古典(レファレンス)出せばいいってもんじゃないからね」

「好きでしょ? 私がいるしね? 有袋動物みんな可愛いし?」

 直感に長けすぎた言葉にぐうの音も出ない。呆れて見返すと、泥だらけのシャツの肩越しから、一条の光がさした。



 彼方から日が昇る。黄金の光が溢れ出す。私は眩しくて目を細めた。風が生まれて空が鳴る。まるで巨大な車輪が軋みながら回っているようだ。その光輪に立つ、ひとつの影があった。

「……魔女!」

 ミンが腕を引っ張って言うので、私が突っ立って夢をみているわけでもないだろう。飛沫しぶきを上げて打ち寄せる朝日を背に抱いて、あまりにも透明な輪郭に表情は確かでないが、向こうもこちらを見ていることだけは分かる。瞼の中の残照のせいか、距離感がおかしい。目の前にいるようにも感じるし、光をさらす山の傾斜にたたずんでいるようにも見える。私は泥のこびりついたバックパックから、オパールを取り出して、掲げてみせた。興奮のせいか恐怖のせいか鳥肌が立って、膝の力が抜けて立てなくなりそうだ。

「これは、あなたのですか」

 魔女は小首を傾げたように見えた。なんだか懐かしい仕草だ。

「それは、この地のものだ」

 男とも女ともしれない、草原がなぐような声。すると、ぎしぎしと軋んでいた天空に雷鳴が轟いた。ミンが嘘っぽい悲鳴を上げて私の背後に隠れる。風がどっと巻くと、銀灰の雲が振り撒かれ、まだ覚めきっていない中天で星々が再び輝き出した。時間が逆行している、夜に戻っていく、それとも大気層と宇宙の間に放り出されたような浮遊感。

「それは、この地そのものだ。だから私のものであり、彼のものであり、お前のものである」

「私のもの?」

「その中にある輝きは、この地に生きたものの映しえだ。存在は光であり、失われても輝くものだ」

 

そうできている。だからそれはこの地に生きる誰のものでもなく、全てのものである。


 ああこれは、と私は震える星々を仰いだ。これはオパールのなかだ、私たちはこのオパールの中の遊色でしかない。“本当の”オーストラリアなどない。あの魔女がつくった箱庭のなかで、私たちは泣いて怒って笑っているだけだ。そしてそれがオパールを美しくする。オパールをオパールたらしめる輝きは、ばらばらで諍いあい慰めあう私たちなのだ。

「割ったら、どうなるんですか」

 ミンもそんなふうに思ったのかどうなのか、私の背後からそろりと尋ねた。顔の無い魔女は、笑ったようだった。

「ここから出たいのか。簡単だろう、現代いまは」

「悲しいですか? 無くなったら。私たちの誰かがいなくなっちゃったら、あなたは悲しい?」

 きらきらと、日の光が踊る。薔薇の水滴が散ったような空が揺れてさんざめく。魔女は声を立てて笑っているらしい。

「私は億の年月を渡ってきた。何度も、つくり直そうとした」


だができなかった。すでに輝いているものを、ついえさせることなどできようか。孤独でも苦悩でも残酷でも矛盾でも、それぞれは異なるティントでありシェイドだ。その石を構成するもので、それらなくして今のようには輝かない。時がくればどのみち壊れる。水はほとんど乾ききってしまった。幾つものヒビが入っているだろう。


「じゃあ、これは私が持ってます」

 私は手を引っ込めて、石を大切にジャケットの内ポケットに入れた。そんな簡単には壊さない。これはとても愛しいものだ。

「その石はこの地から持ち出せない」

「持ち出しません。私はここにいます」

「出ていくのではなかったのか」

「あなたが言ったんです、あなたはこの地のものであり、私も彼もそうである」

 私はここで生まれたわけではないし、この土地の全てのことを理解できる気はしないし、永住権だって取れるか分からないし、お金もない(この魔女がそういうことを考慮するとは思えないし)。目的や目標や希望みたいな大層なことも言えない。“まがいもの“なわけだが、魔女はそれを美しいというし、私もこの石は美しいと思う。今まで持っていた人たちが、これから持つことになる人たちが、この石をかざしたら、他の大勢の誰かと動物たちと植物たちと一緒に私が見えるかもしれないなんて、なかなか素敵だ。それでいい。私はここにいることにする。太陽が地平から離れ、空が抜けるような紺碧に戻り、星は見えなくなった。


 魔女は涙のように朝もやの中へ溶けていく。ビラボンが水を弾くきらめきに、囁きが混じった気がした。


内海は、お前の中にしかない

そこから漕ぎ出せば、どこにでも行けるさ




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