追われるもの
どこだ
どこにある
渇きで舌が千切れそうだ。目が腫れて視点が上手く定まらない。汗も出ない皮膚は砂埃とひび割れでひりひりと痛む。強烈な日差しを避けて夕方から歩き出すのだが、禿げた草地と岩が永遠と続くばかりで、己れの歩いている方向すら怪しい。しかし移動し続けなければならない。夕日に向かうのだ。北西だ。海に出るのだ。偉大なる
懐中の石を服の上からさする。こいつさえ持って帰れば、楽に暮らせる。あんな惨めな生活をせずに済む。英国人も黒道の奴らも、恐れずに済む。何でも手に入る。それだけの金になるはずだ。がくり、と脚の力が抜けて尻餅をついた。旅隊に加わっている間にこの土地で食糧を採取する方法は覚えたが、それも水辺や林でのことだ。黄土を渡ってどれくらいになるだろう。陽光に脳髄まで茹でられて、吐きそうになるが腹の中に何も残っていない。
ミスターは今どの辺りだろうか。俺を追ってきているのだろうか。それとも諦めたろうか。囚人一人逃げ出したところで、捨て置くだけだろうが、俺がこの石を持ち出したことに気付いたら、追ってくるかもしれない。それにそうだ、あいつらだってやってくる。この石を始めに守っていた
悪態をつくことも放棄したら、気を失うことは目に見えている。這うようにしてブッシュに近づいていき、枝葉の下へ潜り込んだ。刺が肌を刺す。若干ひんやりとして小さく息を漏らす。身体を丸めて、目を閉じる。逃げ出してきてから身体は疲弊しきっているが、眠れない。物音や人影に常に敏感になっていて、神経が昂っている。
「失せろ、うせろお!」
いつの間にか巨大な蟻が首筋を登ってきていた。ぞっとして払い落とす。この土地には狼や熊のような大型肉食獣はいないのだが、奇妙な姿の二足で跳ぶ動物や一人より背の高い鳥がいる。そして恐ろしいのは虫どもだ。家畜が蛇に絞め殺される。旅隊の一人が毒蜘蛛にやられて、泡を吹いて死んだ。悪魔が住み着いた土地とはこういうものかもしれない。『ガリヴァー旅行記』の“馬の国“はこんな風に見えたのかもしれない。
『ガリヴァー旅行記』を思い出して、俺は一段と気持ちが悪くなり、口元を拭った。ガリヴァーの物語を聞かせてくれたのはミスターだ。ガリヴァーに憧れて、探検家になってしまった英国人。この土地の神秘に陶酔しながら、囚人を鞭打つ“近代人“。
立ち上がる気力も萎えて寝返りを打つと、ガムが
「お前は誰だ」
風が鳴るような、男とも女ともつかない声だった。俺は身体を起こして駆け出そうとしたが、腰が抜けて動けなかった。せいぜい威勢を張って逃げ出す隙を伺う。
「俺に関わるな」
「“先に来たもの”でも“後に来たもの”でもないね」
スカートを履いているのかと思ったが、
「連れてこられただけだ。もう帰る」
「どこへ」
「元いたところだ」
「なぜ」
「こんなところ、望んで来るか!」
香港の港湾労働者であった頃、金を盗んでここの牢獄へ送られた。広大で“不毛な”土地を、欧州人たちの入植のために開拓する労働力として、囚人たちは便利であった。使い捨てても誰から咎められることがないからだ。牢獄主とミスターに認識があったため、俺はミスターに払い下げられた。オーストラリア内陸探検の随行員としてだった。それまでも悪夢だったが、それから先は笑えるほど悲惨だった。
「どうやって」
「黙れ。お前は誰だ」
熱気にゆらゆらと輪郭が揺れているが、見えない手で地面に押さえつけられているようで、逃げられない。俺は恐慌を隠しながら身体をよじって、何とか脚を立たそうとする。
「私はこの土地のものだ」
“先に来たもの”たちは『イー』と呼ぶ。“後に来たもの”たちは『魔女』と呼ぶ。魔女。人が己れの属する宗派以外の女を蔑める言葉だ。超人的な能力があるかどうかは関係無い。だが、俺の身体は劣化した銑鉄の熱と重みで動かない。ミスターが言っていた、メデューサという魔女と目が合うと、身体が石になってしまう。そういうような化け物なのか。
「ここに住んでるなら、内海への道を教えてくれ」
見捨てられたら死ぬだろう、この会話は恐らくお目こぼしの機会なのだ。そんな不吉な予感で、熱いのに肌が粟立つ。俺は哀れみを誘うような声をつくってみたつもりだが、羽虫の煩わしさほどの効果も無さそうだ。
「内海?」
人は海岸沿いの入植村にへばりついて生きている。何人もの公的私的な探検家が、旅隊を組んで大陸内部に向かっている。オーストラリアの完全な地図はまだできていない。果て無く広く、過酷な自然環境がそれを阻んできたのだ。最大の目的は、内海を“発見”し、大陸のもう一方の端に渡ることだが、成功した者はいない。ミスターの旅隊は、近くまで来ているはずだった。魔女は真っ黒な小首を傾げてみせた。
「なぜ知っている」
なぜ知っている?ミスターはそのために全財産と人生をかけているし、本国人たちは皆そう言う。“科学的に”結論づけられたことなのだ。しかし魔女の真っ黒な瞳に見つめられながら、俺の動機は速まり、心臓が張り裂けそうになる。
「内海は有ったが、お前達の暦では1億年ほど前だろう」
俺は昼夜を駆けた。駆けた、というより忌まわしい力に動かされていた、というべきか。脚の感覚はもう無い。皮膚は弛み、内腑が揺らされて、肋骨にぶつかって、頭に響く。叫びたくても、喉は潰れたように萎縮していて、目は地平を捉えることしかできない。
あれは幻だ。俺のいかれた精神が見せた幻想だ。こんなところにいるから、あんなものを見たのだ。
懐の石がどんどん重くなるように感じる。風に紛れて、歌が聞こえてきた。俺は岩陰へ身を引きずる。知らない言葉、だが怒りを帯びた歌だということは分かる。先住民の村があるのだ。もっとも、幾つもの部族に分かれている彼らが、カミロオイであるのか別の集団であるのかは定かではない。カミロオイは比較的大きなグループであり、これまで入植民との接触が何度もあって力関係における距離ができているが、その他の部族のなかには入植民、特に
ミスターの敬愛する探検家、サー・レイクハートの旅隊が消息を絶って、いまだに戻らない。今回の探検の目的は内海を“発見“するだけでなく、サー・レイクハートの行方を探し出すことでもあった。自然災害や傷病によって立ち往生しているならまだしも、おそらくは先住民との衝突で皆殺しにされたのだ。まさか、と俺は雲一つない空を仰いだ。あの歌をうたっているものたちは、ミスターを追っているのだろうか。しかし俺にはもう、知らせる術が無い。そもそも俺はミスターから、あの旅隊から逃げ出してきたのだ。
サイモン、と俺は声にならず呻いた。どうにかしてくれ、お前まだ生きているんだろう。サイモン、こんなところで出会わなければ、俺はお前を裏切らなくても済んだのに。先住民と英国人の間に生まれたサイモンは、探検隊に雇われるガイド役の一人だった。どちら側の人間からも疎外されて育ったせいか、無愛想で痩せた猫背だったが、動植物には優しく、そして清人の俺に興味を持った。英国人に支配されている側の人間として、分かり合えると思ったのかもしれない。食糧採取の方法を教えてくれたのはサイモンだ。それだけでなく、俺の話す言葉を知りたがった。絵が上手く、清の絵画は綺麗だ、と熱心に言っていた。以前の雇い主に、そんな趣味でもあったのだろう。
俺たちの旅隊は
そこの男が、この石をミスターに見せたのだった。別の先住民の村で手に入れたのだと言う。ミスターはその美しさに魅せられたが、話を聞いていたサイモンは真っ青になった。『ミスター、その石を元の村に返して下さい』とサイモンと女たちはミスターに懇願した。『それは女神がカミロオイに下さったものです。その村だけでなく、部族の男たちが集まって、取り戻しにやってきます。それに、』サイモンの落ち窪んだ大きな目は、恐怖に濡れていた。『女神の怒りを買います』
ミスターは子供っぽい夢を持った紳士なので、サイモンの言葉に始め耳を傾けていたが、占拠者の男たちは先住民の“悪行“をミスターに囁き続けた。保身のためには、恥も外聞も無い。そして石はやはり魔力を持っていたのだと思う。ミスターは次第に虜のようになり、己れのものにするために、占拠者たちに金を払い、先住民たちの攻撃に備えさせた。俺は死にたくなかったし、またこれが逃亡の機会だとも思った。俺はミスターの側に仕えていたから、石の保管場所も知っている。これを奪って、一緒に逃げよう、と俺はサイモンに言った。
サイモンは、埃っぽく縮れた前髪の間からこちらを見上げた。俺たちとも違う、もっと黒くて真珠のように丸い瞳が月を映しているようだった。
「僕は行かない。僕は、この土地のものだ」
英国人にもカミロオイにもなれなくても、この大地が僕を生んだんだ。離れられないんだ、
その時、武器庫から火が上がった。油が撒かれたらしく、火の回りは速かった。占拠者たちは慌てふためき、前線は混乱した。家畜小屋から恐る恐る覗くと、女たちが手に手に農具と油壺を持って駆け出していた。家族の名を叫びながら、柵を押し倒し石壁を突き崩して、一族の元へ全力で走るが、まるで椿の花が首ごと落ちるように、一人二人と背後からあっけなく撃たれて倒れた。火を掛けるよう入れ知恵をし、先住民の男たちと連絡を取りあった者がいる。サイモン! 俺は飛び出した。
ミスターはメインキャンプにいなかった。俺は散乱した寝具をかき分け、石が入っているキャビネットを開けると、それを帯で腹に括り付けた。火が燃え移り始め、支柱が熱気にぎしぎしと揺れた。火勢はますます強く、旅隊のキャンプはどれも紅い炎を広げて崩れ落ちていた。火の粉を払い集落の裏手へ抜けようとすると、俺の名を叫んで追ってくるものがいた。ブロンドを振り乱し、泥と煤で汚れた顔を鬼のように引き攣らせたミスターだった。血走った目から、正常な状態でないことは見てとれた。目の前で人が死に過ぎた。ミスターは俺に跳びかかり、俺は引き倒されて殴られたが、もとより体力だけなら荷役のほうが勝るに決まっている。俺はミスターを蹴り落とすと、振り返りもせず逃げた。
「
裏の柵まで辿り着くと、サイモンが馬を引いて立っていた。俺は声にならなかった。友人だったはずだ。だが結局俺は、石を奪って一人で逃げ出してきた。命からがら、友人のことなどお構いなしに、ここまで走ってきたのだ。
「故郷へ帰れるよう、祈ってる」
俺に馬へ乗るようせかし、サイモンは変わらずぶっきらぼうに言った。癖っ毛の先が焦げている。炎のなかで触れた指先は冷たくて、震えているようだった。俺は最後の恥もかなぐり捨てて、サイモンの腕を掴んだ。
「行こう、内海から大洋に出るんだ」
サイモンは俺を見上げて眩しそうに笑った。手を振り解き、俺の乗った馬の尻を叩いた。それから俺は、一人になった。俺を逃したことが知れたら、ミスターからも先住民たちからも懲罰を受けるだろう。サイモン、俺はうずくまって顔を覆った。あの時のような憤怒の大気が、木々を震わせ始めていた。
もはや時間も場所もはっきりしない。明るい方へと蛾が飛ぶように覚束なく足を動かすだけだ。朝の匂いがする。鳥が鳴いている。水の流れる音がする。水……木立が分かれて、光が波をつくる。透き通るほどの青い空を映して、銀に輝く水面が広がっていた。俺は駆け出したつもりでよろけ、泥に転び、子供のように這っていった。濁りの無いところまでいき、手に水を掬って口を付ける。海水だ。……海水だ!俺はぐらりと背を返して泥の中に座り込んだ。帰れる、これで出ていける。
「これがお前の内海か」
風が吹いて
「うせろ」
「ここをいくら進んだとて、外には出ない」
「黙れ!」
ざばりと水を漕いで、その影を掴もうと沖へ進む。波は穏やかで、浅く暖かい海だった。子供の頃、あの貧しい漁村の浅瀬で遊んだ記憶が蘇る。かき分けられた水が優しく光を散らして、全身を撫ぜる。腕を伸ばして魔女の裾に触れたと思ったが、それは湧き上がる水の感触だった。
「湧いている……?」
「ここは大鑽井盆地の端、かつての海が陸とつながるところ」
1億年前ここは海だった。やがて地殻変動により地表が持ち上がり外洋と隔絶され、干上がって厚い砂岩層に覆われた。しかし海底であったところの地下深い粘土質は、水を貯めるのだ。この乾いた広大な地域に動植物が生息できるのは、このかつての海が大量の水を溜め込んでいるためである。地下の海には、古代の海洋動物たちが埋まっている。それから、オパールもだ。何を言っているのか分からない。もう何も分からなかった。俺はこの土地のものではないのだ。俺はここにはいられない。
「帰してくれ、帰してくれ!!」
叫んで縋ろうとしても、魔女はもう虹のように薄れて立ち去るところだった。透明よりも輝きの冴える水面に、自分の影が映っている。穏やかで美しい水に包まれて、俺は泣くこともできない。この土地はそうして何千万年も生き物を慈しんできたのだろうに、それが在り方であるのに、俺は人は、己れのことしか見ていないのだ。己れの知っていることからしか、理解できない。受け入れようともしないのに、受け入れてもらえる訳がない。どんな地図を描こうとも、誤りだ。内海は見つからない。
あばらの浮いた腹から、あの石が転げ落ちて、輝きの中に沈んでいった。
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