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田辺すみ
追うもの
朱金に輝く西の空に向かって、雲がとぐろを巻いている。墨の染みが流れるようなその影には、きっと何かが潜んでいる。
オフィスからアルバイト先のレストランに駆け込むと、同じフロア・スタッフのミンが目をうるうるさせて待っていた。嫌な予感はしたが、案の定だ。
「再履修? 何のためのサーティフィケイトなの!」
ミンと知り合ったのは、この日本食レストランでだ。二人とも留学生アルバイトだったのだが、学部生のミンより修士課程の私の方が早く卒業した。今は昼間オフィスで、夜はレストランで働いている。日本にいた頃の貯金は、学費で底をついてしまった。働かざるを得ない。
「もう親に相談するしかないでしょうが」
「……これ以上あの人の言うこと聞きたくない」
頭を抱えたくなる。ミンはいい奴だ。レストランでの仕事ぶりは真面目だし、友達も多い。ただ
「いくら必要なの」
「3000ドル……」
その不得手な会計士資格を取って、オーストラリアの永住権を申請する、というのが、ミンが親に対してできた最大限の反抗なのであるらしい。台湾でファミリー・ビジネスを展開しているミンの実家は余裕が有るはずなのだが、そのためか娘に干渉的だった。『仕事ばっかで一緒にいる時間も無いのに、何も自由にさせてくれない』のだそうだ。だから落第して再履修に必要なお金を無心するなど、なけなしのプライドが許さないのである。しかし3000ドルとは微妙にきつい。
「彼氏は何してんのよ」
「別れた」
「デファクトか学費もらってから別れりゃよかったのに……」
「そのために付き合ってたんじゃないもん」
ハルちゃんがそんなこと言うなんて、と膨らませた血色の悪い頬を見て、肩を竦める。ドアベルが鳴って、フロア・マネージャーのイチヤさんが、喋ってないで接客しろ、と呆れた視線を送ってきた。
一昨日ボタニー・ベイへ行った。シドニー空港の対岸にはキャプテン・クックの上陸を記念した自然公園が有り、なだらかに続く砂浜と木々の合間を歩くのは気持ちが良い。穏やかな波で水遊びをする子供たち、犬の散歩、ボートやマリンスポーツを楽しむグループ、そぞろ歩く老いも若きもカップルたち。こぼれ咲く花々の影には蝶やカタツムリ。湾の向こうで弧を描いて輝く飛行機の翼、岸壁へゆっくりと進んでいく巨大なタンカー。まばゆく暖かい日差しのなかで、何もかも幸せそうに揺蕩っている。たぶん私だけが所在なげにうろうろしているように見えたのだと思う。
「Hey, would you like this(どうだい、これ)」
ヤシの木陰、砂っぽい駐車場の角を通り過ぎようとしたところ、クラッシクなほど古いホールデンのトランクに座って、染みついたマグからコーヒーを飲んでいた男が声をかけてきた。明らかにヒッピーというか、車中泊しているような放浪オーストラリア人である。珍しくもないが、中には強面もいるので気をつけなければならない。しかし、風にあたりながら眺めていたらしい手中のものを、ひょいと投げて寄越されて、驚いた。
「何ですか、これ」
「ブラック・オパール だよ。綺麗でしょ」
にかりと笑う歯はヤニっぽいが、日焼けした顔に浮かぶ皺には愛嬌が有る。だから嘘とは思えなかったが、こんなに大きなオパール は見たことがなかった。片手にやっと収まる卵のようなハートのようないびつな形、艶めく黒の地に虹が砕けて飛び散ったような遊色。
「それ、持ち主に返してくれる?」
見惚れていると、にこにこと笑ったまま言われたので、理解するまで暫くかかった。
「あなたのじゃないんですか?」
「うん、預かっただけ。随分探したんだけど、僕じゃ無理そうだから」
だから君の番ね。唖然としている私の肩をぽんぽんと叩き、軋むドアを開けて、マグをシートの脇に押し込むと、男は擦り切れた運転席に乗っかった。
「待って下さい、持ち主って?」
サングラスをかけて、手動で開けた窓から男は鼻歌混じりにこちらを見上げた。亜麻色の肌が陽光を弾いて波立っている。
「魔女さ、火輪の魔女」
エンジンがけたたましく吹き上がり、男はひらひらと手を振りながら車を後退させ、向きを変えると、あっという間に走り去った。
「ケーサツに届けたほうがいいよ、ハルちゃん」
閉店後の片付けが終わり、着替えたミンを裏口へ呼び出してその話をしたら、オパールを手にしておたおたしていた立ちいずまいを正して、真剣に言われた。自分のこともそのくらい冷静に考えなよ、と私はウォーターボトルから水を飲む。
「完璧だったらもの凄く高価なんだろうけどね」
「どういうこと? イミテーションなの?」
誰もいない通用路の安電球にかざす。あまりにも遊色が鮮やかで見えにくいが、幾筋もヒビが入っているのだ。準宝石のオパールは他の鉱石と比べて柔らかく、含有している水分が蒸発してしまうと割れることがある。
「さあね、けれど持ち主にとっては大事なものなんだろうから、返してあげるべきだと思う」
「ええ……その人の話信じるの」
「返したら、お礼をくれると思う」
この規模のブラック・オパールならば、数千ドルくらい微々たるものであるはずだ。オパールには多様な種類が有る。遊色の無いもの有るもの、遊色の濃淡と反射の構成、ボディトーンも千差万別だ。最も高価なのは赤系の遊色が鮮やかに現れているブラック・オパールである。
「魔女かどうか知らないけれど、それを受け取ってから変なことばかり起こるしさ」
帰り道でトラックワークに会うし、やっとシェアハウスに辿りついたらドアが壊れてて締め出されるし、水道水が茶色くなってるし、復旧に夜遅くまでかかってシャワー浴びたら今度は温水が出ないし、隣りの家で真夜中までパーティーしてるし、朝はコカトゥーが喧嘩してるし、電車遅れるし、テイクアウトのコーヒーは高いし、オフィスのインターネット切れ切れだし。
「それはオーストラリアあるあるじゃん……」
「ともかく、持ち主に返そうと思う。手伝うよね?」
「私!?」
「ライトニング・リッジまで行くんだよ。代わりの運転手が要る」
オーストラリアは世界最大のオパール産出国だ。だがブラック・オパールが採掘できる場所は限られている。シドニーからライトニング・リッジまで、車で9時間である。
そうして私たちは延々と運転している。ミンの元彼から、その元彼が先輩から二束三文で買い取った中古車を借り、丘陵を抜けて牧草地の間をひたすらに走行している。バイトを休んでライトニング・リッジへ向かう旨伝えると、イチヤさんとマサさんに心配された。アウトバックを女性2人だけでドライブするなんて、ということである。予備タイヤとバッテリー、飲料水と非常食、途中マメに給油することを言い含められて出発した。薄い雲がたなびく良い陽気だった。
「本当は違うんでしょ」
立木がまばらになり、低木のブッシュが増えてくる。運転を代わった私に、窓枠に肘をついて外を見ながらミンが言った。
「本当は魔女を探すためなんかじゃないんでしょ、ハルちゃん現実的だもん」
本来彼女のボーイフレンドが座っているはずの運転席にいる私は、ミンの言葉と車道にはみ出してきているブッシュから一斉に舞い上がったモンシロチョウに危うくハンドルを切りそうになる。速度は落とせない、それこそ牡丹雪のようにそこかしこにはためく蝶は、フロントガラスと車体にぶつかってぱちゃぱちゃぱちゃと潰れて溶けていく。私はげんなりして眉を顰めた。ミンも『あーあ、かわいそ』と声を漏らす。
「何やってんだか分からなくなってきてさ」
こっちの大学を卒業してもうすぐ一年、永住権が取得できなければ、また始めからやり直しだ。日本にいるのでもなく、オーストラリアの永住権も無く、働き続けてる私はなんなの。全く見通しがつかない。何か目的を持って来たのではなかったか。いつ終わるかもしれない毎日を、永遠に続けてるみたいだ。
「……日本帰ればいいんじゃない、私は寂しいけど」
「帰りたくても帰れないよ。私はあそこで働けない」
あの労働環境と社会的圧力は苦痛だ。『他の日本人が平気なのならば、私がおかしいのだろう。』私は生れた国からの落伍者である。兄がいるので両親にそれほど負い目を感じずに済むのは有り難い。まあ、あちらも私に何か期待しているとは思えないが。
「ミンだって、資格取って英語も話せるんだから、親のことなんて気にしないで、帰国して好きなことすればいいのに」
うーん、とミンはほつれた髪を指先で弄んで、呟いた。乾いた毛先は脱色してしまったようで、外からの光をきらきらと弾く。道の舗装が怪しくなってきて、ガタガタと車体が揺れ出したせいもある。
「自由に、なりたいんだと思ってたんだけど」
「ここのどこが自由なのよ。結局お金じゃない」
「ちょっと違った。一人で生きられるようになりたかったの。自分のことを全部自分で決める、っていうのは案外難しいよ。親は守ろうとするし、自分はすぐ誰かに依存しちゃう性格だしね」
だから過去と関係有るものの無いまっさらな土地を、一人で切り拓いてみたかった。そうして初めて、自分を誇れると思った。と、ミンは言った。がりがりと雑音の混じるカーラジオから、『ダウン・アンダー』が微かに流れてくる。
「ハルちゃん、風が出てきた」
不安げな視線をこちらに向けるミンの背後で、ブッシュがざわざわと唸りだしたのが見えた。しまった、天気予報がどれほど当てにならないか知っていたはずなのに、やっぱりこれは呪いかもしれない。ストームが来る。
空が裂ける。膨大な質量の大気がその割れ目から噴出して、大地に瀑と注ぎ込む。草木は薙ぎ倒され、巻き上がった砂ぼこりと塗りつぶされた太陽で、視界が一面黄土色に濁る。うまく息ができない。続いて天地も混じるような暴流、車体を殴る雨。
「雷! いやだ、怖い!!」
水しぶきで道が判別できない。タイヤが滑っているのか、ぬかるみに足を取られているのか、それとも薄暗いせいか、自分がどれくらいの速度で走っているのかも分からない。まるで時間まで風にあおられて進めなくなっているみたいだ。雷光が視界に満ちて瞳孔を焼く。ミンが頭を覆って怖がっている、大袈裟だな、と思う反面、風雨の轟音はパニックを引き起こすのに足りる暴虐さだ。こちらも気が立っているので、負けじと声を張り上げる。
「台湾の台風のほうがひどいでしょうが」
「小さい頃、一人で留守番させられてた時に、近くで雷が落ちたの!」
半泣きで訴えるミンがかわいそうになり、車を草地に乗り上げて停める。震えて鼻を啜りあげている背を撫ぜてやる。どこにも逃げられない、誰も助けにきてくれない、という絶望感は、普段見てみぬふりをして忘れているのに、こういう時に揺り起こされるのだ。この土地は私たちを受け入れない。けれど生れた国にも帰れない。私たちは、どこにも所属できない。黒雲が幾重にもうねる丘の向こうを見上げれば、黄金の光が吠え荒ぶ。なんて美しく、孤高であることか。地上のものはただ、
雷鳴は遠去かり、雨は弱まり、ミンは落ち着いたようだが、私は脱力して動けない。初めて走る道のうえ、未舗装で砂利に穴ボコだらけなので、ハンドルを握っている腕が痺れている。
「ごめんハルちゃん、運転代わるよ」
ミンがもごもごと囁く。雨が響く以外に静かすぎて、何か生きている音を聞かないと、耐えられない気分なのだろう、私も同じだ。カーラジオは全く不通になっているし、ガラスはどれも泥と水滴で曇っている。ティムタム食べる? とミンがお馴染みのパッケージを差し出した。
「悪かったよ、巻き込んで」
糖分で少し気力が回復する。指先のチョコレートを舐めて、ミンは小首を傾げた。
「でもこんなんだから、オーストラリアには魔女だっていそう」
ファンタジー小説よりファンタジーっぽいもんね、ここ。実は期待してるんだ。さっきのしおらしい態度はどこへやら、笑うミンは逞しい。私は半分呆れながら、二人だったら、本当に見つかるかもしれないと思った。
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