蒼空へ

アリサカ・ユキ

蒼空へ

何故そんなことになったのか、僕には理解できなかった。


僕はその日に、入社して一年なるかならないかの仕事を辞めてきたのだ。そうだ、その日に。社会人として失格だろう。


春は確実に近づいていて、桜は咲いていた。暖かい空気に、気持ちも上向けるはずだけど、僕は、まだ、冬の名残の寒さを感じるしかなかった。でも太陽から溢れ出る光-線は、大学の時に学校も行かずに午前中、街を散歩して、ゲームセンターに寄ったり、本屋に寄ったりした、あの自由な暖かい空気を持っていた。


今の僕は、小さな公園のベンチに座り、コンビニで買ったビールを飲んでいる。こんなに劣化した自分に気付きながらも、今は、落ちるとこまで落ちないと、ダメだ。


だからそれが起こった時、僕は、驚いたけど、不思議ではなかった。


「大人が、午前から、だらしない!」


制服を着ていて、そこまで子供に見えなかったから、高校生だとはわかる。しかし、絡んでくるだろうか? その少女は目を釣り上げて、僕を蔑む虚無の目をして、そう言い放ったのだ。


僕は、少女を観察した。つくりの整った上品な顔立ちが、とても魅力的だ。肩まで届く髪の毛は、艶やかなストレートで、手入れを入念に怠らない、輝きがわかった。


でも、だからと言って、僕は何をする? 美しい少女に、けなされる。子供に怒るわけにもいかず、僕は、目を逸らし、無視することにする。


「大人はいいですよね。そんなふうに、勝手できて。嫌いなモノは無視。ふーん、汚い!」


なんなんだ。どうしろと言う。僕は、ため息をついてみた。


「子供も、嫌いなモノは嫌いじゃない?」


「それでも、立ち向かわなければならないんです!」


確かに、僕は逃げた。その自由? 子供も通信制高校とか、保健室登校とかあるんじゃないかな。だけど、そんなことで責め立てても、水掛け論になるだけだろう。


「君は、不満でもあるの?」


僕は、めんどーと思いながらも、ここから無視を始めることもできずに、言葉をかけた。


「不満のない高校生がいると思います?」


うん、不満のない大人もいない。どうしたものか。僕は、ビールを口つけた。


「大人の勝手に振り回される子どもの気持ちがわかりますか」


上司に振り回される大人もいる。そしてそんないちいち頭で反論する自分が嫌になった。


「で、大人が嫌い?」


「大嫌い。特にあなたみたいなの」


「そう。どんな大人なら好きかな」


「え?」


少女は、小さな手を胸辺りでキュッと握った。困惑げな表情は、孤独な雰囲気を見せる。春の暖かい風が吹いた。少女のセミロングの髪の毛が乱れて、それを抑えている。


「どんな大人も嫌い。大人になんかなりたくない」


少女は口に入った髪の毛を手のひらで唇を擦るようにして解いた。


「僕もそう。でももう大人だけどね」


「なんで大人になんかなったんですか」


何故か少女は泣きそうだ。自分が大人になることが避けられないことはわかってるのだろう。


「目を背けたいことに出逢いすぎたから、と思う」


「そこから逃げたんでしょう。ビール飲むみたいに」


少女のまとう、紺のブレザーとスカートが風で激しく煽られた。ブラウスに溜められたスクールリボンが微動する。


「それでも、何がしかを思うものだったよ」


「逃げてばかりなら意味はない」


それは確かに正論だ。常に立ち向かえるなら、人は自分に落胆せずにいられる。世間的にそれを大人とは言わないかもしれないが。


ビジネス書の、いろいろなメソッドの本は、いくら読もうとも、変われるような気持ちにさせるだけで、僕には実際には何の変化ももたらせないと気づいた時、僕は、無理に変わることをやめた。


「人間は、生きれるようにしか生きれない限界がある、ような気がする」


桜の花びらが数片、落ちてきた。それをじっと見る。高校時代から、失われたモノはなんだった? 


強く1人でも生きようと、あいつに振られた時の決意。確かに美しい精神だった。傷を回避する方法を知らずに、血を吐き出しながら、孤独に道を完走しようとしていたのだ。


あの高い彼方にあった蒼空が、今は薄汚れた書き割りのように、不自然なものに見える。手を挙げればそれを突き抜けるように低くなった。


僕は少女を見た。若さとはそれだけで、価値あるものかもしれない。その満たされない自我の苦悶の中に、誰もが、いくらかの孤高さを持っているものだ。


「わからない……」


眉間に皺を寄せる少女。


「なぜ、生きるんですか?」


それは、ひどい問いだ。


「蒼空への憧憬」


「思い出に浸るの?」


「それをまた手に入れるために、僕は、仕事を辞めた……」


それは最初からの考えでなく、少女との会話から気付かされた。


少女は軽いステップの運動靴のリズムで歩いてきた。僕の横に座る。


「信じてあげるわ」


何なんだ。僕は戸惑う。こんな子供に、どきりとさせられた。僕は誤魔化すようにさらにお酒をあおる。


「それで、君は何が問題なの」


少女はフフフと笑った。


「何かな。忘れました」


なるほど。意味がわかんない。気まぐれすぎる。


「お兄さんは、この辺の人?」


「うん、だよ」


「また、会うかもですね!」


そう言うと、跳ねるように立ち上がった少女は、ベンチから離れた。振り返る。


「やっぱり、外でのお酒はダメです!」


そして、歩いていく。僕は、茫漠と見つめる。また、振り返ってきた。


「さっきの、約束ですからね!」


蒼空への憧憬? ああ、人にそんな強い意志はないよ。けれども僕の身体には、強い生命力が湧いていた。いま、この時だけかもしれない。日常に人は錆びていくモノだから。


桜。新しい時の訪れ。ハラハラと、落ちていく花びらは、それでも無常だろう。美しいものは、永遠でない。そして、醜いものもまた、朽ちるものだ。


「あたしが嫌いなのは普通の人です! 知らない間に普通に汚れていく人です!」


眩しいな。僕は、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。


僕は、夢を目指すべきか? イラストレーターになりたいと、昔、思っていた。


僕は親と生活している。アルバイトをしながらで、昔頑張っていた絵の修練をまた、積み始めた。イラストのスクールにも通い始めた。近所の絵画教室で子供に混ざり、デッサンを集中的に学び直しもしている。孤独はあった。大学の同期は、仕事をこなしている。無力を感じ、自分のしてることに意味があるのか、不安だった。

時々、あの少女に会った。

少女は学校で孤独に生きることと向き合っていた。親が、自分に無関心なのをどうにかして耐えようと、必死だった。


魂の苦悩が、生きる深い理だと、人間は理解しなくてはいけない。


僕たちは––、高い蒼空を、飛んでいるだろうか?


(蒼空へ 了)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒼空へ アリサカ・ユキ @siomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ