Go to hell, Amen!

石衣くもん

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 麗らかな昼下がり。引っ越しの荷造りをしていると、自分の所有物ではない古いアルバムを数冊発見した。一段落ついてから、休憩がてらそれをまじまじと眺めていると、父と母の実家から持ってきたのであろう、両親の幼少期の姿が収められていた。白黒とか古いなあと、ある種感心しながらセピア色の親を流し見ていく。


 そんな古びたアルバムに紛れて比較的新しいアルバムを見つけた。こちらはどうやら自分のアルバムらしく「いおりちゃん生誕おめでとう」と刺繍された薄ピンクの表紙をめくると、人間よりも猿に近い生き物がおさめられた写真が数枚はさまっている。


 うわぁ、自分ってこんなにちっちゃかったのねと、謎の感動に浸りながらページをめくる。哺乳瓶を抱えている姿も、前歯が二本ないのに口をあけて笑っている姿も。もはや今の自分とは程遠い私の姿にやけに感慨深いのは、明日、嫁ぐからかもしれない。



 私、笠原いおりは、会社で出会った同僚と一年と三ヶ月のお付き合いを経て、明日とうとう家族になる。彼はとてもいい人で、結婚について、すべて私の希望に合わせてくれると言った。


「一人っ子はわがままなの、だから、私はわがままなの。それでもいい?」


という私の横暴な物言いにも、


「なんだか君らしいね」


なんて、どこまでも私を甘やかしてくれるところが好きだった。ちょっと頼りないところもあるけれど、その分優しくて、彼の笑顔は私を安心させてくれる。


 女の子は自分の父親に似た人を好きになる、というより小さい頃は


「お父さんと結婚する」


などと言ってしまうのも女の子あるあるだと思うが、彼は父とは似ても似つかない人だ。


 そんな彼と私のウェディングは、早く済ませてしまいたいという私のわがままで、六月の婚姻となった。ジューンブライドなんて、柄にもなくブライダル産業の戦略に乗っかってしまったのは少し腑に落ちないけれど、仕方がない。早く、済ませてしまわないと私は婚期を逃してしまうだろうから。


 けれども、ジューンブライドと言いつつ、婚姻届を役所に提出して籍を入れるだけの結婚で、式は挙げない。

 流石に一か月前に決まった急な婚約が入り込める式場はなかった。かといって私は後々に式を挙げる気もさらさらない。


「それでも本当に、私と結婚する?」


と聞いた私に、彼はへにゃりと眉を下げて言った。


「……また、気が変わったら式も挙げよう。だっていおりは言い出したら聞かないでしょ? 変に揉めて結婚自体ぱあっていうのは僕も嫌だし」


 つくづく、この人は私に甘いと思った。

 とりあえず、籍を入れるからには一緒に暮らそうと、会社の近くに部屋を借りた。この段ボールの山には同居を始める為の私物が詰まっているのだ。


 アルバムのページをパラパラと進めていくごとに、様々な記憶が呼び起こされてゆく。まるで昨日のことのように、とまではいかないが、写真を介して掘り起こされる思い出はどれも私を懐かしい気持ちにしてくれた。


 そして、蘇る記憶の中で一際鮮明なのが、父に対する怒りと憎悪だった。



 私は幼い頃、いや、生まれた瞬間から父と反りが合わなかった。母の話によると、出産予定日に第一子の誕生に立ち会おうとそわそわしていた父は、医者の


「出産まであと二時間はかかりますよ」


という言葉を信じ、お昼ご飯を食べに行ってしまった。その間に、母はとっとと出産へ。そして腹を満たして帰って来た時には私は既に生まれていたのだと。

 母が抱くとおとなしく寝ているのも、父が抱けばたちまち泣き出すという始末で、それでも初めてのわが子をよく抱きたがっていたらしい。それも今は昔の話だけど。


 あの人には本当によく泣かされた。思い出の中の父の隣にいる私はいつも不満げな顔か、べそをかいていた。

 例えば、小四の時、大嫌いな虫取りに無理矢理連れて行かれ、背中にカブトムシをくっつけられて大泣きした。ただ父の爆笑する姿にムカついて、それゴキブリであろうと一人で倒せるようになったけど。


 中二の時には、怖がりのくせにテレビの心霊特集を観てる途中、震えながらトイレに入った。そしたら、あの糞親父に、電気を消されて。しかも外からドアを押さえて出られないようにするもんだから、半狂乱になってドアを叩きながら大泣きした。あまりにもムカついたので、父のタンスに仕舞ってある洋服に、一着残らずお酢をかけてやった。もちろんタンスから酸っぱい臭いがするのに気付いた母にこっぴどく叱られたけど。


 それでも、調子に乗って怖い話を観たり聞いたりして。眠れなくなった夜は、夢の中でこっそり父の布団に潜り込んだ。小さい頃には、本当にあの人の布団によく潜り込みに行った。怖い夢を見たといってめそめそする自分を無言で引き入れてくれて、翌朝母に見つかってよく怒られたっけ。それでも。あの時の私はあの人と寝るのが好きだったらしく、懲りずに何度も忍び込んだ。


 反りが合わない父親ではあったが、決して嫌いなわけではなかった。

 それもこれも、母親の教育方法の賜物と言っていいだろう。


 父は、私の友達や近所の人に言わせると、少し変わっているという評価の人だった。私は小さい頃から父親はあの人しか知らないから、お父さんとはこういうものだと思っていたのだが。

 一緒にお風呂に入っていた時に見た広い背中や、無骨で太い指、そして私の柔らかな頬を幾度も頬摺りして傷つけた口周りの髭。流石に裸は余所とは比べられないが、その出で立ちは、まさに父親そのものだった。


 ただ、小学生はとにかく隣の芝が青いもの。誰かが玩具を買ってもらったとか、遊園地に連れていってもらったとか。羨望の対象は尽きないわけで、あまり物を買ってくれない、私の行きたいところに連れていってくれない父に対しての不満を、よく母にぶつけてたっけ。

 その度に母の返しは決まっていた。


「お父さんは、寂しい人なのよ。だから母さんといおりはずっとお父さんの味方でいましょうね」


 口癖のように母が言っていた言葉は、呪いのように私に纏わりついた。

 父はどうやら少し複雑な家庭環境の人だったようで、私には「おじいちゃん」と呼ぶべき人が三人、「おばあちゃん」と呼んでいる人が四人いた。親戚問題やら、父の生みの両親の離婚、再婚、そして養子縁組みなど、波瀾万丈な人生を歩んだ父は、家族愛や親の愛情に飢えていて、その分私たちを普通の人より愛おしんでいるのだと。


 けれど、受けてこなかった愛情を、どうやって私たちに与えればいいのか、その術を知らないからこそ、あの人は愛情を持て余し、困っているだけなんだと。

 思えば、こんな話を我が子に幼い頃から言い聞かせる母は大概おかしい人だ。きっと娘への対応に困り果てている父を哀れんでの行為だったのだろう。


 でも、母の作戦は見事に成功した。

 私はどんなに父を嫌っても憎んでも、最終的にはこの呪詛が思い留まらせたのだ、父から離れることを。そしてより強く自分に言い聞かせた。私は、父から離れてはいけない、傍にいないと、って。


 だから、思春期に入っても、


「お父さんの下着と私の一緒に洗濯しないで!」


なんて言わなかったし、思わなかったし、言ってる子の気持ちがわからなかった。そう言ったら信じられないようなものを見る目で、


「だって汚いじゃない! あんな不潔なのと一緒に洗ってほしくない」


ですって。 そんなの本末転倒もいいところ。汚いからこそ、洗うのだ。むしろ父の下着ごと私が洗濯して、干していたくらいだ。さすがに実際布団に潜り込む気はもう、起こりはしなかったが。


 あの体温は私に安心をくれた。今は温度を感じるくらいに、接近することはないけれど。煙草が染み付いた体臭は私に安らぎをくれた。今は不快に思うだけだけれど。鼾も歯軋りも寝相の悪さも。

 あの人の存在すべてが、全部全部、私が眠る為の安眠剤だったのに。今は全部全部、苛々の原因になってしまった。



 でも、それも今日で終わり。荷造りを終え、アルバムは迷ったけれど置いていくことにした。なんとなく、写真の中の私の居場所は、ここのような気がして元の場所に戻しておいた。

 あとは整理した荷物を新居へ送るのみ。部屋を出て階段を下りると、どこか畏まった雰囲気でリビングにいる両親が目に入った。

 ははあん、これは娘の挨拶待ちだな、と期待に添うように二人の許につかつか寄っていき、フローリングの上に正座した。


「今までお世話になりました。お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう」


 私は明日、嫁ぎます。

 テンプレの台詞を吐くと、何故か涙ぐんだ母の隣で、無表情なこの人は、一体何を考えているのだろう。結婚を突然決めた時も、反対一つしなかった。式を挙げないと言った時も、文句一つ言わなかった。もう、私への興味なんかなくしてしまったんだろうか。腹が立つ。


「じゃあ、私、明日も早いからもう寝るね」

「いおり」


 低い声に呼び止められて振り返る。その瞬間、どくり、と心臓が跳ねたような感覚に襲われた。


 今更なに、籍を入れるのは明日なんだから。なにを言われても、もう遅いのよ。

 喉まででかかった台詞を飲み込み、なに? と白々しいほどしおらしく返事をする。一体、最後にどんな言葉を私にくれるの。


「幸せに、してもらえよ」

「え」


 思い描いていた言葉のすべてを裏切った率直で陳腐な祝福の言葉。最後までこの人は思い通りにいかない。


 私はそんな言葉が欲しかったんじゃない。私はあなたを憎んでいたのよ、辛くあたったこともあるし、酷いこともたくさんしたし、たくさん言った。いつもみたいに清々する、くらいの憎まれ口でも叩いたらどうなの。それか勝手な真似するなって咎めたらどうなの。


 大体、幸せにしてもらえ? そこは幸せになれ、じゃないの。自分じゃ私を幸せにできなかったって負い目なの? 馬鹿にしないでよ。



「私は、もう幸せだったんだから」


 自分の部屋に戻ってから一人呟いた。この部屋も、今日で最後。せっかく震える声を無視したのに、気付いたら頬は濡れていて、私ってセンチメンタリストだったのねって自嘲した。けれど、マリッジブルーというには不安が足りない気がする。胸に渦巻くのは不安、ではなく、虚しさで。


 思えば、私が高校生の思春期真っ盛りの時、父親の方から距離を置き始めていた。帰るのが遅いとか、スカートが短いだとか、成績が悪いとか。そんな父親の小言にブチ切れていた友達と違って、私は何一つ注意なんかされなかった。


 だから私は、心からは嫌われない程度に悪さを働いた。用もないのにわざと遅くに帰ったり、スカートを凄く短くしたり、学校を無断で休んだり。

 私は父に怒って、心配してると言って欲しかった。そうすることによって、私を見てくれることを願ったのだ。でも結局父は、何も言ってくれなかった。代わりに母にしこたま怒られただけだった。


 今回もそう。反対してもらう為に、彼を紹介する前に結婚すると決めた。あの人に、お前は俺の娘だ、勝手は許さないと言ってもらうために。

 最後くらい、自分への執着を見られるんじゃないかと期待した。自分の醜いまでに歪んだ執着と同じくらいに。


 思惑は面白いくらいに外れてしまったけど。

 外は天気予報通りの雨で、窓に映る私はずぶ濡れになってるみたい。明日も雨は降るから、私はまさしく梅雨の花嫁、ジューンブライド。


 明日、私は笠原を捨てる。

 あの人と同じ姓を、あの人への想いを置き去りにして。


「さよなら」


 お父さん。

 私は、あなたを超えられない彼と幸せになります。


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