雪を
おばけがでたよ
雪を
私の好きなある男の作家は、すでに死んでしまっていたけれど、そのある作家の小説群は仮名遣いを現代のものに改められ、今も多くの読者に親しまれている。
その作家が、あるひとつの物語を綴った小説。それが私のものになった日から、来る日も来る日も読み込んだ。心を満足させたその小説をもって、その作家のことを、よく心裡に浮かべるようにもなったのだった。
その作家は五十年ほど前に自尽してしまったけれども、もし彼が今も生きていたら、と考える。私には白昼夢のように思われるその人生なのだから、とぎれとぎれに、いまも続いていたっておかしくはないとさえ思う。ただ、彼は精神を患う寸手、あのようにしてしかそれから逃れられなかったと言う人もいる。愛する人を残し……。できれば若くして英雄のように死にたがっていたということも、また彼の著述からはうかがえた。
心で独自に編み込んだ、強い思考をはためかせて生きていたその人は、自身に迫る老いについて何と考えていたか。私は思いを巡らせたりもする。
……愛でなく構うのならそれは哀れみだ。
哀れみは弱みになり弱みは老いを呼ぶ。
だから死ぬのだ。
せめて強がったまま首を断ち……。
私は彼になったつもりで、そう手帳に書き記したこともある。
作家の彼のことを心に描くようになってのち、しばらく経って、ふだん物静かで、歳の少し下のいとこからこんな話を聞いた。
ある事件を見たという。しかし、翌朝の新聞にもニュースにも取り沙汰されることはなく、事実かどうかもわからない。恐ろしくて私に話す以外は、学校でも、家族の誰にも、そのことについて訊ねてはいないらしい。事件の直後も、翌朝も、誰の話題にものぼらなかったため、しばらく忘れていたという。それはどのようなものだったか。
チャイムが鳴り、壇上の教師が授業を終えた。一息をつく。次の授業の準備をするかとふと窓際の席から運動場に目をやる。
ちらちらと空を細く落ち、まばゆく地上に被さる雪。中背でありながら、男のように大きな体をしたグレーがかる長髪の、初老らしい、髪と似た色のカチューシャで前髪を上げた、女性だろうかと思われる人物が、白雪を乱した跡を来た道へ残し、その終点へしゃがみこんでいた。
つかのま見ていると、さらに男と思われる人物が、彼女の後を追うように、しかしゆっくりと、歩幅狭く入ってきた。ここから見るに薄着の中肉中背。坊主が少し伸びたような黒々とした頭。なにか細長の、光をはね返すようにきらめくものを持っているように見えた。
老女は手袋をしておらず、手は真っ赤にしもやけているようであるけれども、彼女の関心は完全によそへ向かい、雪に手を突っ込み何をか探っている。彼女が少しずつ位置を変えるたび、彼もそれについて少しずつ後を追っている。
男性のほうは中老ほどだろうか。顔つきに違和感があるように思われれた。彼はほうぼうに顔を向け、周囲を気にしてか、ぎょろぎょろと目を動かし、口元は不安や緊張を転化したような、防御的な笑みを浮かべている。
そんな彼らのたたずむところからは少し距離をおいた場所で、物見高い生徒たちが、徐々に集まっては、人垣を作り始めていた。
あたりの変化を察知したように思われる。彼は、口をむっと結び、眉を寄せた。
空白がまだらに空間を上から下へつつがなく横切っていたなか、つぎには、野次馬へこれぞ、と見せてやるように、きらつく棒状のものを、呪文を空に描くように振り動かし始める。
少しぎこちないように思われるけれど、ある種のカタのような動きだったため、彼の持っているものが刀ではないかと思い至った。
野次馬たちは彼を笑い物にするように、からかう声をつぎにつぎとあげ、独特に場がわいている。
彼は、白雪に足で口付け続けるようになおも踊った。
ひとしきりの悠久、冷えた空に刀の横切る演舞を見学していた。
すると、急を要するかのごとく、野次馬を乱暴にかき分け、なにがしかの集団がそこへと流入してくる。たくましい体つきからは、みな男性だろうということがうかがえる。彼ら、警官のような制服に、制帽を被っている。
刀を振る男性へ向かって、そのうちのひとり、一番背の高い人物が、何事かまくし立て始める。
刀を振る男性は顔色を変えずに、見えない敵を見据え、舞い続けている。
背の高い警官風の男が顔で仲間に合図した。その男が、腰に携えた黒いものを頭上に挙げた。途端に破裂音がし、三度、窓が揺れた。
野次馬のざわつきが止んだ。
彼はそれでも舞うのをやめないでいる。
集団の男たちは、黒い塊を腕の先に握っている。そのすべての口が、彼へ、向けられているようだった。そして背の高い男性が、大きく口を開け何か言った。
破裂音が何度も何度も、短い間隔で断続的に響く。彼らが警官であるわけがなかった。
蜜に触れた綿菓子のように太陽の光線に照り輝いていたしろがねの舞台には、ついに刀の彼が舞いから崩れ、横たわる。
彼は弾痕の苦しみに悶える表情で、転げまわる。
彼のもとに徐々に広がる濃く紅い色は、まるでこの日この時の彼のためだけにあつらえられた、映画祭のカーペットであると錯覚を起こすほどあざやかだった。
続く破裂音に、いったん間があく。
ドラマに見入っている人垣のなかから、数人の強い心をもった人間が、やっと長く続いたように思われる警官風の男たちの行動をいさめるため、前へ突き進み、彼らの肩をつかんだ。
制服を着た男たちは、その腕をおろした。
思いがけないことに彼らは全く抵抗せずに、いまださまよい続ける老女や、刀を落とした彼へ視線を送ると、背を向け、実に味気ない、といった表情でふたたび人垣へもぐり込み、ぬけ出ていった。
置き去りにされた彼らを下にながめながら、野次馬たちは、目が覚めたのだろうか、しだいにどよめき始めた……。
これは、どうにかしなければならないものを見てしまった。心のぐらつきを動悸に併せ感じる。
同時、一生このままで……彼らに雪が厚く降りかかり、このすべて、真っ白に、見えなくなるまで、一生ここでこの状況を、ここでこうして……それが無理な希望であっても、ずっと見張っていられたとしたならば。
もしも、この立場を、運動場の彼らにゆずることも、彼らから、ゆずられることもなく時が過ぎていってくれたらば……あの彼のようには、終わるまい。そう思った。この感覚を、言葉にしてあらわすとすれば、そのように思った。
ここであることに気づく。教室を見渡した。
自身をのぞいて、ここにはもう誰も居ない状態だった。前方の壁掛け時計に目をやる。もう少しするとまた始まりのチャイムが鳴るというところだ。つぎは音楽室だ。急がなければ……。
おかしなことに、ふと我にかえってからは恐怖や、不安な気持ちは、箱に吸い込まれたかのようになくなり、あとは準備をして、教室を移動するのだということで頭がいっぱいになってしまった。
焦燥しながら、いそいで授業のしたくをすると、イスを机のもとへしまうこともできないままに、せわしなく教室を後にした。
雪を おばけがでたよ @obake-ke
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