第8話 天球晶

『アナンの仮説を実証し、ついでに再開発予定地を更地にする』

 サンガに話したのはその二つだったが、キハルにはもうひとつ目的があった。

 空が鳴り、天蓋の半球面に沿って無数の光る魚が走る。街の明かりがふっと揺らいだように見え、遅れて低い唸りが地面から足を伝った。酒場からの帰り道、サンガに背を預けたことで気持ちに余裕ができたキハルは、上着のポケットに手を突っ込み、空を睨みながら靴音を鳴らす。

 天蓋は実に巧妙に作られていて、何も起こらなければその存在を意識することはない。実際には魔導回路がびっしりと張り巡らされているのだが、おそらく内側に気象を再現する術式が組み込まれているせいで見た目に大きな変化がなく、中の人間の意識にのぼりにくいのだ。落雷にしろ攻撃にしろ、外から刺激を受けたときのみこうして浮かび上がるのである。

 いち都市を覆うほどの規模なのに、誰がどう構築したのか明らかになっていない。業界に広く深く情報網を敷くカルディナス家、二人の兄の商売のツテを辿っても事情を知る者はいなかった。いっそサンガがぶち破ってくれれば修繕の名目で食い込んでいく手もあったろうが、天蓋の強度は想像以上に手強く失敗に終わる。ただこれで、内側からの衝撃に対してもかなりの強度をもたせていることがわかった。外敵に備えるだけならそこまでする必要はない。相当な魔力が割かれているはずだ。それも、必要以上に。

 夜の街が以前より暗く感じるのも気のせいではないはずだ。ぽつりぽつりと灯る石畳の光がもっと強かった頃は下から照らされる顔を指差し合って笑ったものだが、影が淡くなってしまってからは面白くもなんともない。大通りの中心を行き交う軌道車の、前方を照らすふたつの目もしぱしぱと瞬きして不安定だ。いずれも、地脈を流れる魔力が弱まったことをあらわしている。

 失われた力は一体、どこへ行ったのだろう。

 さきほどからサンガは黙ったまま、思い悩む気配にキハルもあえて話しかけるつもりはなかった。試すようなことばかりして彼に負担をかけているのはわかっていた。頑固だし思い込みも強いようだが、人の話はよく聞いている。頭のなかを整理する時間も必要だろう。

 あれこれと考えていたから足元がおろそかになり、わずかな溝に靴のかどがはまった。足を捻った勢いでかくんと体勢を崩す。

「おっ、と」

 背後からすぐさま腕をとられて事なきを得る。

「ありがとう」

 振り返った先、サンガはなにかまずいものを食べたような顔をしており、不本意ながら反射で手が出たことがありありとわかる。それがかえって、キハルの気分を和ませた。

「もう大丈夫、と、うわ」

 立ち直ってほっとしたのもつかの間、踏み出した一歩が沈んだ。いまにも離れていこうとするサンガの支えを、キハルは咄嗟に掴み返した。掴んだところが太くて指が回りきらない、力を込めかねているうちに右足を何者かにつかまれる。息を吸い込んだものの声が出ず、なりふりかまっていられなくなって爪を立て、助けを求めてサンガの顔を見上げる。サンガも異変に気づいて腕を掴み直すが、その間もキハルの足は引きずられて身体は斜めに傾いていく。

「失礼!」

 サンガがキハルに覆いかぶさり、腰を抱え込んで引っ張り上げた。鼻がサンガの胸にぶつかったが文句を言う余裕はない。足に絡みついたものは苦もなくついてきて、キハルの背筋に怖気が走る。

「足、足に」

「足?」

 ようやく絞り出した悲鳴にサンガはすぐさま反応して、足元を確かめるなりキハルを抱える腕にぐっと力を込めた。

「少し痛いかもしれない、我慢してください」

 産毛の逆立つ感触はたちまちぴりりとした痛痒に変わる。真っ暗なはずの腕の中で、青白い光が次々に弾けた。

「離れろ!」

 バチンと鞭で打つような衝撃は一瞬のことで、足にまとわりついていたものが離れたと見るやキハルが足を引っ込める。

「掴まって」

「わかった」

 キハルは担ぎ上げられた左肩に後ろ向きにしがみつき、サンガは駆け出しながら剣の鞘を払った。夜闇に月、主の力を帯びた剣は破魔の意志をもって冷厳に輝く。

 追ってきていないことは気配でわかった。それでもサンガは速度を緩めなかったし、キハルは彼にしがみつきながら背後の暗がりに努めて目をこらし続けた。


 *


「なんですかあれは」

「私も知らない」

「いままで遭ったことは」

「ない」

 息を切らせたサンガに、すでに寝間着姿の家令が手巾と飲み水を差し出す。サンガが体当たりするように駆け込んだせいで大きな物音が立ったが、様子を見に出てきた者たちのほとんどをこのモリスが追い返してくれた。

 二人はトウマの部屋あらためサンガの部屋で人心地ついたところ、アドナの邸宅の例に漏れずカルディナス邸も魔術的な護りは万全で、それでも父マレトは妻ふくめ数人を動員して備えを固めに出ていった。

 キハルがモリスに目配せする。心得た家令は、「お休みになるまで、続きの間に控えておりますので」と一礼して退室した。

 サンガは寝台に、キハルは長椅子に腰掛けて向かい合う。

 しばらく、重い沈黙が続いた。口火を切ったのはサンガだ。

「こんな危ない目に遭ってまで、あなたは何がしたいんだ」

 白銀の髪をかきむしる。汗の雫がぱたりと落ちるのを目で追いかけて、キハルはそのまま頭を垂れた。

「助けてくれてありがとう」

「それはべつに。まさかあんなものを相手にするとは思いませんでしたが」

「私の目の届く範囲では気を配っているつもりだが、それも限界があるからね。食い扶持に困ったよその業者の妬みを買ったかな」

 それとも他の何者かか。これは言わずに飲み込んだ。

「……あなたでなければいけないんですか」

 サンガの声には覇気がなかった。どこか沈んだ低い響きが静まり返った部屋に滲みていく。

「女性のあなたがあんな荒っぽいことに手を染めることはないんじゃないですか。わざわざ狙われるようなことをしなくても、まともに訴え出ればしかるべきところが動きます」

 切々とした言葉はキハルの心を揺らした。サンガは元気がないんじゃない。心配しているのだ。

 しかし、キハルにも譲れないものがあった。

「気づいた者が動かなければ、何も変わらないだろう」

 親しくしている者たちの暮らしがみるみる困窮していくのをそばで見ていて、動かずにはいられなかった。悠長なことは言っていられない。

「我々のような元手と蓄えのある家と違って、物を作る人たちというのは基本的に出来上がったものに対してのみ対価を得て暮らしている。材料や人手を集めるところまでは負担して、よりよいものを作るために手を尽くす。文字通り、身を削って明日の糧を稼いでいて、その営みはいつ絶えてもおかしくない」

 サンガは承服しかねる様子。それはそうだ、キハルの話はまだ核心を外している。

「われわれ名家の人間は魔力源の供給が落ちても困ることはないし、不自由のない暮らしが保証されている。だから、世の中の動きに疎くなるのは自然なことなんだ。よその暮らしに思いを寄せることは難しい。でも、きみはもう知っているだろう」

 活気を失った裏路地のようす、サンガの目を覗き込んだマストラの、そして酒場にいた人々から注がれた真剣な眼差し。生身の出会いは、ときにどんな言葉よりも多くを語る。

「それは、そうですが」

 サンガの素直さは、この世の仕組みを、与えられた正義を疑わない純粋さの上に成り立っている。良くも悪くも、体制に忠実に従う習慣が身についているのだろう。決して悪いことではない。ただ、それは一種の思考停止だ。

 キハルは、彼を揺り起こすつもりで賭けに出た。

「誰かが、意図してこの状況を作り出しているとしたら」

 そう、これがキハルの抱える最たる懸念、非公式に動かざるをえない一番の理由なのだった。サンガがあくまで体制に忠実で、間接的であれキハルたちの想定する黒幕とつながっているとしたら、この話はタブー以外の何ものでもない。

 だが、信じてみることにした。

「私の父も中央の動きがなにかおかしいことに勘付いているし、私たちは、中央は頼れない、頼ってはいけないと考えている。たとえそれが本国であってもだ」

 サンガの顔にかすかな拒絶の色が浮かぶ。それが何を意味するか、キハルにはまだ判断がつかない。

 もうひと押し。キハルは黙って立ち上がり、戸口へ向かった。

「えっ、ちょっと」

「すぐ戻る」

 自室に入ってすぐ、飾り戸棚の扉を開ける。磨り硝子にスズランの浮き彫り、中にはキハルのお気に入りがぎゅっと詰まっている。その半数以上が手のひら大の半球形、青葉にのった朝露のように透き通った小さな置物。いずれも、キハルが幼い頃からこつこつ集めたコレクションだ。

 キハルはその中から、最も小さくわずかに曇ったものをそうっとつまみ上げた。手のひらにのせると中央に小さな渦が灯り、球面の内側にふわっと広がって空を描いた。時刻を映した紺青に朧な雲がかかり、狭間でちらちらと星が瞬いている。

 そうっと左手にくるんで戸を閉めた。元の部屋に戻ると、サンガは元の姿勢のまま、おとなしく待っていた。

 思わず笑みが漏れる。

 わかってほしい。わかってくれたら嬉しい。キハルはサンガのそばに寄って、祈るような気持ちで両手を開いた。

「なんですか」

「〈天球晶アストログラス〉という」

 キハルがぐいと促したので、サンガはのけぞりながらも手のひらを差し出した。小さく古びた天球晶は、サンガの肌に触れた途端ひときわ強く瞬いた。星の光は曇った表面をものともせずに貫いて、二人の間のわだかまりを照らす。

「これは、私が幼い頃に譲り受けたものでね。手にした人の魔力に反応して空模様を描き出すおもちゃみたいなものだ。亡くなってもうずいぶん経つが、よく遊んでくれた魔導回路技師のおじいさんが作ってくれた。アナンの師匠にあたる人で、腕のいい、夢を形にする職人だった」

 やはりサンガはすごいな、と呟いて表面を撫でる。その輝きは、キハルが手にしたときより格段に鮮やかだ。

「私はこれが作りたくてものづくりの道に進んだ。幸い山のように本のある家だし、教えを乞う相手にも恵まれている。勉強するのは楽しかったし、いまもずっと楽しい。だが、どんなに回数を重ねても、これを凌ぐものは作れないんだ」

 再びサンガの手から取り上げて、額のあたりにかざす。

「下からのぞいてみてごらん。何かに似てると思わないか」

 穏やかな声に導かれるようにしてサンガの顎が上がる。半球の底、小さな円の奥を覗き込むと、そこはもう邸の中ではなかった。

「空だ」

「惜しいな、もうひと息」

 何を言う、まるっきり空じゃないか、と不満まじりですこし思案したのち、サンガはもうひとつの答えを見つけた。

「天蓋か」

「そう。そっくりだと思わないか」

 言いながら天球晶を下ろす。しばらく星に魅入られていたサンガの目には、赤や黄色の残像がちらついた。

「魔力を吸い上げて空を覆う。この小さなおもちゃと巨大な天蓋、アナンも一緒に分析してもらったが、どうやらほぼ同じ仕組みでできているらしい。しかし、天球晶はどんなわずかな力でも起動するのに、天蓋は人の暮らしまで圧迫して力を溜め込んでいるようだ。どうもおかしい」

 しきりにまばたきしていたサンガが顔を上げた。寝台に深く腰掛けたサンガと椅子の背に寄り掛かるキハル、二人の目線はほぼ同じ。

「この美しいものが、なにかよこしまな目的に使われているなら止めなければならない。誰よりも私が許せない」

 互いが互いの視線を正面から受け止める。

「きみはどうだ。きみの正義はなんと言っている」

 青金石の深い青。そのうち、サンガのほうが根負けして頭を垂れた。

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星のひとみの爛々と 草群 鶏 @emily0420

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