深夜のまばたき

月井 忠

第1話

 冷たい夜風が襟元をなでると僕の首筋を凍らせた。


 震えが全身に伝わる前に、鉄製の校門に手をかける。

 今度は刺すような痛みが襲った。


 僕の身体には、こんなにも体温が残っていたのか。

 人間らしいぬくもりなんて、とっくに消えてしまったと思っていたのに。


 わずかに残った余熱を出し切るように右足を伸ばし、校門に引っ掛けよじ登る。


 着地して見上げると、立ちはだかるようにして校舎がそびえていた。

 いつも簡単に侵入を許すくせに、威勢だけはいい。


 校舎の横を通って裏手に回る。

 予め鍵を開けておいた窓から校内に入り、土足のまま階段を二段飛ばしで駆け登った。


 四階まで来ると息が上がっていたけど、心までは弾まない。


 新たに生み出した熱を学生服に閉じ込めながら、廊下の突き当りにある美術室の扉を開けた。

 僕の心と同じで、この扉は鍵が壊れてしまって閉じきることができない。


 美術室は廊下と違ってカーテンが引かれて真っ暗闇だった。

 隙間から漏れるわずかな月明かりを頼りに窓へ向かい、開け放つ。


 堂々と月が顔を出した。

 その月に背を向け、半分だけ明るくなった美術室を横切って、キャンバスの収められた棚の前までやってくる。


 昨日と同じ場所に君の絵はあった。

 キャンバスを引き抜いて、すぐそばにあるイーゼルにかける。


 君が描いた、君の自画像。


 僕と同じ学ランを着て、ほとんど坊主に近い君は少しだけ笑っている。


 僕もこんな風に笑えたら良いのにな。


 そんなことを思いながら、ズボンのポケットに手を入れる。

 携帯を取り出して時間を確認すると、深夜の二時を回るところだった。


「そろそろかな」


 誰もいない美術室で僕は小さな声を出す。


 声は君に、いや誰にも届くことなく壁にあたってばらばらに砕けていく。

 僕自身にも聞こえない。


 夜はとっても静かだ。


 パチパチ。


 微かな音が聞こえた気がする。


 僕は前かがみになって、君の自画像に近づく。


 君はまばたきをしていた。


 やっぱり、あの時と同じだ。




 三ヶ月ほど前。


 僕は今日と同じように深夜の学校を徘徊していた。


 あの日はまだこんなに寒くなくて、心だって暖かかった。

 日中の学校では、指の先が冷たくなるような感覚はあったけど夜は違う。


 夜は僕だけの味方だった。


 家にいるときの鬱憤も忘れて、跳ねるように廊下を渡っていく。


 ガタンと大きな物音がした。


 驚きで飛び退いたけど、すぐに音のした教室に近づき、引き戸の影からゆっくりと教室を覗く。


 そこには君がいた。


 教室の天井から縄が垂れ下がって、君の首に巻き付いている。

 僕はすぐに君の元に駆けつけた。


 ぶらん、ぶらんと揺れている。


 目が合った。


 君はパチパチとまばたきをする。


 僕はじっと見ていた。


 パチパチ。


 ピクピク。


 何かを訴えかけようとしているのかな。

 でも、僕には君の声が聞こえない。


 パチパチ。


 ピクピク。


 首が普通じゃありえないぐらいに伸びていく。

 口が半開きになって、舌がだらんと垂れている。


 床で水音がした。


 君の下には小さな池ができている。


 見上げると縄の揺れは収まっていて、もう君はまばたきをしなくなっていた。

 目は開いているけど、瞳は遥か上の方を見ていて、僕とは目が合わない。


 近くにあった椅子を引き寄せて、君の前で座る。


 君の向こうには椅子が一脚倒れていた。


 君があの椅子の上に立ち、縄を首に巻いて、後ろへ倒したんだろう。

 僕が聞いたガタンという音はそれだった。


 あれから夜は大きな音を上げず、とても静かになった。


 僕の喉を通る空気の音と、君のズボンから滴る水音だけが響いている。


 どれだけそうしていたのだろう。

 気がつくと手足がとても冷たくなっていた。


 僕は椅子を元の位置に戻すと、教室を出て家に帰った。




 翌朝、学校は大騒ぎになった。


 警察が来たり、救急車が来たり。


 先生がいつもと違った表情でホームルームを何度も開いた。


 何日かして騒ぎが収まってからは、静かに噂が広まった。

 遺書はなかったらしいとか、いじめがあったのではとか。


 どうでもいいよね?


 君が死を選んだってことに変わりはないんだから。


 あれから君のことはたくさん耳にしたよ。


 美術部に所属していたというのも、その時に知ったんだ。

 当然、君の名前も聞いたはずなんだけど、なぜかもう忘れてしまった。


 君と僕は同学年だったから廊下ですれ違うことは何度かあったと思う。

 顔は知っていたけど、名前は知らない。


 そんな関係だったから、名前を思い出そうとはしない。


 僕らが本当の意味で出会ったのは、やっぱりあの夜の教室だと思うんだ。




 君はだんだんとまばたきをしなくなる。


 今、君は絵の中にしかいない。

 僕は絵の外から君を見ている。


 手にしていた携帯で時間を確認する。


 やっぱり、あの時と同じだ。


 君が縄に吊るされていた時と同じ時間にまばたきを始め、動かなくなった頃にまばたきを止める。


 君は今も絵の中で生き、そして死んでいるんだね。


 月の光は冷徹で、死んでしまった君の顔を無惨に照らしている。

 初めに見た時と同じように、君の自画像は少しだけ笑っていた。


 僕もこんな風に笑えたら良いのにな。

 今じゃ、すっかり笑顔を忘れてしまった。


 結局、君はまばたきをしながら何を伝えたかったんだろう。


 恐怖とか後悔とか?


 たぶん答えは出ないね。


 僕にはもう一つ知りたいことがあるんだ。

 あの時、どうして君を助けなかったのか、知りたいんだ。


 怖かったのかな?

 見とれていたのかもしれないし、単純に面倒だったのかも。


 君が何を思っていたのかわからないように、僕も自分のことがわからない。


 だから、これから先も、こうして美術室に通うことになると思う。

 君のまばたきを見ていたら、少しは答えに近づけるかもしれない。


 それに、僕たちは友達だからね。


 また来るよ。

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