覇者のカンパイ

まえだたけと

覇者のカンパイ

 間もなく号砲が鳴る。山崎と戸川は隣り合わせの4レーンと5レーンに振り分けられた。大学陸上の頂点を決める全日本インカレ。男子100mの決勝である。陸上競技の花形。スタジアムにいる全員が息を飲んで見守っていた。


 山崎は高校3年生の夏にインターハイを制し、鳴り物入りで名門A大学へ進んだ同世代のスター選手。大学1年でいきなりインカレを制しそのまま3連覇を成し遂げた強者で、大学卒業後の所属チームも内定している。ベストタイムは10秒08。いわば日本の陸上界を背負って立つ人材であると目され、関係メディアでもその動向は常に注目されていた。小さな怪我を負うことはあっても試合に差し支えるようなことはなく、まさに今4連覇という栄光を手に入れようとしていた。この大会の4連覇のみならず、大学に入ってから学生対象の試合では負けなし。シニアの試合での勝ちはまだなくとも、今年の日本選手権でも優勝候補の大学無敗王者は予選と準決勝を難なく勝ち進み、全体で2番目の10秒19のタイムをもって決勝の号砲を待つ。

 そんな山崎のタイムを0.1秒上回って決勝に進んできた戸川は4年生。この10秒18というタイムは戸川にとって自己ベストであった。この大会に乗り込んでくるまでの自己ベスト10秒40を予選で0.8秒上回り、準決勝で更に記録を伸ばして今ここに立っている。戸川が全日本への出場を果たしたのは昨年が初めてのことで、今の今まで目立った選手ではなかった。高校時代も全国出場経験はなく、一般入試で国立B大学に進学した。国立大学という体質故、いわゆるまともな指導者がいない中で外部のコーチに師事しながら競技を続けてきた。ただ、師事すると言っても月に1回見てもらえればいい方で、専攻する心理学の研究に励みつつ、何より自分の身体で色々実験をしながら競技を続けることを楽しんでいた。昨年に初めて全国の舞台を踏んでからその興味は更に高まり、進学に伴う授業数の減少も相まって陸上に割く時間が増えていった。いわゆる陸上オタクである。

 戸川は同学年のスター選手の隣でインカレ決勝という大舞台を走れることに興奮していた。一方山崎は自身の優勝は間違いなしと考えていたが、急に戸川がベストタイムを大幅に更新してきたことに不気味さを感じていた。「山崎4連覇」だけを期待していた各メディアも観客もあるいは出場する選手たちすらも、このレースの在り方が想像していたものと大きく変わっていることを実感していた。


 女子100m決勝が終わりいよいよ男子100m決勝。選ばれし8名のスプリンターたちは、それぞれのスターティングブロックをそれぞれの儀式に従ってセッティングする。準決勝通過タイムは山崎と戸川が抜きん出ている。両名に続く10秒31で決勝に駒を進めたのは昨年2年生ながら5位入賞のC大学の谷口。その次は10秒45から50の間に犇めく混戦模様。やはりこの時点では絶対王者4連覇か、ダークホースがそれを阻止するのかという点に注目が集まっていた。

 山崎は少し緊張した面持ちでスタート練習を終え、スタート位置へと戻っていく。これまでもインカレ4連覇を成し遂げた者はいるが、ここ10年以上は毎年チャンピオンが入れ替わる群雄割拠の時代。そこに終止符を打ち、まさに時代を作ってきた男が新たな歴史を刻もうとしている。それはこれから陸上界を背負って立つこの男にしか刻めない特別な歴史である。

 戸川は憧れの選手の横でニヤニヤしながらブロックを合わせている。会場にいるほぼ全員がついさっきまで彼のことを知らなかったわけで、応援団だっていない。戸川はその状況が可笑しく思えたし、絶対王者の歴史的瞬間に立ち会えることに喜びを感じていた。自分でもどういう感情からニヤついているのかはよく分からなかったが、とりあえずニヤニヤしていた。


 いよいよ選手紹介。3レーンの選手が紹介されるといよいよ山崎の名がコールされる。アナウンサーの声にも力がこもり、会場のボルテージは今大会最高潮となる。その余韻で5レーン戸川の紹介アナウンスはほとんど聞こえない。戸川はまたしても可笑しくてニヤニヤとしてその状況を受け流した。谷口はダークホースの右隣でその時を待つ。

 8名の選手全員の名が告げられた。間もなく号砲が鳴る。大学陸上の頂点を決める全日本インカレ。男子100mの決勝。陸上競技の花形。スタジアムが息を飲んで見守る中……


「On your marks……Set……」


 山崎は確実に地面を捉え加速する。山崎の持ち味はこの米国人スプリンターを彷彿とさせる加速だ。特段号砲への反応が速いわけではないが、どんな状況でも確実に加速することでトップスピードの出現を他の選手より遅らせ、後半の速度低下を最小限に防ぐ理想的な走り。戸川もそれは研究し尽くしていて、離されまいと左隣で山崎に食らいつく。しかし戸川の方が少し身体が起き上がるのが早かったか、40メートル付近で山崎の身体が明らかに前に出る。60m付近ではその差はより顕著であった。谷口は定評のあるそのスタートで飛び出し、王者とダークホースの狭間を駆ける。残り僅か。絶対王者が他の選手を引き離し伸びていく。これが経験の差。戸川の足掻きは山崎に1mばかり及ばず、3位の10秒32。意地で2位に滑り込んだ谷口のタイムは10秒27。山崎は実力通りの優勝。タイムは10秒15と自己記録更新はならなかったが、まさに歴史的勝利となった。


 マスコミたちは迷わず歴史を刻んだ勝者に駆け寄る。代表記者が今の気持ちを尋ねると、荒れる息を抑えながら優勝者はこう答えた。

「いや、ホッとしました。自分としては4連覇を意識したくなくてもどうしても意識しちゃって……。しかも準決でいいタイムを出してきた選手もいて……しかも隣のレーンになったので……なんていうか……ちょっと怖かったっていうか……でも、勝ててホッとしました」

「さすがの走りでした!今季は日本選手権の優勝も期待されていますが、意気込みをお聞かせください」

「はい、しっかり準備したいと思います」

「優勝しました山崎選手でした!おめでとうございます!」

「ありがとうございました」

 

 インタビューを終え、表彰式の待ち時間。少しホッとした表情で優勝者に座りその時を待つ男の隣には、相変わらずニヤニヤした戸川がいた。

 「速かったね」

 勝者は3位でニヤつくその男に声を掛けた。

 「なんかベスト出たなー。でも決勝はさすがに緊張したわー。こんな舞台は初めてだから。さすが山崎。こりゃ勝てんわ。勝てるとも思ってなかったけど。っていうか2位はいけると思ったのに3位かぁ。谷口もさすがに強いなぁ。2位おめでとう!来年は山崎もいないし優勝だな!」

 「ありがとうございます。楽しそうですね、戸川さん」

 「いやー楽しい!この大会で陸上辞めようと思ってたけど、どっかチームに入って続けようかなと思ってるぐらい。山崎は実業団入り決まってるもんなぁ。スゲーなぁ」

 「まぁ……。日本選手権はでないのか?」

 「せっかくだし出ようかな。まぁ玉砕だろうけど面白そうだし。人生でなかなか味わえるもんじゃないしな。山崎は今年こそ優勝だな!楽しみにしてるぜ!いやーこうやって喋った人が日本選手権優勝して世界に行くとか考えたら自慢できるもんな!サインしてよ!あ、俺のもいる?あはは」

 「変わってるな、戸川は」

 「そう?楽しくない?なんか祭りに来てるみたい!ほら!とりあえずスパイク袋にサインして!マジック、持ってきた」

 「なんだよ。こんなの価値ないって」

 「ほら、ミーハーだから、俺」

 「書いたことないからなぁ。こんなんでいい?」

 「おいおいこれじゃサインじゃなくて、持ち物に名前を書きましょうみたいじゃんかよ。まぁいい。間違って持って行くなよー」

 「メーカーが違うから大丈夫だって」

 「あはは」

 

 表彰式を終え宿舎に戻った山崎は思った。自分は戸川の様に競技を楽しめているのだろうかと。陸上界を背負って立つだの、4連覇だの、いよいよ日本選手権の優勝だの、そこに自分がやりたい陸上競技があるのだろうかと。この試合も、得体の知れないプレッシャーで楽しめていなかったかもしれないと。勝負に勝ってただホッとしている自分と、負けてもニヤニヤしている戸川とを比べると、本当の勝者が自分なのか疑わしくなった。

 とりあえずシャワーを浴びる前にスパイクやユニフォームを明日のリレーに向けて干しておこうと思ったその時、スパイク入れに見覚えのない白いテーピングが貼られているのを見つけた。そこには何やら黒マジックで文字が書かれている。


 「楽しもうぜ!陸上!5レーンの無名選手より」


 戸川が最後までニヤニヤしていたのはこういうことだったのかも知れない。山崎は少し呆れながら、今大会期間中で初めてニヤっとしながら戸川をSNSでフォローバックし、テーピングの写真を添えてメッセージを送った。


 「3位おめでとう。なんだよこれ」


 そのメッセージには陸上オタクからすぐさま写真と共に返信が来た。


 「バレたか!ってことで弱小校の俺はもうリレーがないから乾杯!ビールが美味い!名門A大学伝統のリレー、応援してまっす!2冠達成前祝いってことで!乾杯!」

 「ありがとう。ずるいぞ、ビール」


 2人のメッセージラリーは山崎の明日への備えと戸川の酔いによりすぐ終結した。ただ4年連続の覇者は今、なんとなく清々しく完敗した気分だった。

 間もなく号砲が鳴る。山崎の陸上人生はまだ始まったばかりだ。

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