摩擦
ぴちゃん。ぴちゃん。何かが落ちる音がする。
まどろみの中にいたシエルは、頬に冷たい物が触れる感覚がして、うっすらと瞼を上げた。頬を拭い、指を見れば、それは透明な雫であった。
(雨……?)
覚醒しきっていない、ぼうっとした頭で考える。しかし、すぐにその可能性を否定した。なぜならここは
その瞬間、シエルは全てを思い出した。
親友の死をきっかけに、名と地位を偽って逃げるようにヴァイマリアードへ降りたこと。アドラとズィヤードに拾われて、少年として月部屋で働いていたこと。そして、その月部屋のブレインであるバンが裏切り、アドラを撃ち殺そうとしたこと。
「アドラさんっ!」
シエルは弾かれたように体を起こした。荒い呼吸を整えつつ、あたりを見渡す。しかし、目に飛び込んできたのは赤で統一された絢爛な空間でもなく、けばけばしいネオンでもなかった。深緑の苔が灰色を侵食するように生えた床に、ひび割れたコンクリートの壁。天井には照明が吊られているが、電球は割れて役割を果たしておらず、全体的に薄暗い。ヴァイマリアードという享楽の街におよそ相応しくない寂れた風景に、シエルは首を傾げた。
「ここは……」
「廃屋だ」
シエルの問いかけに、静かな低い声が返って来た。声がした方角を見れば、入口と思われる扉の前に青年が一人、立っていた。褐色肌に月を彷彿とさせる黄金の目――ズィヤードだ。
「ズィーさん。何で......」
びくんと、シエルの体が魚のように跳ねた。ズィヤードは女神が作った毒を盛られて死んだはずだ。だからこそ、アドラがバンに手を上げて返り討ちにあったのだ。
目の前にいる青年は亡霊だろうか? シエルは手近にあった椅子に身を隠し、その陰からズィヤードを見上げる。シエルが怯えていることに気がついたのだろう。ズィヤードは自分が生身の人間であると、腰からくるぶしまで叩いてみせた。
「あの程度の毒には慣れている。万全とは言えないが、問題ない」
「そうですか......。良かったです」
シエルは大きく息を吐いた。強張っていた全身から力が抜けていく感覚がする。もし自分のせいでズィヤードが死んでしまっていたら、一生自分を赦すことができなかっただろう。
故に。
「ズィーさん。あのっ、ごめんなさい!」
シエルは立ち上がると、勢いよく頭を下げた。
「もうご存じかと思いますが、僕は……いえ、私はノーランディア王国の第一王女、アリシエル・ドゥ・ノーランディアです。本当は記憶喪失なんかじゃありません。あのお城での暮らしが嫌で、
きゅっと唇を噛み、シエルは黄金色の瞳を見つめる。許されようとは思っていなかった。一連の騒動はシエルが
しかし、ズィヤードの反応は驚くほど淡白だった。
「知っている」
ズィヤードは散らばったガラス片を避けて歩くと、シエルが身を隠すのに使った椅子に腰を下ろした。
「十年近く前の話だが、俺はあんたを見たことがある。あんたが姫様だと気づくのに時間はかかったが、特に尋ねる理由も無いので黙っていた。そういう事情があったということは知らなかったが」
「ズィーさん……」
「これでよかったのか?」
「はい。ありがとうございます。おかげでここまで『シエル』として過ごすことができました。短い間でしたが、とても、とても楽しかったです」
思い返せば、ヴァイマリアードに来てから退屈な日なんて一度も無かった。目に映る物全てが新鮮で、些細な出来事にも心が躍った。王女としてではなく自分を見てくれたファンと出会えたのも。ズィヤードと一緒にドーナツを食べたのも。アドラと秘密を共有したのも、全てがかけがえのない思い出だ。これ以上何を望むというのだろう。
シエルは震える拳を握りしめて、ズィヤードに背を向けた。
「ズィーさん、行きましょう。バンさんたち騎士団の狙いは私です。私が地上に戻ればこれ以上みなさんに迷惑は掛かりません」
「駄目だ」
しかし、ズィヤードはシエルの腕を掴んだ。
「それではアドラの命令が果たせなくなる」
「命令……?」
人の命ではなく命令を重視する言葉に引っ掛かりを覚え、シエルは振り返った。
「何を言っているのですか。ここにいないということは、アドラさんはバンさんの元に囚われたままでしょう? バンさんはきっとアドラさんを私を誘拐した犯人に仕立て上げるはずです。そうなる前に助けないと」
「行かせることは出来ない」
それでもなおズィヤードはシエルを離さない。自分よりはるかに力が強い手を振り払うこともできなくて、シエルは顔を顰めた。無意識に語気が荒っぽくなる。
「どうしてですか。アドラさんの命がかかっているんですよ。それとも、ズィーさんはアドラさんがいなくなっても平気なんですか?」
問い詰めるような視線に、ズィヤードは顔色を曇らせた。だが、すぐに頭を振ると「ああ」と短く肯定した。
「俺はアドラから『俺のことはいい。シエルだけは必ず守り抜け』と言われた。ならばその指示に従えばいい。ここはアドラと俺しか知らない秘密の隠れ家だ。水道管が破裂しているのが厄介だが、水は食料と共に商店街から奪取してくる。ここにいれば安全だから、ほとぼりが冷めるまで待って――」
「そう、ですか。もういいです」
淡々と吐き出される言い訳をシエルは遮った。
「ズィーさんの薄情者! 私、あなたがそんな冷たい人だなんて思いませんでしたっ!」
大通りの喧騒から隔絶された静閑な空間に、甲高い声が響き渡った。
「アドラさんはズィーさんのことをすごく大切に思っていました。それなのに何でそんな酷いことを言うんですか? 助けてって言えない時に駆けつけてあげるのが友達じゃないんですか!? 助けられるだけの力があるのにそれを使わないなんて、そんなの卑怯です! 死んでしまってからじゃ何もかも遅いんです……」
シエルはむき出しの太ももに爪を立て、泣きたくなる衝動を堪えた。肉に爪が食い込んで痛かったが、今アドラが味わっているであろう苦痛に比べれば何倍もマシだ。
(こんな所で立ち止まるわけにはいきません。もう二度と大切な人を喪ってたまるものですか)
「ズィーさん。ごめんなさいっ!」
「――?」
足元に違和感を覚えたズィヤードは視線を落とした。違和感の正体は月部屋指定の革靴だった。なんと、シエルがズィヤードの足を思い切り踏んでいたのだ! 常人より強靭な体を持つズィヤードにとって、それはまったくと言っていいほど痛みを感じない。だが、暴力を好まないシエルが自分に攻撃をしてくるとは予想外だ。シエルを握っていた手がわずかに緩まる。
その隙をついて、シエルはズィヤードの腕を振りほどいた。
「ズィーさんが渋っても、私、アドラさんを助けに行きますから。だってアドラさんは大切な友達だからっ!」
尖った声を浴びせるのと同時に、シエルは蜘蛛の巣だらけの扉を開け放つ。そのままズィヤードを振り変えることなく、常闇の世界に身を投げ出した。遠くでチカチカと点滅するネオンと、耳が痛くなるほどうるさいクラクションの音を目指して走り出す。
「シエル!?」
反射的に、ズィヤードは細い腕に手を伸ばした。だが、猫のようにするすると逃げる彼女を今度は捕まえることができなかった。バタンッと椅子が勢いよく倒れる。
ぴちゃん、ぴちゃん。錆びついた水道管から水が漏れる音がする。
ズィヤードはコンクリートの壁に背中を預けて、先ほどまでシエルがいた場所を無感情に見下ろした。
「友達、か」
当てつけのように投げられた言葉を反芻する。アドラを友達だと言い張ったシエルはまるで「ズィーさんはアドラさんと友達じゃないんですか」と批難しているようだった。その無鉄砲な真っすぐな心が痛いほど眩しい。ズィヤードの後ろ暗い過去に容赦なく突き刺さる。
だが――
「俺が殺ししか能がない奴だということは
殺人鬼と称された
*
(勝手に飛び出してきてしまいました……)
廃屋を飛び出し、曲がりくねった坂道をどう進んだかも分からずに走ること、およそ一時間。気が付けばシエルは見覚えのある路地裏にいた。数か月前、暴漢に襲われそうになっていたところをズィヤードに助けられた場所だ。そして、
シエルは鉄筋がむき出しになったビルとビルの隙間から、蛍光色の光が溢れる大通りを覗いた。若い男を中心に、大勢の
異様な風景の原因はすぐに分かった。行進の最後尾に雪の結晶を身に着けた者が二人いたのだ。一人は騎士団の隊服に身を包んだ大柄な男。そして、もう一人は月部屋唯一の医療係であり、バンと共に裏切った闇医者であった。
「こんなに人集めて、バンさんどうする気なんすかね」
脱走を試みる
「あのお方に差し出すんだよ。中尉はあのお方のお気に入りだ」
「あのお方?」
「軍務卿だ。ノーランディア王国騎士団の団長で、この国の防衛の要さ。戦争狂いの王様を誑かして、裏で好き勝手やってるっていう噂もある」
「ふうん。そんな人が
「さあな。それよりお前は中尉についてきて良かったのか? 月部屋にはアドラとかいう男がいただろう?」
「これから殺される人に従っても未来はないでしょ。それにオレは地下三層に戻れればそれでいいんで」
「現金な奴だな。だが、そういう奴は騎士団に向いている。この仕事が終わったら正式に
ハハハハハ。騎士と闇医者が揃って乾いた声で笑う。見てはいけない物を見てしまった気がして、シエルはばっとビルの後ろに隠れた。
(どうしましょう。今からでも戻るべきでしょうか)
しかし、すぐにその考えを打ち消すように、首を振った。無我夢中で走ってきたせいであの廃屋へと戻る道がわからない。それにズィヤードを責め立ててしまった以上、なんとなく顔を合わせ辛い。謝れば良いのだろうが、言ったこと自体は間違ってないはずだ。
(そうです。私がバンさんに身を差し出せば解決するんです。ちょうどそこに闇医者さんたちもいますし、連れて行ってもらいましょう)
シエルはパチンっと頬を叩く。
そして、ネオンが煌めく世界へ一歩を踏み出した、その時だ。
「ストップ。自分の身は大切にしないと」
不意に後ろから男性とも女性とも取れない声がした。きゃあっ、と思わず悲鳴を上げそうになる。だが路地裏に甲高い声が響き渡る前に、ぬらりと、白磁の腕がしなやかな枝のように伸びてきた。柔らかい手が開けっ放しになった口を覆う。
シエルは恐る恐る視線を後ろへ向け――その正体に息を呑んだ。
「どうしてここに......」
「二週間ぶりだね、アリシエル。肉体は損傷していないが、精神は順調にすり減っているようだね。君に話がある。場所を変えようか」
うす暗い闇を背景に本紫色の瞳が妖しく光る。女神は真っ赤な
ヴァイマリアード・ハイラガード 唯野木めい @Mei_tadanogi
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