僕と彼女が出会い、恋をしたお話。

音ノ葉奏


 僕と彼女の間に出会いと呼べる出会いはなかったのかもしれない。それでもきっと何かの繋がりとか運命のいたずらとかそういった類の何かによって引き寄せられて、なんとか絡み合った糸のようなものなんだろうと思う。


 それでもこうして一人と一人が二人になったのは、絡み合った僕らの糸が少しずつ強固になっていったからなのかもしれない。

 

 きっと僕が初めて彼女のことを意識したのはもっと先のことだけど、彼女のことを知ったのはまだ何も知らない入社したての頃の話で、右も左も分からない新人が他部署の先輩といち新卒の新入社員という関係だ。


 話すきっかけもなければ、話のネタも無い。

 

 そんな自分が、彼女と仲良くなれるなんて想像した試しもなかった。

 綺麗だけど儚さを見せていて、自分のいる職場の中では異彩を放っている。


 なんだろう、その環境とはアンバランスな彼女のことをどこか綺麗だって思っていた自分は少なからずいた。


 ……だからといって話しかけることもなく、それから時は過ぎこの会社に入社してから一年が経過しようとしていた。


 その間に大きな出来事が数点あって、その一つに自分の異動だ。


 今まで親しんだオフィスでのワークではなく、営業の仕事になる。事務仕事から一気に変わった。それのせいもあってか、彼女のことを考える余裕もなく、気づけば一年が経っていたというわけだ。


 そして、もう一つにその“彼女”の異動である。


 彼女とついぞ喋ることなく他部署に異動となってしまったこともあり、僕と彼女との間にはきっと決定的な溝ができてしまった。



 ……というか、溝も何も彼女と僕の間に何も無いから溝どころでなく何も無いというのが正解だ。

 


 そんな彼女と僕の間に少しばかりの変化が起きたのは一年と二ヶ月が経った日のことだ。


 六月を迎えた最初の週、僕の自身二度目となる人事発令があった。


 その内容とは僕の昇進だ。


 そして同時にそこに書かれていた名前が件の彼女、小倉みゆうだった。


 なんでだろうか、僕はその名前並んでいるのを見て動き出すことを決意してしまっていた。きっとこれが僕と彼女の最初のきっかけだったのかもしれない。


 糸と糸はそこで一つ絡まりをみせたんだろう。

 僕は唯一知っている彼女のSNSのダイレクトメッセージに一通のメッセージを送る。


 正直会話が少しでも膨らめばいいなくらいのありきたりな文章だ。それゆえに大きな期待も抱いていなかったし、そもそも期待を抱くだけ無駄だった。


 ——だってその彼女には彼氏がいたのだから。


 それでも、彼女自身が拒絶を見せなければそれでいいし、拒絶を見せるのであれば潔く引けばいい。お互い共通の話題ができたからとりあえずメッセージを送った、僕の大義名分はそれだけだ。


「小倉さんも大変ですね」


 そんな差し障りもなければ面白みもないなんの変哲も無い文章。

 これが結果的に僕と彼女を結びつけるやり取りになってしまったのだから何があるのかわからない。


「お金持ち目指して頑張ります!」


 僕に帰ってきたメッセージは、ある意味皮肉とも取れそうでどこかユニークな文章だった。

 これには僕もおもわず笑いを抑えることができなかった。

 向こうにもどうやら僕の名前は認知されていたみたいで、その後に続く形で、


「星本さんも上がるんでしたっけ」


 と返ってくる。

 そんな、他人行儀な呼び方も今からしてみれば初々しいが、それでもこの時の会話を僕自身忘れることはないだろう。


「さんづけなんてしなくて大丈夫ですよ!」

「わたしこそ、さんとかいらないです」


 そんなこと言われても会社では先輩で、僕よりも上司だ、そんな簡単に変えられるものではない。

 そこから何度かやりとりをしつつ、僕と小倉さんは少しずつお互いを知ることとなっていった。


 アイスブレイクもだいぶできて、会話をしていると気づけば時刻は早朝五時三時間くらいはメッセージのやり取りを行なっていたというわけだ。


 それだけ話せば少しは壁も崩せてきて、お互いを苗字にさん付けで呼ぶとこから名前にさんづけで呼ぶところまでになったそれだけで内心収穫はかなりあったつもりだけど、それ以上の収穫があるのは、もう少しだけ後のことだった。


 お互いがそろそろ寝ようと話し出した時、僕の方からしようと思っていた連絡先のスクリーンショットが彼女の方から送られてきた。


 それだけで内心ガッツポーズが止まらなかったけれど、深夜テンションが醒め始めて、眠気が勝っている今の自分ではそれを表現できるだけの元気は残っていなかった。

 それでもその日の嬉しさは、それから先に得る彼女との関係を思えば小さなものだったんだろう。




 僕と彼女の間に動きがあったのはそのやり取りから一週間後の土曜日だった。

 あの日以降少しずつあるやりとりに大きな変化があった。というのも夜の八時くらいのことだ。


 お互いにちょっとした軽口が叩けるくらいの関係を築き始めていて、


「凸すんぞ!」


 と彼女っぽさの現れた返信に、


「全然いいですよ」


 と返した瞬間、僕の画面に唐突に大倉さんから通話がかかってきたことを示すアイコンが降りてくる。

 突然のことで焦りはしたけれどそれでも彼女は普段がどんなものなのかを感じたくて、応答ボタンを押した。


「……もしもし」


 一発目で、「やばいっ」と思ってしまった。

 なんだろう、惚れたじゃないけれどそれに近しい感情を抱いてしまう。

 自分の細胞レベルとかそういう感覚で、彼女のその声が自分にとって耳なじみのいい声だった。


「もしもし、急に電話かかってきてびっくりしました」


 そんな感情をおくびにもださず、なんとか軽口で返すことができた。


「凸すんぞっていったから思わずしてしまいました」


 メッセージの中ではタメ口になっている僕らのやり取りも音声になった瞬間急によそよそしくなってしまうのだからどこか面白い。


「小倉さんの声、なんか僕の好きなユーチューバーに似てて好きです」

「えー、うそだよ、そんなことない」

「本当です、なんか聞いてて似てるなって思ったし、正直好きです」

「……うん、ありがと」


 どこか照れたようにそう呟く彼女を知って、この人の相手が羨ましい、素直にそう思ってしまう。嫉妬にも似た感情を抱きつつあるけれど、そもそもそんな資格をもっていやしない。


 それでも今この時間だけは彼女の時間を僕に使ってくれている、そのことが何よりも嬉しかった。

 彼女はすこしお酒を飲んでいたようで、とろんとした声をしていたのを覚えている。


 小倉さんは、普段どんな生活をしていて、どんな動画を見ているだとかそんな他愛もない話、それだけじゃなくちょっと踏み込んだ、恋人との話とかそんな話を夕方くらいから日付が変わるくらいまでしていた。


「もうそろそろ眠い?」


 その頃にはお互いに敬語じゃなくなっていた。

 僕の問いかけに対して彼女はとろんとした声がさらにもう少し甘く柔らくなったような声で「うん」と答えた。


 正直それだけで堪らなく愛しかったけれど彼女の愛情の向かう先は自分ではないという敗北感にも似たような感情を否応なく感じてしまう。


「もうそろそろ切ろうか?」

「いやぁ、もっとする、切らないで」

「そっか、わかったよ」

「ありがとぉ」


 どこかホッとしている自分がいると同時にそんな小さなわがままがとても可愛く見えてしまう。

 同じ職場の中でも小倉さんのそんな姿を知っているのは自分とその彼氏くらいなものだろう。

 そんな優越感を感じてしまっているのだから僕はいよいよ引き返せないところまで来ているのだろうと少なからず感じていた。


「私のこと、嫌いにならないでね。多分だけどこのままだったらこしもとくんが異動とかしちゃったら嫌になっちゃうから、私が辞めるまではどこにもいかないで」

「いかないよ、安心して」


 お酒のせいなのか、いつもよりも昂ぶってしまっている彼女の心を少しでも落ち着かせるために僕は彼女が求めているであろう言葉をかけ続ける。


「うん、わがままだけど嫌いにならない?」

「ならない」

「えへへ」


 こんな僕の言葉でいいのならいくらでもあげよう。

 それで心が少しでも安らぐのなら僕が彼女にとっての安定剤になる。


「このままだったら星本くんのこと好きになっちゃうかも」

「彼氏いるでしょうが」

「うん……」

「まったくもう」


 そんな風になだめはしたものの僕の心は大いに荒れていた。


「小倉さんは……」

「ん〜? "おぐら"さん?」

「いや、だから……」

「小倉さんっていった? 照れてるの?」


 ニヤニヤとした口調で僕に語りかける、その彼女の声はやけに小悪魔で蠱惑的で、彼女が求めているであろう言葉が思わず僕の口から漏れ出てしまう。


「みゆう」

「やっと呼んでくれた」

「恥ずかしい……」

「かわいいね……」


 ……反則だ。


 そんな態度を取られてしまったら、好きになってしまっても文句が言えなんじゃないだろうか。


 でも、口から漏れ出てしまいそうな好きの二文字をぐっと飲み込んで、僕は彼女と本音を隠した会話を続けた。


 気づけば夜も明けていて、次の日の昼まで話し込んでいた。ほぼ十時間近くしたその通話は僕の中でも過去に類を見ないほどの長電話だった。


「流石にもう昼だし眠すぎるからまた、今度通話しよう」

「うん、わかったぁ」

「それじゃあ、おやすみみゆう」

「うん、おやすみ、ゆうき」


 プツンという無機質な音と同時に音のない世界が戻ってくる。


 通話が終わって周りに訪れる静寂に寂しさのようなものを感じてしまっても仕方がないだろう。だってあれだけの時間まるで隣にいるのかのような声音で、彼女と話していたのだから。


 それに最後、僕らはお互いの名前で呼び合うことができた。


 関係が一つまた進んだ。

 それが堪らなく嬉しくて、体は眠いと感じているのにどこか頭だけは熱くなっていて寝付くのに少しだけ時間がかかったのを覚えている。



 

 そこから数日間でも怒涛の展開が起こった。


 というのもだ、先日の電話の中で軽く話題に出ていた、ご飯を食べに行くという軽い約束みたいなものを今週実行するというのが二人の中で決まったからだ。


 流石に初回ということもあって二人で行くということはなかった。それに関してはモラルの面でも、僕の心の面でもよかったとは思っていたが、それでも少しだけ残念だという気持ちが拭えなかったのは少なからず僕の心の中で彼女に対する気持ちのようなものが少しずつ膨れ上がっていたからなんだと思う。


 今はその好意という風船に少しでも空気を入れないようにするのに必死で、いつ割れるかわからない、どこが限界なのかもわからないその風船の限界に気づかないふりをしている。


 その限界がきてしまった時、この不安定な関係性も終わるような気がしてならなかった。

 

「じゃあ明日の夜にしようか」

「うん、わかったできるだけ早く帰れるようにする」

「たのしみだね」

「うん、たのしみ」


 前日の夜になってメンバーと時間がある程度決まる。ただ、お互いに時間が不安定なこともあってそれだけは心配だったもののできるだけ早く帰れるよう頑張ることを決め、次の日を迎える。



 その日は結局少しだけ帰るのが遅くなったものの、それでも約束の時間から少しだけ過ぎたくらいの時間ですんだ。ただ、みゆうに関してだけはやはり役職が高いだけあって僕よりも遅れる形でやってきたものの、それでも三十分くらいの話だ、誤差みたいなものだろう。


 ともあれ集まった僕らはお酒を始めご飯物などの注文をし、ようやく会話を始めた。


 会話はほとんど僕と僕の後輩、みゆうとみゆうの後輩って感じに……ってなんでに分割されてるんだ……? なんて疑問を抱きながら会話を徐々に相手側にも広げようやくなんとか全員での会話になってきているわけだけど…………。


 おかしい、なぜかみゆうは僕にだけ敵意のある会話を返してきてなんなら僕の後輩にだけ会話のボールを投げる。


 さすがに、それはひどくないか……?


 ただ、そんな空気を広げさせるわけにはいかずなんとか会話を続けるもなんだろうか、どうしても僕とは話したくないというような、そんな空気を感じて最後まで僕とみゆうの間に会話らしい会話が起こることはなかった。


 店を出ると初夏を感じさせるまだ温まりきっていない冷たい風が肌を撫でる。

 まず先にみゆうの後輩を送り届け、その流れで僕の後輩、そして最後にみゆうといった感じのルートで帰って行く。


「じゃあ星本さん、お疲れ様です」

「おう、おつかれ」

「ありがとね」


 そうして後輩を見送ると僕とみゆうが二人きりとなってしまう。


 といっても後輩の社宅とみゆうの社宅にたいした距離があるわけじゃない。そこまで送ってしまえばあとは一人で帰るだけだ……と思っていたのだけど。


「じゃあ、おつかれみゆう。きょうはありがと」

「私がゆうきを送る」

「何言ってんの?」

「いいからっ」


 そういって頑なに帰ろうとしない先輩をなんとか帰らせようとするが、そこは頑固な彼女が押し切るように僕の帰り道を突き進んで行く。


 だいぶお酒が回っているのかふらふらと前を歩く先輩が心配になって肩に手を添えた。


「ふらふらなんだからもう帰りな? 僕は大丈夫だから」

「送るの!」


 などとちょっとした言い合いになったので仕方なく途中まで一緒に歩いたものの、流石に帰り道一人にさせるのはと思い、僕は歩いてる彼女を強く引き寄せ、自分の家の方向に歩かせるべく体の向きを変えさせる。


 しかし「やぁだ!」と子どものように体を振る彼女を少し可愛いなとおもいつつもなんとかそこは男の力で無理やり方向を変え少しだけ引っ張るように彼女の家の方向に歩みを進める。


「そんなことして、私に触りたいだけだろ!」

「いや、別にそうじゃないけどこうまでしないと帰ってくれないでしょ?」

「送るの!」

「いいから!」


 などと苦戦しながらなんとか一歩、また一歩彼女の家まで歩く。

 流石にここまでやられると観念したのか、身をまかせるように歩みを進める。

 そこで彼女はぎゅっと僕の服の裾を掴む。


「(本当にこの人は……)」


 冗談でもそんなことされたら可愛いなと思ってしまうのも無理ないだろう。

 そんな彼女のことを少しでも意識しないように、家の前まで送る。


「次は絶対私が送るから」

「わかったよ次はね」

「うん。ありがと」


 それだけいい彼女が家の中に入ったのを確認して僕も家路へとついた。

 今でも僕の手に残る彼女の香水の匂いがやけに鼻に残った。それを振り切るように外の空気を思いっきり吸った。



 彼女と僕の関係性の垣根のようなものを超えたとするのであればきっとこの日をきっかけに変わっていったんじゃないかと思う。


 いつの間にか彼女と僕が電話をするということに違和感を感じなくなってしまっていた。


 それだけじゃなく、お互い会って二人でいる時間もあったせいかどこか関係性も近づいていた。


 だからだろう、その日の電話で不意に彼女と会うことになったのは……。


 多分きっかけは、彼女と彼氏の関係の不和だったのかもしれない。


 本当に彼女のことを思うのであればきっとここで引き返せばよかったと思う。だけど、そのみゆうの電話越しの声を聞いていると今すぐ彼女の元へ行って優しい声をかけたい。そう思ってしまったのだ。


 だから次の日が仕事であるのにも関わらず、僕は彼女に会いに行くとそこで告げみゆうの元へと急いだ。


 軽くコンビニへと行き、そのまま彼女の家の近くの駐車場で数時間話した。


 夜も更け、日付も超えて誰もいないであろう静かな空間で僕とみゆうの二人だけが話をしている。


 二人だけの空間で話をしているとどうしても彼女のことばかり意識をしてしまう。そんなこと会う前から分かりきっていたのに、やはりこうして対面しているとどうしても僕にとって彼女の存在はただの“気になる先輩”から、“好きな人”にかわっているのだと実感させられる。


 ふと会話が途切れ彼女は僕の目を見つめた。


 僕も彼女の目を見つめていると、なんとなくお互いの距離が近づく。


 僕だって鈍感じゃない。

 こういう雰囲気の時に、僕が、もしくは彼女が求めていることがなんなのか感づいてしまう。


 鈍感だって自分をごまかすのは楽なのかもしれない。だけどもしここで自分をいつわってしまったらきっとこの先僕と彼女の関係性は一生先輩後輩のままだ。


 だから僕は、いけないことだって、不純なことだってわかっていたけれど。ひきよせられるままに彼女の唇を奪った。


 うるうるとしたみゆうの瞳がきゅっとしまって、拒まれていないことがわかった。


 会話では軽口なのか好きだと言っていてくれたけれど、実際に僕のことをどう思っていてくれたのかはわからなかった。


 だけどこの瞬間だけは、彼女の好意は僕に向いているんじゃないかと、そう都合のいい解釈をした。


 最初は唇にちゅっと触れるだけのキスだった。でも、唇を話した時の彼女の艶かしい唇や、その先を求めるかのような上目遣いに自分の理性は働かなくなる。


 この時点でも色々間違っていたのだろう。


 ここで引き返せばまだ、間違いで、ちょっと仲の良すぎる先輩後輩の関係のままいられたのかもしれない。


 それでも僕は停滞を拒んだ。


 少しだけ離れたお互いの距離を再度縮めて、今度は唇だけの可愛いキスじゃなく、舌を絡めた大人のキス。


 みゆうは拒むことなく受け入れてくれる。そこから数十分の間、僕らは何度も何度もお互いの舌を絡めあって、お互いの熱を感じあった。


 しばらくして、落ち着いた僕らが時間を見ると午前三時。今日も仕事をあることを考え、彼女を送っていく。


「ごめんね、会ってくれてありがとう」

「ううん、会えて嬉しかった」


 彼女はそのまま車を降りて自宅へと歩いて行く。

 熱く火照る自身の体や、感情をなんとか抑えつけて家まで車を走らせた。



 

 きっとこの日が僕らの恋という感情の導火線に火をつけたのだろう。


 今日という火がその導火線の火が最後まで行き着いて、爆発をさせたのだろう。


 昨日あれだけのことがあって、そしてその次の日、僕らは仕事終わり昨日と変わらず会うこととなった。


 きっとここまできたらもう僕らもお互いにお互いのことをそういう相手としてみてたんじゃないだろうか。


 最初こそ、会うような感じではなかったが結果的に会いたいというお互いの感情が一致して昨日と同じように夜遅く僕らは昨日と同じく車に乗ってデートする。


 唯一昨日と違うとすれば、行き先が昨日の駐車場ではなく少しだけ離れたところにある公園ってとこだろうか。


 彼女に行き先を告げないまま、そこまでやってくる。田舎の夜のせいか車なんてほとんど走っていない。


 きっと僕も少なからず期待していた。

 昨日と同じようなことが起こるんじゃないかって。


 車を出て、公園を散歩するけれど本当にみたかったのはきっと公園から見える景色なんかじゃなくて、みゆうの見せるあの表情の方だったんじゃないかって。


 少し公園を回った僕らは、すぐに車に戻る。


 助手席と、運転席の間の肘掛け越しに手を握る。

 昨日と同じように目があった。


 もう昨日のような躊躇なんてなくただ一心に彼女の唇を奪った。自分の欲望のまま、彼女の欲望のまま舌を絡めあった。


 そして、ひとしきり堪能した彼女は、その潤んだ瞳で僕をみて。


「抱きしめて欲しい」


 そう言った。

 流石に運転席と助手席では無理だということもあって、後部座席に映ることを提案する。


 一瞬だけ外に出たせいか、まだ寒い夜の風で頭が冷やされる。

 ただ、車内に入って彼女を抱きしめた瞬間、冷静だった僕の頭の中は彼女を独り占めしたいって気持ちで満たされていた。


 抱きしめて、唇を奪う。


 もう止まることができない。このままいったら僕は本当に取り返しのつかないところまで行ってしまう。だから残っている最後の理性で彼女に言った。


「これ以上したら、みゆうのこと犯しちゃうかもしれない」

「……犯してっ」


 冗談なんかで言ったつもりはないけれど、彼女の瞳も冗談を言っているようなそんな感じじゃない。

 艶かしい彼女の表情や、息遣い、そんなものを感じてしまってもう止まることをやめた。


 

 彼女と僕の間に何があったかは想像に任せるけれど、きっとその想像通りのことが起こった。


 そのまま僕は彼女を家に招いて、彼女と共に夜を明かす。


 しばらく感じなかった隣に好きな人がいるという感覚に居心地の良さを覚えたと同時に、その居心地の良さを手放したくないという気持ちが増していた。


 彼女を僕のものにしたい。

 小倉みゆうという女の子を、僕の彼女にしたい。


 その気持ちはもう抑えきれるようなものじゃなかった。


 彼女が恋人じゃない未来を考えるのが苦だと感じるくらい僕はもう、彼女のことが堪らなく好きだった。


 だから純粋に伝えようと思った。

 だけど、まだそれができるような状態じゃない。それだけはわかる。

 勢いのまま彼女にそれを伝えてもきっと彼女の心は定まらないのがわかっていた。


「近いうちに、話はしようと思ってる」

「そっか」


 意外なことに彼女の方からそれを切り出してくれる。


 近いうちというのが一ヶ月なのか、数ヶ月なのか、それはわからなかったけれど彼女がそこまでもう舵を切ってくれるという気持ちが素直に嬉しかった。だから僕は待つことをいとわなかった。


 

 ただ、その彼女の行動は思いの他早かった。


 平日後半全部を二人で過ごした僕らは、週末一緒になって都市の方まで行くこととなった。


 そこでは今回の間に答えを出すと言ったようなことはなかったし、なんなら行きだけ一緒に行くというような感じもあって特に期待もしていなかった。


 ただ、普段よりも着飾った彼女の隣で一緒に都市まで行くというデートはとても気分が高揚したし、普段とは違う香水の香りもまた僕の気分をあげた。


 一緒にここまでやってきた僕は、正直複雑な思いを抱えたまま彼女のことを降ろす。


「ありがとね。気をつけるんだよ」

「はーい」


 口では軽快に見せたもののやはり、すでに独占したい気持ちでいっぱいの彼女を彼氏の元へ送り出すというのは複雑だった。

 ただ、それでも正直な話僕がそんな気持ちを抱けるような存在ではない。そう自分

を戒めて車を走らせる。


 彼女が隣にいないこの都会に楽しみを感じなかったものの少しの期待を抱いて一日を過ごす。


 もしかしたら彼女と一緒になってまた帰れるかもしれない。

 そんな僕の淡い期待に答えてくれたのは彼女と離れてから数時間が経った夜だった。


 彼女の方から、僕の明日のスケジュールのようなものを訪ねてきた。

 絶対にこのチャンスを逃しちゃいけないという気持ちで彼女と時間を調整する。彼女も納得してくれたのかそれで決まり、僕は行きだけでなく帰りも彼女と一緒に過ごすことができることとなった。

  


 翌日、帰る支度を終えた僕は彼女を迎えに行く。

 人混みに紛れる大きな駅の中でも彼女のことをすぐに見つけることができた。


「ごめん、待たせた」

「ううん、きてくれてありがとう」


 車で駅まで迎えにきたわけではないのは、この普段僕らが見ている景色ではない街を車で走り抜けるんじゃ面白くないと思ってしまったからだ。

 二人で一緒の景色を見ながら少しでもこの街を楽しみたい。そういった下心からだ。


 それを知ってか知らずか、彼女は僕の手を取って僕が駐車した駅までの時間このなんとも言えない不思議な時間を二人で眺めていた。

 駅までつくと僕と彼女は車に乗り込み走り出す。


「お知らせがあります」


 そう僕に告げたのはみゆうだ。


「ん? どうした?」

「ちゃんと話をしてきました。それで、円満に別れることができました」

「そっか」


 顔にも態度にも出せなかったけれど、今回彼女が決断を下すことはないと思っていたこともあって驚きやようやく僕らがスタートを切ることができるといった気持ちで溢れていたけど、それを表に出すのは恥ずかしこともあってなんとかクールにやり切れたと思う。


 

 自分たちの過ごす町で半分くらいまできたところだろうか、少しだけ寝ていた彼女が目を覚ましてから少しした頃。


「ゆうきのこと、好きだよ」


 唐突な好きに驚いたけどすぐに僕も、


「みゆうのことが好き」


 そう返す。


「ううん、ゆうきよりもみゆうのほうが好きだって思ってる」

「なんでさ」

「だって、私のどこが好きだとか、そういったこと一回も言ってくれたことない」

「そっか」


 別に隠していたわけでもない。


 好きな場所がないとかそういうわけでもない。


 ただ、僕が彼女の好きなところを答えてもいいような存在になれていると思っていなかったから、答えずにいた。ただそれだけだった。


「僕はさ、みゆうの笑ったところが好きだし。なにより僕のことを優しく名前で呼んでくれるその声も好き。自分とは違う考えを持っているところも、感心させられるって思ってる。何よりもみゆうが一緒にいて楽しそうにしてくれる、そんな姿が好きなんだよ」


 多分、僕にとってみゆうって存在はそんな言葉じゃいい表せないほどに好きを持っている。だけどそれを語るにはその状況があまりにも急でそれしか言えなかった。


 それでも、みゆうはそれに満足してくれたのか、すごく嬉しそうに頬を染めて、甘さを多分に含んだ声音で「えへへ〜幸せだな」と呟いた。


 そんな姿が死ぬほど好きなんだよって言いそうになった。


 

 一週間ほどが経ち、僕とみゆうの関係はそれから特に変化はなかった。

 恋人になったわけでもなく、友達に戻ったわけでもない。


 なのに親密な関係も変わっていない。


 それでもあと一歩が踏み出せなかった。

 だけど、その何もない関係に起きたのは、僕らの記念日となったその日の出来事なのだろう。


 

 きっかけは今となっては思い出せないけれど、美憂の感情に大きな変化が起こったのは覚えている。


 小さなことがきっかけだったのだろうけれど、こんなことになるなんて全く思わなかった。


「もうやだ、嫌い嫌い、ゆうきのことなんて好きにならない」


 正直、この急激な気持ちの変化になんて答えていいのかがわからない。


 もちろん自分が悪いところだってあるのかもしれない。

 だけど、それ以上に、さっきまで積み上げてきた二人の気持ちとか、関係とか、それらのものが一瞬にして壊れてしまう。それにとても恐怖を抱いた。


 これがもし、僕が彼氏であったならどんなことをしてでも彼女のことを引き止めなければいけないと思う。


 だけど今の僕は彼女にとってなんなんだ。

 好きな人? それともただの後輩? それとも……ただの他人?


 目の前で泣いている彼女にどういう言葉をかけていいのかがわからない。

 でも、じゃあだからといって彼女の今の気持ちが本当の気持ちかもわからない。なら、このまま彼女のいう通り好きにならないのだとしても、嫌われるかもしれないにしろ。


 自分の言葉で自分の気持ちを彼女に伝えないでこのまま離れたりしたら一生後悔する。

 それだけは間違い無く言えることだろう。

 ならば僕が伝えるべき言葉はただ一つ。


「僕は美憂のことが好き」

「いや、みゆうはきらい」

「それでも僕はみゆうと恋人になりたいって思ってるっ!」


 僕の真っ正面からの気持ちを受けてもなお、彼女は意見を変えなかった。

 それでも僕は思いの限り彼女を抱きしめる。


「美憂のことなんか好きじゃない」

「そんなわけない! 好きに決まってるんじゃん」


 これでも通じなければ正直もうどうすればいいのかわからなくなって居たが少しだけ響いてくれたようで彼女の動きが少しだけ収まる。

 だから僕は、惨めだし情けないけれど、ブサイクな言葉で飾らない僕なりの彼女への気持ちを、思いの丈をぶつける。


「僕のお姫様になって欲しい」


 後から冷静に思えばなんでこの告白だったんだろうって思うけれどそれでもそれが僕にできる精一杯だった。


 言葉を装飾して、おしゃれにしてきた僕の飾らない泥臭い言葉は多分すごいダサかったと思う。


 だけどその泥臭さがみゆうに刺さったんだろうか、僕の言葉に耳を向けてくれた。


「みゆう、お姫様になりたいって思ってた」


 世界中探したってこんな告白をしたのは僕くらいなものなんじゃないかって思うけれど、世界にひとつだけの僕だけの告白は、僕が伝えたい人にしっかりと届いてくれたようだ。


「僕がずっとみゆうを守るから、僕のお姫様になってください」

「みゆうでいいの?」

「ずっといってる。みゆうがいいの」

「うれしい」


 今度は先ほどまでとはきっと違う意味合いの涙が彼女の瞳から流れ落ちた。

 きっとそれは張りつめて居た彼女の心を溶かした温かみのある涙なんだと思う。そうであってほしい。


「これからは僕の彼女としてよろしくお願いします」

「うん、うんっ……」


 涙はしばらく止まらなかったけれど、それでもこれまで曖昧だった僕らにようやくちゃんと名前がついた。

 先輩後輩、他人、そんなのはもうおしまい。

 これからは、僕の一番大切なその名を彼女にあげたい。


 "彼女"、それが僕に取ってのみゆうを表す言葉となった。

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僕と彼女が出会い、恋をしたお話。 音ノ葉奏 @otonoha6829

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