株式会社世界征服へようこそ!

佐野

#1 ハルさんと世界征服

 慣れないハイヒールに四苦八苦しながら明日香はひたすらに走っていた。手に持ったスマホで地図アプリと同時に右上に表示された時刻を確認する。

 あと5分。

「もうこれだから都会はぁー!」

愚痴ってもしょうがないのはわかっているけれど、疲労と焦りから言葉が口から勝手に漏れ出す。

 今日は高校の先生から紹介された企業、株式会社世界旅行の面接。小林ビルとやらに事務所が入っている旅行会社。

 らしいのだが、電車で何駅も進んでやってきたこの場所にはビルが乱立していて、どこにあるのかさっぱりわからない。時間には余裕を持ってきたはずなのにいつの間にか遅刻ギリギリだ。

「このへんのはず・・・」

地図アプリが表す現在地と目的地はほぼ重なっている。しかし立ち並ぶビルにはそもそも名前が書いておらず、どれが小林ビルかわからない。

「ねえちゃん迷子?」

不意に後ろから声がした。

 振り向くとスーツを着たショートカットの女性がタバコをくわえていた。その高い身長と風貌から明日香は一瞬怖い人だと思ったが、そんなことも言ってられない。

「あ、あの、小林ビルっていうのを探してて、あの、就職活動で・・・」

「そこ」

女性は目の前のビルを指差す。

「あ、ありがとうございます!」

「ええよ、うちのビルやし」

うちの?

「も、もしかして世界りょ・・・」

明日香の後ろをサイレンを鳴らした救急車が猛スピードで走り抜けた。

「・・・こうの方ですか?」

「あーそうそう。たぶん」

「私、今日面接の谷口明日香です!」

「面接」

「はい!」

「へー物好きやな」

「え?」

「まあええわ、いこか」

そういって女性はビルに入った。明日香も慌てて後に続く。

 あ、いけないいけない。スマホの電源は切って、カバンに入れる、だった。

 学校に派遣されたマナー講師に教わったことを、明日香は忠実に守った。


「ここやわ」

女性は二階にあるドアの鍵を開け、入った。明日香もおずおずと続く。

 真ん中に大きなガラスのテーブルがあり、向かい合うようにして左右にソファが置いてある、こじんまりとした部屋だった。右側の壁には世界地図、左側にはホワイトボードがある。奥には窓と事務机が一つ。そして窓の上には習字で大きく『有言実行』と書いてあるものが額に入れられ飾られていた。正直綺麗な字には見えないが、ああいうのを達筆というのだろうか。

「座って」

 女性に右のソファを指差される。明日香は言われた通りソファに座り、カバンを床に置いた。

 女性も明日香の向かいに座り、くわえていたタバコをテーブルの灰皿にさした。


 沈黙。


 女性は何も喋らず、明日香の後ろにある世界地図を凝視している。

 なんだろう、何かやらかしたのかな。やっぱり遅刻はしてないとはいえ時間ギリギリに来たのが非常識だったかな。とりあえず謝ったほうが良いかな。

 明日香の脳内でぐるぐると様々な思考が駆け巡る。

 あ! もしかして!

 明日香はカバンをあさり、履歴書を取り出してテーブルに置いた。昨日下書きから清書まで3時間かけた大作だ。

「あの、お願いします」

「ん? ああ」

女性は出された履歴書を受け取って目を通す。

「志望理由」

「は、はい」

「企業理念に共感しました」

「はい、あの、それはですね」

「おし、採用」

「へ?」

さいよう? さいようって採用? 合格?

「よろしく」

女性は手を差し出してきた。明日香はよくわかっていないままその手を握る。

「ほんなら今日はこれで」

女性は立ち上がり、伸びをする。もともとの背の高さが一層際立った。

「あ、ありがとうございます!」

明日香も立ち上がり、お礼を言って出口へ向かう。

「あ」

ドアノブに手をかけたところで気づいた。

「あの、お姉さんの名前、聞いてなくて」

「あたし?」

女性は少し驚いた様子だった。そんな変なことを聞いただろうか。

「ハル」

「ハルさん……ですか」

下の名前だろうか。てっきり名字を教えてもらえると思っていた。

「名前なんて聞かれたん久々やわ」

ハルが言う。

「そうなんですね……?」

旅行会社の人ってあまり人と関わらないのだろうか。いや、ハルさんはもしかしたら事務の人とかなのかも。

 そんなことを漠然と考えながら、最後に「ありがとうございました」ともう一度言って明日香は部屋を出た。

 よかった。一時はどうなることかと思ったけれど、なんとか就職先は決まった。

 だんだんと嬉しさがこみ上げてくる。心配事もなくなったし、残りの学校生活存分に楽しもう。そうだ! 咲と絵里を誘ってディズニーランドに卒業旅行に行くのはどうだろう?  あれもやりたい、これもやりたい、と妄想を膨らませつつ、うきうきしながら駅へ向かう。

 おっといけない、まずはお母さんとお父さんに報告しないと。

 明日香はそう思ってカバンからスマホを取り出し、電源を入れ直した。

 着信履歴が5件表示されていた。全て「株式会社世界旅行」からだ。しかもさっき面接を受けていた時間。

 何か嫌な予感がした。背中に流れる冷たい汗を感じながら通知の一つをタップする。

 何度かのコール音の後、「はい、こちら世界旅行でございます」と女性の声が返ってきた。明らかにハルの声ではない。

「あ、あの、林田です」

「林田様……」

「あ、今日面接させていただいた……」

「ああ! 少々お待ちください」

保留音のドナドナが5秒ほど流れた後、男性の明らかに不愉快そうな声が聞こえてきた。

「もしもし? 林田さん?」

「はい!」

「何してるの? もう二十分の遅刻だよ!」

「え?」

「えっ、じゃなくて。今日でしょ、面接」

「あの、面接はさっき」

「もしかして迷った? 小林ビルの三階」

三階?

「はぁー。まあ学生さんだし、今日は許してあげるから。何時に来れる?」

「あ、すみません、さっき、あの、ビルには着いたんですが」

「うん?」

「二階に行って、じゃない、伺ってまして」

「二階……?」

「はい」

突然電話口の男性が黙り込む。

「……もしもし」

明日香は遠慮がちに声をかけた。

「もしかして、背の高い女と話した?」

「は、はい。ハルさん……て方と」

「あー……そっか。なんて言われた?」

「採用と言われました……」

そっかそっか。男性は繰り返し、2秒ほど考えてから言った。

「ではそちらの方で採用いただいたということで。今回は弊社へのご応募ありがとうございました」

突然の事務的な対応に明日香は混乱する。

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

「ごめんね、私達もあの人とは関わりたくないんだ。よくわからないけど採用されちゃったみたいだし」

「されちゃったって!」

「頑張ってね。世界征服」

え?

「世界征服って、何言ってるんですか?」

「あー、あの人社名も言ってなかった?」

社名? あの会社は株式会社世界旅行でなくて……。

「株式会社世界征服。君の採用された会社だよ」


 駅に降り立ち、明日香ははぁー、と大きなため息をついた。せっかく就職活動が終わったと思ったのに、まさか翌日同じ場所に行くことになるとは。

 帰ってから母親にビルの階数を間違えて「株式会社世界征服」に採用された、と説明するとまず「なにそれ?」と言われた。当然のリアクションだ。

 父親には「なんだそれは」と言われた。中学生の弟には爆笑された。

 散々「注意力がない」だの「おかしいと思わなかったのか」だの「将来が不安だ」だの言われた後、とにかく内定を辞退しろと言われた。

 明日香にもそれに反論できるだけの材料はなかったので、言われたとおりにしようと思ったのだが問題が一つ。名刺はおろか、連絡先すら聞いていない。知っているのは「ハル」という名前だけ。

 そういうわけで内定を得た翌日に、直接内定辞退を伝えるため、同じ場所へ来る羽目になった。今度は残念ながら迷わず着いてしまった。階段で二階に上がり、ドアの前に立つ。

 明日香は一度深呼吸をした。

 右手を上げ、ノックをしようとした瞬間。

「おお、来とったん」

突然後ろから声がして明日香は飛び上がった。振り返るとハルが立っていた。

「あ、あの、お久しぶりです!」

「会ったん昨日やけどな」

そう言ってハルはドアを開け、「入りや」と明日香に言う。明日香はまたおずおずと中に入った。

 昨日と同じように向かい合って座る。ハルはノートPCを取り出し、何かを打ち込みながら喋り始めた。

「今日なー、渋谷のほうまで行っとってんけど、そこでおもろい話聞いてな」

「あ、はい」

「なんかな、田中自動車ってあるやん」

「はい」

車に大した興味はない明日香でも知っている。自動車メーカーの大手だ。

「あそこボンボンの息子がおるらしいねんけど、めっちゃ女子高生好きやねんて」

「はい……」

突然何の話をされているのか、よくわからないまま明日香は相槌を打つ。

「ほんでさ、明日香はえんこうしたことある?」

えんこう。

円高。

園工。

援交。

「援助交際?」

「そう」

「何言ってるんですか! したことあるわけないでしょ!!!」

突然の意味不明な質問に明日香は大きな声で反論したが、ハルは全く意に介さず、相変わらずノートPCのキーボードを叩き続ける。

「してみる?」

「しません!!! ていうかそうじゃなくて!!!」

「じゃなくて?」

「あの、私、今日は伝えたい事があって」

「何?」

そこでハルは初めて顔を上げた。明日香をじっと見る瞳はかなり大きい。

 きれいだな、と明日香は意識の端で思う。昨日は緊張で気づかなかったが、ハルは美人と呼ばれる部類の整った顔をしていた。

「あの、せっかく採用してもらったんですけど、その、辞退をですね……」

辞退、という単語が出た瞬間にハルの表情が明らかに曇った。それを見て明日香の声も小さくなる。

「実は昨日上の階の世界旅行って会社と間違え」

「困る」

ハルの言葉はストレートだった。

「こ、困るのはわかるんですけど」

「困る」

もう一度同じ言葉を繰り返す。まるで駄々をこねる子供のように。

「いや、あの、株式会社世界征服って何やってる会社かわからないですし」

「世界征服を目指してる」

「世界征服って……」

ハルが左手を伸ばし、窓の上を指差す。明日香がその先を見ると、『有言実行』と書いてある。

「本気や」

ハルが明日香の目をじっと見て言った。

「あんたが必要やねん」

「……でも」

「頼む」

ハルが頭を下げた。両膝に手を付き、今にもおでこが机につきそうなくらいに深く。

 頭では断るべきだとわかっていたが、それでもその迫力に押されてか、それとも大人が頭を下げているという状態にパニックだったのか、明日香は言ってしまった。

「わ、わかりましたよ……」

ハルは頭を上げ、「ありがとう!」と関西弁で言った。まるで少年のように無邪気な笑顔だった。


 ホテルの最上階。

 廊下に多種多様な制服を着た女子高生が十人程度並んでいる。

 その一番右端に明日香は立っていた。

 それを値踏みするように眺めながらニヤニヤと笑う男達。どいつもこいつもピカピカのスーツ、腕時計、ネクタイをしており、一目で金持ちとわかる。

「それでは田中様からお選びください」

一番端にいるサングラスをかけた男が言う。その言葉を受けて男の一人が歩き始めた。

「うーん今日はどの子にしようかなぁー」

田中と呼ばれた男は、ゆっくりと歩きながら女子高生の顔を値踏みするように見ている。

 明日香の2つ隣の女子を見て、1つ隣を見て、そして、田中が明日香の目の前に来た。心臓は早鐘のようだ。

「お?」

ニヤリと笑い、田中は明日香の顎を右手で少し上げる。触れられた部分からまるで毒が広がるような気色悪さを感じた。

「君、いくつ?」

「……十八歳です」

田中はよりいっそう口角を上げた。そしてサングラスの男に「この子だ」と言う。

 サングラスの男は口に片手を当てて、田中に何かを囁いた後、カードキーを差し出した。

「じゃあお楽しみだなぁ」

 腰に手を回され、明日香は不快感から思わずビクリッと反応した。しかしそれを何か勘違いでもしたのか、田中は「いいねぇ」とつぶやきながら廊下の奥へ明日香を連れて行く。

 明日香は田中に連れられて歩きながら、そこに並んだ女子達をちらりと盗み見た。怯えた表情の子、諦めたような顔の子、人それぞれだ。

 あっ、と声が出そうになった。一番端の子の制服がなんと自分と同じものだった。うつむいているが、明日香はすぐに誰かわかった。齊藤京子。クラスメイトだ。

 京子は絵に描いたような真面目な子で、学級委員長も努めている。発言するときはいつも自信を持ってハキハキと喋り、間違っていると思えば大人に対してでも臆することなくつっかかる。

 そんないつもの様子は見る影もなく、今は顔面蒼白で小さく震えていた。

 助けなきゃ。

 咄嗟にそう思ったがしかし何人もの大人の男性がいる場で何かできるわけもなく、明日香は気づかなかったふりをするしかなかった。

「さあ、入って」

 廊下の一番奥、ひときわ豪勢な扉がカードキーによって開かれた。

 とてつもなく広い空間が、間接照明によって照らされていた。見たこともないくらい大きなテレビ、一輪の真っ赤なバラが飾ってあるテーブル、座り心地のよさそうなソファ、そして、天蓋付きの真っ白なベッド。

「どう? いいでしょ?」

田中が得意げに言う。

 もし旅行でこのホテルに泊まっていたならば明日香は声を上げてはしゃいだだろうが、この気持ち悪い男と入ってきた部屋には全く何の感慨も湧かなかった。

 田中が後ろ手でドアを閉める。同時にゆっくりと鍵のかかる音がした。

「さあ、今日は楽しもうね」

腰にあった手が少し下がり、明日香の尻をなでる。明日香は思わず三歩前に逃げ、田中を睨みつけたが、ニヤニヤとした表情は変わらない。

 その顔が直視できず、明日香は田中に背を向けた。

 一度深呼吸する。 

 できるだけ平静を保ち、怪しくないように、と意識しながらテーブルに近づいて、胸に差したボールペンをそっと置いた。


 少し前。

「で、今日援交してほしいんやんか」

明日香が(押し切られて)採用を受け入れ、ハルが礼を言った直後のセリフがこれだ。

「何言ってるんですか。嫌ですよ」

「大丈夫。ほんまにヤれって言ってんちゃうねん。まあヤりたかったらヤってくれてもええねんけど」

「どういうことですか?」

「田中自動車のボンボンの趣味が女子高生とヤるってことやねん。だからな、あんたがスパイになってそこに行く、そんで証拠を取って脅す、金が儲かるって話」

「いや意味がわからないです。世界征服はどこにいったんですか」

「世界征服のために金がいるんよ。それもめちゃくちゃいるから貯金貯めてとかやってられへんやん? あるやつからもろたほうが早い」

「えー……」

それはそうかもしれないけれど、だからといってそんな危険なことはやりたくない。

「第一、証拠ってどうするんですか」

「これや」

ハルは机の上のボールペンを指さした。

「これは極小カメラが入っとる」

明日香はボールペンを手に取り、じっと見てみた。ポケットに引っ掛けるためのクリップになっている部分に、小さな穴が空いている。

「なるほど。これで記録して襲われそうになったところで助けてくれると」

「そうそう」

「ちなみにどうやって助けに来てくれるんですか? 部屋に鍵かかってるかもしれないですよ?」

「それはもう窓からガシャーンよ。屋上からロープ吊るしてな。かっこええやろ」

「よくないです」

明日香がバッサリ否定するとハルは頬をふくらませた。先程は美人だなと思ったが、こうなるとまるで小さい女の子のようで可愛い。

「なんでなん? なんか007みたいでテンション上がらへん?」

「いや、それで万が一助けられなかったら私の純潔がなくなっちゃうわけですよね」

「絶対助けるって」

「いやいや、ほとんど初対面なのに信用できないですし」

だいたい今日本当は採用辞退のために来たのに。

「しゃーないなー。ほなあたしがやるかー」

「え?」

「明日香がやってくれへんねやったらもうあたしがやるしかないわー」

ハルははぁーとため息をつきながらソファに寝転がる。

「いや……女子高生が趣味なんじゃないんですか」

「制服着たらいけるって」

「無理でしょ」

「失礼やなーまだ二十代やし」

いや、背も高いし、明らかに大人の女性だろう。

「まああたしの股一つで済むならええわ」

「え、でも、ギリギリのところで証拠で脅すんじゃ」

「どうせやったらヤったほうが確実やん」

 明日香は想像する。ハルが知らない男に抱かれている場面。体を触られ、腰を振られて嬌声を上げるハル。

 全身に鳥肌が立った。

「でもあたしがやってもなー。女連れ込んでましたってだけやし、大して問題にもならんやろな。下手したらどうせ風俗嬢やろで終わるかもしれへん。未成年淫行! ならインパクト大! やけど」

「ほ、ほんとにやるんですか」

「しゃーないわなー明日香がやってくれへんねやったら」

「や、やります!」

しまった。そう思った時にはもう遅かった。

「ほんまに!」「ありがとう!」ハルはすぐに体を起こし、無理やり明日香の手を取って、握手したままぶんぶんと振り回す。

「いや、あの、これは、口が滑ったというか」

「でもやる言うたよな?」

「い、言いましたけど、でも」

ハルが窓の上を再度指差す。『有言実行』。

「あれは……そういう意味ではないのでは」

「もう言うたから。やろな」

 明日香はハルの目を見てわかった。

 ダメだ。もう止まらない。

 明日香は大きなため息をついて、言った。

「絶対助けてくださいよ」

「絶対や」

ハルはそういって小指を差し出す。明日香は後悔しながらそこに自分の小指を絡めた。


「さてさて」

田中はゆっくりとした足取りで近づいてくる。

「私は田中龍之介と言います。今日はたっぷり二人で楽しみたいと思っている。あなたのお名前は?」

「……鈴木花です」

咄嗟に思いついた名前を答える。

「そうかぁ。よろしくねぇ明日香ちゃん」

ドキッとした。名前はバレている。なのにわざと聞いたのだ。気持ち悪い男。

「ところでこれ」

 田中はテーブルの前で立ち止まり、置いていたペンを手に取る。明日香は鼓動が速くなるのを感じるが、出来るだけ動揺を出さないように意識した。

「……あまり触らないでもらえますか。大切なものなので」

「大切であれば今日持ってくるべきではないと思うがねえ」

「置いてください」

「ああ、すまない。わかったよ」

田中はボールペンを両手で持ち、真っ二つに割った。

「うそ……!」

「おおっとすまない。力加減が良くなかった。まあこれくらいならまた買ってあげるよ。たとえカメラの仕込まれた高価なペンでも、私の資産からすれば大したことはない」

 やばいやばいやばい。証拠なんて言ってる場合じゃない。この男には全てお見通しだ。

 ハルさん、ハルさんは見ているだろうか。カメラが壊れた異変に気づいて助けに来てくれるだろうか。

 明日香は窓の方へ走り、分厚いカーテンを開いた。そこにはただただ夜景が広がっているだけで、何も明日香の助けになりそうなものは見当たらなかった。

「はぁっはっはぁ!」

明日香が振り返ると田中が身を捩りながら笑っている。

「お前、本当に窓から助けが来ると思ってたのか」

「な、なんでそれ……」

「売られたんだよ、お前」

頭が真っ白になった。言葉は聞こえているのに何を言われているかわからない。

「大丈夫、よくあることだ。若くてバカな女は金になるからなぁ」

「いや……嫌だ……」

「まあ、気にするなよ。これも人生経験だ」

 明日香は扉へと走った。田中の隣を走り抜けた時も、田中は止める素振りすら見せず、ただニヤニヤと笑い続けていた。

 扉に手をかける。開かない。鍵を回すところもない。

「ほんっとバカだなお前。そんなセキュリティガバガバなわけねえだろ」

 田中は明日香に近づき、腕をつかんで引っ張る。明日香は「やめろ!」「離して!」と叫びながら抵抗するが、大人の男の力にはかなわない。

「いいねえ。抵抗するのを無理やりってのがいちばんそそるからな」

 明日香はそのままずるずると引っ張られ、ベッドの上に投げ出された。掴まれていた部分にじんじんと痛みが走る。

 田中もベッドに飛び乗り、明日香の上に馬乗りになった。明日香の顔を手で抑え、顔を近づけてくる。明日香も必死に抵抗しようとするが、両腕は膝で抑えられて動けない。

「やめ……助けて!」

男の唇が、明日香の唇に触れそうになる。

「ハルさん!!!」

 刹那、田中は突然2m向こうへと転がりながら吹っ飛んだ。田中のいたところには真っ黒な革靴、いや、長い脚。

「ハルさん……?」

 突然現れたハルは明日香に何も答えず、ベッド際のデジタル時計を持って田中の方へ近づいていった。

 田中は鼻を押さえながらなにやら喚いている。ハルは田中の目の前で立ち止まる。

「こんばんはぁ」

「誰だお前……! どうやって……!」

「ずっとベッドの下隠れとっからもう足つるかと思ったわ」

「なにしに来やがった!」

「カメラってペン型だけちゃうねんなぁ。JKに夢中で気づかんかったかもしれんけど、田中自動車の御曹司、未成年淫行の決定的瞬間! こいつにバッチリ撮れとるわ」

ハルは時計をコンコンと叩いて見せる。

「で、警察か週刊誌かYouTubeどれがええ?」

「ふざけるな! 俺を誰だとお」

ハルは田中の鼻をかかとで思い切り踏みつけた。「あぁー!」と田中が情けない悲鳴をあげる。

「今こっちが聞いとんねん」

かかとをグリグリと動かしながら、ハルは不快感を顕にして言う。

「まあええわ。とりあえず金。いくら出せるん」

「わがっだ! 足をどげろ!」

ハルは渋々といった感じで田中の顔から足をどける。田中はよろめきながら立ち上がった。鼻からぼたぼたと血が流れている。

「お前……俺にこんなことしてただで済むと思っているのか!」

「いやそういうくだりいらんねん。めんどくさいからはよ金額言うてや」

「け、警察だって、週刊誌の記者どもだってなぁ、どうとでもなるんだよこっちは!!」

「YouTubeはどうにもならへんねんな」

「誰がお前みたいなゴミクズに金を払うか!」

「ほな死のか」

 明日香は思わず「ひっ」と声を上げた。ハルが懐から取り出し、田中に向けたのは紛れもなく拳銃だった。

「な、なんだお前、そんなレプリカで」

 銃声が響く。田中の足元数センチの部分から、煙が立っていた。

 田中は後ろに倒れて尻もちをついた。

「いくら」

ハルが銃を向けたまま田中に聞く。明日香が今まで聞いたことのない、とてつもなく冷たい声だった。

「ご、五億なら用意できます」

「明日までな」

「はい」

田中が答えた直後にハルは拳銃で田中の側頭部を殴りつけた。田中は殴られたままに倒れ込み、動かなくなる。

 ハルが田中のポケットを探って、カードキーを取り出し、明日香の方を振り返った。

「行こかー」

コンビニへ、と続いても違和感のないくらい軽い言葉だった。

「あ」

「あ?」

「ありがとうございます……」

明日香はベッドにへたりこんだまま、なんとかその言葉を絞り出した。


 廊下に出ると先程まで並んでいた女子も、男たちもいなくなっていた。

「なんで窓から助けに来るとか言ったんですか」

歩きながら明日香はハルに質問した。

「そんなんほんまのこと言うたらそっちばっか見てまうやん。バレるし」

「それは」

そうですけど。明日香は不満げにつぶやいた。

「部屋にはどうやって忍び込んだんですか」

「ホテルの支配人さんを説得」

 説得かぁ……。明日香はハルの胸のあたり、先程物騒なものを取り出したところをちらりと見る。穏便な説得だったならいいのだけれど。

「ところでなんで10人くらいいる中で私が選ばれるってわかったんですか? ていうか他の人が選ばれてたら部屋が違うから、ハルさん助けに来れなかったですよね」

「あの男な、昔あんたの高校の近くのとこ通っててん」

「はぁ」

「やからさ、いつもあんたのとこの制服着た女の子、すれ違って見てたわけやん。やからこう、思い出補正的なやつで選ばれるかなーおもて」

「……雑じゃないですか?」

「そんなことあらへんよ現に選ばれたやん」

「そうですけど……」

こっちは強姦されるところだったのだ。失敗していたら笑い話では済まされない。

「いや実は危なかってんけどな。あんたんところの子なんか直前にもう一人入っててな、そっち選ばれたらどうしよーと思っててんけど」

「あ」

 思い出した。

 京子。うちの学級委員長がここにいた。

「は、ハルさん! もう一人、知り合いの子がいるんです! 助けてくれませんか!」

「え、あの子知り合いやったん?」

「そうです! 他の男に襲われてるかも!」

「はぁー、まあ明日香が言うなら助けてやらんこともないけどなぁ」

「急ぎましょう!」

「けどさ」

「はい?」

「どうやって探すん」

「え」

廊下の壁には扉、扉、扉。どの部屋に京子が入ったのか、全くわからない。

「の、ノックします!?」

「一部屋ずつ? ていうかノックされて出る?」

「な、なんとかなりませんか!?」

「あんたの友達やろー自分で考えや」

「そんなこと言わずに!」

 瞬間、ハルの後方にある赤い光が明日香の目に入った。薄暗い廊下の中で不釣り合いに輝く赤いランプ。その下にはボタン。『火災時以外、絶対に押さないでください』と書かれたラベル。

 迷いはなかった。明日香は右手を伸ばし、ボタンを思い切り押した。

 ホテルに轟音が鳴り響き、人々が部屋から次々と出てきた。

 あれだ。

 右側2番目の扉から、シャツがはだけた京子が身を乗り出していた。

 明日香は京子の手を取り、走る。京子はわけもわからず裸足のままで引っ張られ、ハルがその後ろから着いてきた。後ろから「無茶すんなー自分」と楽しそうな声が聞こえる。

 非常用と書かれた扉を開け、階段を何段も何段も、永遠と思えるほど長く、ひたすらに駆け下りた。


 1階の踊り場にたどり着いた頃には明日香も京子も肩で息をしていた。ハルだけが余裕の表情だ。

「京子ちゃん大丈夫!? 怪我とかしてない?」

京子は答えない。うつむいたままだ。

「怖かったよね。とりあえずもう大丈夫だから。あ、シャツのボタン外れてるよ!」

「あんた、助けたつもりなの?」

京子が低い声で明日香に言った。ハルが「ひゅー」と茶化すようにつぶやく。

「邪魔しないで欲しかった」

「邪魔って……」

「お金、いるの」

京子が絞り出すように言う。

「大学、行きたいけど、うちお金、ないって、お父さんの会社、潰れかけで……。わ、私の処女、売ったらお金、手に入るからって……」

京子が顔に手を当てて泣き出した。

「で、でも。あんた、あんたのせいで、お金、もらえない! どうしてくれるの! 私どうしたらいいの!!」

「で、でも」

「でもって何よ!! あんたがお金払ってくれるの!?」

明日香はハルの方を見た。あわよくば、ハルが「悪かった、今日は儲かったからお金を分けてあげるわ」なんて言ってくれるかも、と思いながら。

 ハルは明日香の視線に気づいて、言った。

「こいつ殴ってええ?」

 明日香は一瞬何を言われたかわからなかった。京子も先程まで泣いていたのが嘘のように、驚いてハルを見ている。

「お前が体売ろうとしたところな、不思議と女の子全員行方不明になんねん」

「え……」

「知らんかったんやろけど、まあ向こうからしたらそんなん関係ないわな。それをこの明日香ちゃんが体張って助けてくれたわけやなー。ほんで、お前はお礼もなし?」

「ほ、ほんとに?」

京子が明日香に聞く。が、明日香もそんな話は全く聞いていない。

「あたし礼言わんやつ嫌いやねんやんか。せやから殴ってええ?」

「だ、だめです!」

明日香は京子とハルの間に手を広げて立ちふさがった。先程の田中の様子を見るに、ハルに殴られたらきっとただでは済まない。

「ありがとう」

後ろから京子の声がした。

「ごめんなさい」

とてもか細い声だった。


 まさか三日連続でここに来るとは。

 そう思いながらもう見慣れた事務所の扉をノックすると、「はいはいー」という少しめんどくさそうな声が中から聞こえ、ドアが開かれた。

「お、どうしたん? 学校サボった?」

「もうとっくに終わってますよ……」

「まあはいりいや」

 いつもの通り、ハルと向かい合って座る。ハルはいつも通り、こちらを見ずにノートPCを触っている。

「京子のお父さんの会社なんですけど、昨日突然銀行が融資してくれたって京子が言ってました」

「へー」

そっけない返事。

「もしかして、ハルさんがなにかしてくれました?」

「してへん」

相変わらずノートPCから視線を離さずにハルは答える。

「で、ですよね」

「あ、そんなことより。昨日の給料渡すん忘れてたわ」

 そう言ってハルは胸ポケットから封筒を取り出し、明日香に手渡した。

 明日香はその厚さと重さに心臓が止まるかと思った。ハルの様子を伺いながら(視線はまたノートPCに移っていた)ちらりと中を見ると、万札の束だ。

「ごめんなー少なくて」

「すくなくて……?」

「次はもうちょい渡せると思うから」

「もうちょい……?」

「まあそれ持って帰ってうまいもんでも食って」

持って帰る? これを? 今から? これを持って? 電車に乗って? 歩いて?

「あのー、銀行振り込みとかにはならないんですかね……」

「えー。銀行嫌いやねん」

「……そうですか」

明日香は封筒をカバンの底の奥底にしまい、できる限り色々なものを上に載せた。

「ところであの、昨日の話って本当なんですか?」

「昨日のって?」

「あそこに集められた女の子全員行方不明って話です」

「ああ、ほんまほんま」

 明日香はグッと奥歯を噛みしめる。昨日ホテルの廊下に並んでいた子たちの顔を思い出す。

 おそらく同級生か、もしかしたら年下もいたのかもしれない。あの子達は今頃、どんなひどい目にあっているだろうか。いや、もしかしたらもう。

「京子は助かりましたけど、他の人は、だめだったんですかね」

「せやなぁ」

「あの日、他の人達も助けておくべきでしたよね」

「それはいうてもしゃあないやろ」

明日香は答えられなかった。確かにそうだ、という気持ちと、それでも、という気持ちが明日香の中で混ざり合う。

 ハルは視線を上げて、明日香をじっと見た。

「全員は助けられへん。もし、仮にあの日全員助けられたとしても、他の場所でも同じようなことがごまんとある」

「……そうですよね」

けれど、明日香はあの日見た光景を忘れられそうにない。

「やから世界征服すんねん」

「……はい?」

明日香の声は聞き逃されたのか、それとも無視されたのか、ハルはその後の言葉を続けず、またノートPCに視線を移してキーボードを叩き続けた。

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