ダンス

「海に行きたい。」

 唐突に彼女は言った。


 ◆


 Tシャツの裾から手を入れ、わき腹を掻きながらリビングへ向かう。

「おはよう。」

 あくびのついでのような挨拶をする。

 彼女は気にする様子もなく、

「おはよう。」

 と微笑みで応える。


 テーブルの上には朝食。

 ごはん、みそ汁、だし巻き卵、小魚の佃煮。

 いつもの朝の光景。


 丁寧な彼女の「いただきます。」を尻目に、みそ汁をすする。


「――聞いてる?」

「ああ、ごめん。まだ、頭が回んなくてさ。」

「もう。

 でね、今度の、私の実家への挨拶なんだけどさ――」


 カーテン越しの朝の光に包まれた、彼女の顔を見つめる。


(もうそんなに経つか。)

 彼女と同棲を始めて、1年半が経とうとしていた。

(付き合い始めてからは、3年くらいだっけか。)

 彼女との間にあった出来事を、取り留めなく思い出す。


「もう。」

 気が付くと、彼女はふくれっ面をしていた。


 ◆


 朝食を食べ終え、ソファーにだらしなく寝ころび、なんとなくスマホを触る。


 カウンター越しのキッチンで下げた食器を洗う彼女が唐突に言う。

「海に行きたい。」

「ん、海?」

「そう、海が見たいの。どこまでも広がる水平線が見たい。」

 水を流す音で、彼女の気持ちが読めない。


「でもさ、今から行ったら昼過ぎに着いて、帰ってきたらもう夜だ。

 それだけで一日が終わっちゃう。」

「そんな休みの日も、たまにはいいでしょ?」

 手を拭いながら、いたずらな笑みを浮かべていた。


 ◆


 その日、みんなが海を見たいと思ったかは分からないが、道は混んでいて、車はたびたび足止めを食らう。

 そのせいで、海に着いたのは、もう夕方に近い時間だった。


 着いたとき青かった空は、時間が過ぎるとともに、淡いオレンジに変わっていく。


 夕日が沈む。オレンジに滲む白を境に、深い紺色の空が頭上に広がる。

 くっきりと影の部分がわかれた重い雲が、風に流されていく。

 誰もいない砂浜の向こうには、とろけるような半熟の太陽をのせた緩く広がる水平線。


 そこで彼女はダンスを踊っている。

 手を広げ、残った夕暮れを纏い、ゆるく白いワンピースをなびかせて踊る。

 目を閉じて、楽しそうに、すべてを慈しむように。


 少し離れた上から見守る僕は、温かさと同時に、どうしようもない寂しさを感る。

 なぜだろう。

 このまま彼女が今日と共に夜の向こうへ行ってしまいそうな気がして、悲しくなる。


 離れた彼女は僕に向かって、何か伝えてるようだ。

 でも、風の音でよく聞き取れない。


 ただ僕は、そんな悲しみを抑えこむよう、彼女に微笑む。


 ◆


「ねえ。」


 自分への通信で、今、に戻る。


「どうしたの?寝てた?」


 少し間をあけ、ため息をつくように、

「まさか。」

 と答え、鈍い光沢を持つ自分の腕を見る。

「睡眠をとる必要がないだろ?」


「そうね。」

 相手は、少しおどけた調子だ。


「ときどき思い出す光景があるんだ。誰かの意識の断片かもしれないけど。

 夢ってやつかもしれない。」


「ふーん、夢、ねえ。

 嫌なら、一度クリーンしてみたら?」


「そうだな。」

 気のない答えを返す。


 おそらく消すことはないだろう。

 この夢は大切な気がする。

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【短編集】 カタハラ @katahara

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