【短編集】

カタハラ

ブルシット

 ボールペンの先から紙の微小な凹凸が伝わってくる。その不快感に我慢しながら、目の前の報告書を塗りつぶしていく。

 深夜。

 先輩は、持ち上げるにも苦労しそうなパソコンに、虚ろな目を向け何かを入力している。

 そんな背中に向かって、僕の口から仕事への不平不満が、BGMのように流れていた。

「今どき書類を手書きで作成をさせる会社なんて他にあります? 意味わかんないですよ。手の筋トレの意味なんですかね?」

「さあ」

 先輩はそんなBGMを気にすることなく、キーボードを打つ。僕自身も、先輩が聞いているかなんて、どうでもよかった。ただ目の前にリスナーが一人いればそれでよかったのだ。


「ほんとあの社長、なにも考えてないんだ。時代に則した生産性とか。その余暇から生まれる独自性とか。自分のやってきた経験がすべてで、いつまでもその成功体験から離れられないんですよ。すでに陳腐化した考えを捨てることができないんですよ。ホント馬鹿だ――」

 先輩がデスクを強く叩く。

「ちくしょう! また固まった」

 「クソッ」と呟き、やけ気味に腕まくりした手をシャツの胸ポケットに伸ばしながら窓へと向かう。

 引っ掛かりながら横に開けると、雨上がりの嫌な湿気を帯びた熱気が流れ込んでくる。窓の外には雑居ビルの薄汚れた壁。

 先輩から立ち昇る灰色のぼやけた靄を見るともなく追う。

「タバコ、いい加減バレますよ」

 できるだけ平坦な口調を心掛ける。

 反応はない。背中越しに吐き出された煙が上がるのが見える。


 部屋の壁紙には傷が目立ち、黄ばんで隅の方は力なく剥がれている。

 壁の前に並べられたグレーのスチールラック。その中に無秩序な資料が並ぶ。凸凹な列。間に端を発した将棋倒し。その周りに帰る場所のわからなくなった死屍累々。

 部屋を見渡せる奥の位置に社長のデスクがあり、残りはグループで固めて、狭い室内を圧迫するように目一杯置かれている。

 乱雑さが空気に蔓延し、その底に泥のような疲労感が沈殿しているようだ。


「先輩、暑いんで窓閉めてもらっていいですか。あと、タバコ、身体に悪いですよ」

「……」

「先輩。聞こえてるんですか、先輩」

「うるせえなあ!」

 振り返り、床に短くなったタバコを叩きつけ声を荒げる。

「お前いい加減にしろよ! やることないなら早く帰れよ!」


 僕はそんな怒声に動揺することなく、冷静に対応する。

「報告書、書いてます。あと床、焦げますよ」

 その態度に毒気を抜かれたのか、先輩は舌打ちをしながら吸い殻を拾い、外へ投げ捨て乱暴に窓を閉めた。


(ちょっとやりすぎたか)

 機敏に先輩から不完全燃焼の苛立ちを察知した僕は思う。場が落ち着くまで少し時間を置く必要がありそうだ。

 パソコンが復旧したのか、先輩は入力を再開している。

「トイレ行ってきます。」

 そんな背中に向かって不必要な申告を行い、席を立つ。

 ただその横顔から(帰れ)という気持ちが手に取るようにわかった。


 ◆


 タイル、コンクリート、和式の個室が二つ並ぶ、冷ややかな便所に、天井の換気の音が響く。

 用を足しながら溜め息を吐く。部屋を離れ一人冷静になると、何やってるんだろうという虚しさが自然と込み上げてくる。

 すりガラスの付いたドアの丸いノブが音を立てて回り、ドアが豪快に開けられると、男が意味を持たないであろう声を発しながら入って来た。

「はああ――」

 少し色の抜けた髪と、ペンが飛び出た胸ポケット、ネクタイの先端がその脇に突っ込まれている。

(見慣れない顔だ)

 同じ階の別会社の人は大抵見たことがあった。

 小便器の前に立つ僕と目が合うと、驚いた表情を浮かべ恥ずかしそうに、

「すみません」

 と頭を掻いた。

 僕は「いえ」と小さく返答し、また視線を戻す。

 その男は話を続けた。

「いやー。うちのフロアのトイレが故障してまして」

 (なんの言い訳だ)と思いつつも、相槌を打つ。

「そうなんですか」

「こんな時間まで仕事なんて大変ですね。」

 僕はチャックを閉め、手洗いへ向かう。

「お互い様じゃないですか。そちらも、まだ終わらないんですか?」

 蛇口をひねる。

「トラブって今戻ったところなんですよ! ホント嫌になる」

 水の音に負けないよう、少し音量を上げる。

「それは大変ですね――」

 会話を打ち切ろうとする言葉を遮って男は言った。

「それとして、知ってます?」

「……何ですか?」

「この間、事件があったの」

「このビルでですか? 知りません」

「地下で遺体が見つかったらしいんですよ。物騒ですよね」

 淡々とした声。ドアの前からでは男の表情が見えない。

 蛍光灯が男の前屈みの背中を照らしている。

「気になりません?」


 ◆


 階段の底から、小さな咳のような、鼻が痒くて鳴らすような、微かな女の声が聞こえてくる。僕がそれに耳を澄ませていると、

「ヤッてるみたいですね」

 と男は大袈裟な咳払いをした。

 声が止み、代わりに重い金属の扉の閉まる音が響いてくる。

「非常口から出たのかな。コソコソと、ネズミみたいな奴らですよね」

 と笑いながら「うらやましい」と付け足した。


 ビルの汚れて一部の欠けた外壁と、角張ったデザイン。立ち並ぶ中でも一際その古さが目立った。九階建てにも関わらず設備としてエレベーターがなく、曲線的な装飾の手摺と階段を使って上り下りしなければならない。歴史的と言えば口当たりは良いが、僕に言わせれば、ただ時代から取り残されている建築物。

 だが、エントランスに掲げられた白いプラスチック製のネームプレートの列が物語るように、各階最大四つに区切られたテナントのそのほとんどが埋まっていた。


 僕は「見に行きませんか?」という男の誘いに乗った。先輩を落ち着かせるためにも、もう少し時間が必要だろう。

(このビルで死体が見つかったなんて、聞いたことない。コイツ、どういうつもりなんだろう)

 男の話を信じたわけではない。半ば嘘だと思っているが、その目的に興味が湧いたのだ。


 地下一階に着いたが、辺りに変わった様子は微塵も感じられなかった。僕は敢えて苛立ちを滲ませた態度をとる。

「何もないですけど」

「いえいえ。ここじゃなくて、もっと下ですよ」

「下? 地下って一階まででしょう」

 男は、階段下の影にある、白く塗装された防災扉へ視線を送る。

「ここ一見、物置か何かに見えるでしょう? でも地下に続く階段があるんですよ」


 リング状の取っ手を手前に引き重い扉を開くと、蛍光灯の暗がりの奥、下へ向かう階段が見える。

「ねっ」

 僕は急に現れた階段に内心驚いたが、平然を装い男の後に続く。


 先程までの様相とは異なり、壁のコンクリートは粗く、踊り場の頭上にある蛍光灯は暗く、その閉塞感の中を不気味な冷気と静寂が支配している。


「こんな階段あったんですね。どうやって知ったんですか?」

「うちの上司が、たまたま見つけたんです。野暮用で地下一階にいたらしいんですけど、その時に。何もない地下に用事なんて、ロクなもんじゃないでしょうけど」

 男の鼻で笑う音が響く。

「そういえば、この先、事件現場があるのに、立ち入り禁止のテープすら貼られてなかったですね」

「事件現場?」

 後頭部が、とぼけたように傾く。

「あなたが、死体があるって言ったんでしょう」

「ああ……そうでしたね。もう少し先ですよ」


 階段と踊り場が交互に繰り返される。


「実は、死体じゃないんですよ」

「え? なんですか?」

「地下にいるのは、正確にはまだ生きてるんですよ」

「というと?」

「ゾンビです。しかも大勢。己の快楽のため、若い肉体を喰いちぎり、その血を啜る厄介なゾンビどもがね」

「はあ……」

「あれ? 面白くなかったですか?」


 階段を降りる今の僕にとって、男の話はどうでもよかった。


 ◆


 感覚的にはだいぶ降りてきたのに、どこにも着く気配がない。

 僕と男の階段を降りる固い足音だけが周囲に響く。


 暗がりの中、折り返す際の男の顔は見えない。


 一言、男に声を掛ければいいのだが、何と掛ければいいのか分からなくなっていた。

 そんな時、足を止めず唐突に男が問いかける。

「わかってるんでしょう?」

「何をですか?」

 その言葉に不吉な寒気を感じながら聞き返す。


「……見ますか?」

 立ち止まり指さす階下の踊り場には、ぼんやりと窓らしき輪郭がその壁に見える。


 前に立つと、窓ガラスの向こうは見えず、反射した僕の顔と後ろの男がなんとなくわかる。

 横に開けると、広がる中階層からの景色。

 そしてその中央に、うつ伏せで空中に浮かぶ男の姿。

 その男の顔に見覚えがある。

 僕だ。

 空中の僕は真っすぐ、窓を開けたこちらの僕を見ている。

 真っ青で、その恐怖と悲しみと後悔が溢れ出した顔。

 のっぺらぼうに皮膚を無理やり被せたように、歪んでいる。


 思わず窓を閉める。

 とても長く感じた一瞬。焼き付いた僕の顔をした視線が鼓動を速める。

「一体、何なんですか!」

 振り返ると、下にいる男の一部が階段の隙間から見える。

「どうしますか?」

 冷たく少し笑ったような声。

「だから、何を言ってるんですか!」

 こちらの気の動転した質問には何も答えない。

 蛍光灯の羽音が微かに聞こえる。


 暗がりの中に一部の見える、腕を上げるような動作。

「戻るならどうぞ」

 指された先を見上げると、白く塗装された防災扉がある。

 つい先ほど、通ったはずの扉だ。


「ずっと足踏みしているだけでしたね」


 そのにこやかで平淡な声から逃れるように、階段を駆け上がり、焦る手つきで重い扉を押し開けた。

 現れたのは下へと続く階段。

 (室内から出たのに室内)

 心臓を掴まれたような感覚。

 振り返ると、そこはビルの屋上だった。

 僕は、屋上への扉の前に立っていたのだ。


 頭上に夜空が広がる中、恐る恐る手摺に近付き、下を覗く。

 深夜の閑散とした道に、車や、疎らに流れる通行人の頭部が見えるだけで、そこに変わった光景はなかった。


 安堵と同時に、考えが浮かぶ。

(あのまま、男について階段の下へ降りていたら)

 喉が渇き、嫌な汗が伝う。


 僕は階段の方を振り返ることができなかった。

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