第13話「鯉は新鋭へのぼる 了」


 閉場時刻は四時三十分だ。

 どうやらこいのぼり祭りは今日だけらしく、この一日で準備して片づけをしなければならないらしい。そのことを考えれば、日が出ている間の閉場時刻も、開催時間の短さも納得がいく。


 四時三十分。それはこいのぼり祭りだけの終わりを示している時間ではない。

 こいのぼり祭りと並行して密かに開催されている来賓らいひん用の立食パーティの終了時刻も四時三十分だ。


 柊摩しゅうまは満を持してその時を待つ。

 そして四時二十五分。遂にその時が来た。


「お疲れさまです」


 そう言って受付にやってきたのはカーキ色のスーツを身にまとった筑川ちくがわさん、改め筑川教授。

 首から下げた〝来賓〟と記された名札を取ると白波瀬しらはせに渡す。それを受け取りつつ白波瀬は言葉を返した。


「いえ、先生もお気をつけてお帰りください」


 それに対して筑川教授は微笑む。


「ありがとう。それにしても先生ですか。白波瀬さんは菊咲きくさき大学に来てくれるのですか?」


 どうやら、立食パーティで白波瀬の話になったのだろう。

 その優秀さと名前を完全に覚えられている白波瀬は、嬉々ききとして答えた。


「まだ、決めてはないですが、候補として考えています」

「そうですか。白波瀬さんのような学生さんが来てくれるのは大歓迎ですよ」

「ありがとうございます」


 白波瀬と会釈を交わした筑川教授は、次に柊摩の方に視線を向けた。


「貴方のお名前はなんと言うのですか?」

「えっ、はい、しぎ柊摩しゅうまです」

「そうですか。しぎとはどういう字を書くのですか?」

「田んぼの田の横に鳥と書いて鴫です」

「ああ、国字の。珍しいお名前ですね。鴫さんも是非、志望校に菊咲大学のことを考えてくれると嬉しいです」

「いや、俺は。まぁ頑張ります」

「はい。お待ちしています」


 そう言ってこれ以上ないくらい柔らかい眼差しを向ける筑川教授。それから、では、ともう一度軽くお辞儀をする。

 咄嗟とっさに柊摩は呼び止めた。


「あ、あの!」

「はい?」


 ゆっくり振り返って柊摩のことを真っ直ぐ見る筑川教授。

 隣の白波瀬がいぶかしげな眼差しを向けてくるが、柊摩は勢いのまま言った。


「一つ、お聞きしたいことがあるんです」

「構いませんよ。なんですか?」


 柊摩は一つ呼吸の間を置いて、それから。


「本年度菊咲大学の講師に就かれたかもしれない、野崎のざき伸哉のぶちか先生の連絡先をご存じではないでしょうか?」


 唐突なその単語と質問に、白波瀬は、ただ目をしばたたかせた。


 確証がないことはない。それなりの証拠があって柊摩は告げた。果たして筑川教授は。


「……ええ、知っていますけれど」


 不審がってそう答える筑川教授に、柊摩は間を置かず矢継ぎ早に言葉を並べた。


「実は、白波瀬の恩師らしく連絡先を知りたがっていたのですが、今年一重咲中学を離任されたそうで。今日も野崎先生に会いたかったらしいのですが、お越しにならなくて」


 筑川教授はなるほどと一つ首を縦に振った。


「そう言うことですか。それなら私の方から野崎に話をしておきますよ」

「いいんですか!」


 そう歓喜に満ち溢れた声で告げたのは白波瀬。

 若干驚きつつ、筑川教授は笑いながら言った。


「ええ。それで白波瀬さんが菊咲大学に入学する気持ちが高まるというのであればなおのことです。野崎には仮を一つ作ることになってしまいますが」

「ありがとうございます」


 深々と頭を下げた白波瀬に、首を横に振った筑川教授は再度目礼した。


「では」

「はい。ありがとうございます。お気をつけて」


 その声音は大空を泳ぐこいのぼりさながら、快活に清澄にどこまでも響きわたった。




 †††




 来客がいなくなったグラウンドの鯉のぼりは一幅いっぷくの絵画そのものの絶景だった。


 受付の片づけが終われば帰ってくれてもいいよ、とのことだったが、あまりの絶景に写真を撮りまくっていると、柊摩が始めた写真撮影会がきっかけでほぼ全てのスタッフが写真撮影を始めてしまった。

 結果片づけの時間が遅れたので、ちょっと申し訳なく思った柊摩は鯉のぼりの片づけも手伝うことにした。


 その最中。つい先ほどまで空を泳いでいた鯉のぼりをたたみながら、白波瀬が聞いてくる。


「なんで野崎先生が菊咲大学の講師をしてるってわかったの?」


 いつか聞かれるかもしれないなと心構えしていた柊摩だが、このタイミング。やっぱり写真なんて撮らなければよかったなと後悔しつつ、言葉にするため整理する。


 理由はいろいろある。が、重なり過ぎて一から説明するのが面倒だ。

 本来ならその面倒さを忌避きひして適当なことを言うのだろうが、白波瀬はおそらく逃がしてくれないだろう。


「きっかけは、まぁ、角田かどた先生だ。虚言癖きょげんへきって言うと過言だが、あの人が言葉の重みを軽んじている人だってことがわかったから」


 すると白波瀬は、グラウンド中心のやぐらを見やって苦々しく笑った。


 今日一日で、角田先生が実質四つの嘘を付いていることを柊摩は知っている。しかし、それは全て結果的にそうなっただけだ。

 おそらく角田先生は平気で嘘を付くような人ではないのだろう。むしろ逆で、嘘を付くのは嫌いなはずだ。だから言い訳や詭弁きべんを用いる。決して嘘は付かない。けれどそこに事実もない。

 それがわかればあとは逆算していけばいい。


「角田先生は野崎先生が辞めたその理由を知っていた。けれど口にするのははばかられた」

「そうなの! えっそれはどうして?」

「白波瀬に知られたくなかったんじゃないか」


 手を止めて首を傾げる白波瀬に、柊摩は続ける。


「角田先生は野崎先生より年上だろ?」

「うん」

「そして二人は同じ英語教師」

「……あっ、そういうこと」


 白波瀬はひらめいたように言った。けれどその声音は驚愕の先の鬱積に染まっている。


「角田先生は、先に出世した野崎先生に後れを取っていることを知られたくなかった」


 公立の学校の場合は一つの学校の継続勤務年数で転勤が決まるらしいが、私立の学校の場合はそうではない。一つの学校に就いたら、おそらくずっとその学校で教鞭きょうべんをとることになるのだろう。


 けれど、一重咲中学の場合は少し事情が異なる。教員は一重咲ひとえざき中学の職員としてではなく、菊咲学園の社員として就職することになるのだろう。そうなれば、学園が運営する三つの学校であれば転勤もありえる。

 もっとも、優れた成績を収める必要があるのだろうが、上り詰めれば大学教授にさえなれるのだ。


「たぶん角田先生は野崎先生が菊咲大学に転任したことも知っていたんだと思う」


 思い返せば角田先生は、野崎先生が教師を辞めたとは言っていないのだ。中学教師を辞めたと言っていたのだ。

 辞めた理由も連絡先もわからないと言いながら、中学教師を辞めたという限定的なことは口にしていたのだ。


 それが、角田先生の思いとは裏腹に、暗に野崎先生が菊咲大学に転任したことをわからせてしまった。


 白波瀬は忌々しく唾棄だきした。


「それだけのことで知らないふりをするなんて」

「まぁそれだけのこと、ではないんじゃないか。角田先生にとっては」


 言うと、じろりと睨まれた。


「そんなことより良かったじゃないか。これで連絡できる」

「なんか言い包められてる気がするんだけど」


 別に角田先生の肩を持つなんてことはしていない。

 もちろん何度も心遣いをしてもらい、昼食だっておごってもらった、その感謝の気持ちが柊摩にはある。けれど、それが理由ではない。

 強いて言うのなら同情だ。おそらく白波瀬には――。


「でも、ありがと」


 白波瀬は面と向かって言う。あまりに真っ直ぐな眼差しを向けられて柊摩が視線を逸らすと、白波瀬も明後日の方を向いた。


「うん」


 か細い返事を返して、柊摩は止めていた手を再開させる。


 日が次第に傾いていく。あと半時もすれば蒼天そうてんは夕暮れ色に染まり、空を泳いでいた多くの鯉のぼりは泡沫うたかたのものとなるのだろう。

 来年はもっと高い空を泳ぐ鯉のぼりを見たいと、柊摩は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢も希望もないけれど、それでも青く染まってます。 夕闇モトヤ @Yuyami_Motoya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ