第18話 不戦勝(2)

 後日、小成さんに連絡して、しばらく休んでいた施設の仕事を再開することにした。

 前向きに生きると決めて、まずは自分にできる恩返しからやろうと思ったのだ。

 再び清掃係となって何日か経過して、たまたま帰る時間が小成さんと一緒になった。


「ねえ、塚本君。これから二人で食事にでも行かない?」


 そう誘われたので嬉しく思いつつも、当然のように困惑する。


「いいんですか? 俺なんかと二人で食事になんて」


「どうして? 前にも何度か行ったことあるよね?」


「いや、だって、小成さんには付き合っている彼氏さんがいるんじゃ……」


「え、彼氏? ……私に?」


 何を言っているのか理解できないといった風に首を傾げた後で、こちらを安心させるためか表情を和らげる。


「もしかして何か勘違いしてるんじゃないかな。私が付き合ってるだなんて。もしも誰かと仲良くしているのを見たなら、それは仲良くしているだけだよ。今も昔も恋人なんていたことない。だって塚本君、私には恋心なんてないんだから」


「……恋心なんてない? えっと、つまり、誰かを恋愛的な意味で好きになることがないってわけですか?」


「うん、わかりやすく言えばそうだね」


「なるほど……」


 本人が言っているのだからそうなのだろう。そう思って「恋愛感情がない」という彼女の言葉を素直に受け取ろうとして、違和感が強く残った。

 私には、という言葉が強調されたように感じたからだ。


「そっか、そういうことだったんだ。急にそっけなくされちゃったから嫌われちゃったのかと思ってたけど、私が誰かと付き合ってると思って距離を置いてくれてたんだね」


「まあ、それはそうなんですが」


「でも大丈夫。私に恋人なんていないよ。だから食事に行こう? 好きじゃないなら無理してお酒は飲まなくてもいいからさ」


「えっと……」


 どこまで踏み込むべきか考えて、今が一番ふさわしいタイミングであるような気がした。この機会を逃せば、今後ずっと小成さんとの間に明確な一線を引いたまま付き合っていかなければならないように思えた。

 もう情けないだけの不戦勝は捨てると決めたのだ。

 優しくされることだけを願って、いつまでも知らないふりで過ごすわけにもいかない。

 責めるのではなく、馬鹿にするのでもなく、普通のことを提案するように伝える。


「小成さん、もうリンゲちゃんはいいですよ。今までずっと俺なんかの相手をしてくれて、ありがとうございました」


 そう言われるのを覚悟していたのか、ちょっとだけ様子を見ていた小成さんは動揺もせずにうなずいた。


「……さすがにごまかすのは無理そうだね。いつ気づいたのか、聞いてもいい?」


「リンゲちゃんが小成さんの名前を出した時です。俺は単純な人間ですからね、それまではまったく疑いもしませんでした。けど、あれはさすがに気づきますよ」


「やっぱり? でも本気で焦ったんだよ。何もしないでいたら塚本君が死んじゃいそうでさ。どうしようどうしようってすごく悩んで、リスクはあるけど私の名前を出すことにしたんだ。どんなに心配したってリンゲちゃんでは会いに行けないもんね」


「ええ、まあ。正直、すごく居心地がよかったんで騙されたふりは今後もずっと続けたかったんですけど……」


 恨んではいないという気持ちを込めて本当のことを伝えると、小成さんが首を横に振る。


「高校生のころからさ、裏アカウントっていうのかな、ネット上だけに存在する現実の自分とは全く別の人物のふりをしてSNSとかをやるのが好きだったんだよ。老若男女、職業とか人種も色々変えて、特に信条もなくコスプレ感覚で遊んでたの。でも一度すごい炎上を経験しちゃってさ。私につながる個人情報を書き込んでなかったから逃げ切れたけど、さすがに大学生になっても同じことを続けるのはリスクがあると思ったんだ」


 そして彼女が俺のほうを見る。


「で、だったらもっと狭い範囲でなら大丈夫だろうって」


「それが俺ですか」


「うん。女子小学生になりきってさ、自分と同じ年頃の男の人とスマホでやり取りするの。しかも普段から顔を合わせてる男子大学生とね。最初はすごい背徳感があってさ、同じくらい罪悪感もあったんだけど、どんどんやめられなくなってったんだ」


「それは俺のほうこそですよ。いくら小成さんに頼まれたからって、口数の少ない女子小学生とスマホで会話するなんて、最初は苦手なくらいでしたけど」


 なのに、やがて、やめられなくなっていた。

 今にしてわかるのは、それが小成さんだったからだろう。

 どれほど別人を装っていても、小成さんだったから。


「小学生から中学生になって、高校生になって、日に日に私の中のリンゲちゃんは確かなものになって、今ではもう一つの人格として愛着があるんだ。本当は、やめたくないのは私なんだよね。リンゲちゃんは君のことを好きでさ、たぶん大人になったら結婚だって考えてたよ」


 そう語る小成さんはうつむいていて、喜怒哀楽の感情を一つとして感じさせない穏やかな声を出していた。

 まるですべてが遠い世界の出来事であるかのように。

 悪いのはリンゲちゃんや俺ではなく、自分であるかのように。


「小成さん、悪ぶらないでください。俺、なんとなく感じてるんです。リンゲちゃんも小成さんなんです。遊びとかじゃなくて、ちゃんと小成さんなんですよ」


「……やっぱり塚本君だね」


 ふう、と息を吐きだす小成さん。ようやく緊張が解けたように微笑む。


「ごめんね、だますつもりはなかったんだ。いつもと違う私の相手をしてもらって、大学を卒業するくらいのころには別れるつもりだった。なのにね、小学生としての言葉や態度で悩みとか苦しみとかを正直に話せるからかな、大学生として善人の仮面をかぶっていた私よりも存在感が大きくなっていったんだ。私なんかの感情より、リンゲちゃんの感情のほうが大きい時もあったくらいで……」


 そう言いながら胸を抑える。その中にもう一人の自分が眠っているかのように。


「実はさ、小さなころ救われなかった小学生の私が今も心の中にいるの。本当の私は救われて大学生になってさ、同じように悩んでいる子供たちの力になりたいって活動を始めたんだけど、救われずにいる小学生の私がいつも寂しそうにしてたんだ。誰としゃべってても、何をやってても、心の中で成長できずに悩み続けている小学生の私……リンゲちゃんがいたの」


 次第に声が震えてくるのでどうしたのだろうと思っていると、小成さんの目は涙に潤んでいた。


「小成っていう私がどんなに頑張って生きていてもさ、どうしようもないくらいにリンゲちゃんがいるんだよ。理性とか感情、そういった心の根本の部分に本当の自分として彼女が存在しているんじゃないかってくらいに。おかしいかもしれないけどね、今の私、本当に自分が高校生なんじゃないかって感じる時もあるくらいなんだよ。自分の部屋で誰にもばれないで昔の制服を着てさ、女子高生のリンゲちゃんになりきってさ、恋する少女の気持ちで塚本君としゃべってるとさ、すごく幸せだったんだ。大人になっちゃった小成だと素直に恋愛感情を出せないんだよ。それはリンゲちゃんのものだからって。あるいは恋愛感情以外の喜怒哀楽だって全部」


 そこまでを言い終えて、言葉の代わりに涙が一筋流れていた。

 悲しみなのか、寂しさなのか、人間関係が苦手な俺には彼女の中にあるであろう感情の判断ができない。

 だけど、初めて俺には彼女の姿がリンゲちゃんと重なって見えた。

 今までずっと小成さんは強くて思いやりに満ちた行動力に富んだ人だと思っていたから。


「俺、これからは小成さんとちゃんと向き合いたいです。でもそれはリンゲちゃんを否定するってわけじゃなくて、小成さんのリンゲちゃん的な部分というか、そういう、いつも人前で一人前であろうとふるまう小成さんとは違う、臆病で自信のない部分も肯定的に見ながら向き合いたいんです」


「……うん」


「たぶん誰にでもリンゲちゃん的な部分はあると思うんです。別の人格っていうか、隠している現実というか、表現は難しいですけど。それを俺くらいは否定したり攻撃したりしないで、共感して、励ましたり勇気づけたりっていうのとは全然違うかもしれないけれど、寄り添って生きていきたいんです」


 うまく自分の考えが言葉にできたとは思えない。

 一生懸命に、精一杯に、悩める彼女の腕を引っ張りたい気分で語ったつもりではあるけれど、こちらの真剣な気持ちがどこまで伝わっただろうか。

 少し待ってから、目元をぬぐった小成さんが笑顔を浮かべる。


「そうだね。塚本君ならできるよ」


 お世辞であれ、社交辞令であれ、そう言ってもらえるとすべてが認められた気がした。

 今までの関係やこれからの関係が、すべて肯定的に受け入れてもらえた気がする。


「……ね、塚本君のスマホ、今持ってる?」


「はい。持ってますよ」


 答えながらポケットにしまっていたスマホを手に取る。

 それを見て、小成さんは自分のスマホを取り出した。ただし、今まで俺の前で使っていたスマホとは別のスマホだ。

 あれがリンゲちゃんか。

 感慨深く眺めていると、その視線に気づいた小成さんが近くに来て袖をつかんだ。


「ねえ、塚本君、これからもリンゲちゃんを気にかけてあげてよ」


「小成さんがいいなら、俺はいくらでも相手になります。何か月だって何年だって、小成さんがやめたいと思うときまで、いつまでだって大丈夫ですよ」


「うん、ありがとう。そして彼女が大人になったらさ、スマホ越しじゃなくてちゃんと会ってあげてほしいな」


 そう言ってから彼女がスマホに何か文字を打ち込むと、そう時間をおかずに俺のスマホへと通知が来た。

 リンゲちゃんだ。


 ――いいですか? 小成さんは恥ずかしがりだから否定してるだけで、ちゃんと彼女なりの恋心がありますよ。塚本さん、そこのところはわかったうえで生きてくださいね。そういう部分まで奥手だと私が困ります。


 顔を上げてみれば、スマホを胸に抱いた小成さんが照れて苦笑していた。

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不戦勝 一天草莽 @narou_somo

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