第11話
Fの返事がないまま、ビトウィンザシーツが先に運ばれてきた。Fが成人したなら、何を頼むだろう? カシスオレンジってことはないだろうと、乳白色の溶け込んだオレンジ色の液体を喉に運ぶ。うーん、甘くなり過ぎずにいい感じだ。レモンのさっぱりした味がする。こりゃ確かにぐっすり眠れそうなカクテル名と合っているかも。
さて、どうするか。指先をそっとこすり合わせると手のひらが酒で温まってきたのが分かる。店内の騒音に反して、案外リラックスしてきた。
Fは見かけによらず頑固ジジイ並みに頭が固いだろう。柔軟な対応を心掛けるが、芯にはチタンやステンレスの強度を誇る冷徹な意志があるはず。Fが切るべきは、ネット上の交友関係であることは明白なのだろう。ファンなんて、星の数ほどいるのだが、誰もがFを救えない。
Fの救済とは何か。永眠だ。
Fは、星の数ほどいる死にたがりの一人。平成から十四年間連続で年間三万人を超えた自殺者数が、ここ数年でやっと二万一千人まで落ち着いてきた。とはいえ、その中の一人のFを救う方法は何だろうか。自殺で検索すると、健康相談統一ダイヤルが表示される。嫌だな、全く。死にたいけど、相談したくないってのがまるで分かっていない。Fが相談ダイヤルとやらに電話をかけている姿なんか想像できるか?
あいつは、どんな醜悪な死に様を迎えようとも実行しちまうような奴だと思う。そんじょそこらにいる「リストカットしましたー」ってTwitterに傷痕をアップしている病みアカウントの連中と違う。誰にも言わず、作業のように自死してしまうことだろう。
何とか連絡を取らなければ。既読はついたが、無視されているようだ。俺は再び苛々してしまう。落ち着け。たかが、相手は学生だ。一度会ったきりの。俺が自殺を止めることを失敗したとしても世間は俺とFの繋がりを知らない。責任は問われないだろう。いや、それだから悔しい。Fの親父ですら罪に問われないだろうな。Fは親父が帰ってくる前に自分で方を付ける。
おつまみにピーナッツを注文し、んーヤミヤミ、英語的ノリで噛み砕く。あああ、酔ってるのか? Fを救える人間なんて地上に存在しないのは分かっている。さすがに、自分が救世主になれるなどと自惚れてはいない。
店内には最低限でも二人で飲んでいる客が多い。おう、そうか。俺は一人だったな。スマホを握り締めていると、一人だということをつい忘れがちだ。
十五分が過ぎたか、さすがにカクテルも二杯目に入る。カンパリソーダの、ブラッドオレンジのような見た目とは裏腹に感じられる苦味を楽しむ。注文してからカンパリオレンジにすれば良かったかもしれないと、自分の思い切りの悪さを反省する。
俺もリストカットできたらどんなに幸せだろうか。Fに見てくれよーって傷口お披露目ツイートするのか? ふざけている。Fは冗談半分に「ご愁傷様」と言うかもしれない。
カンパリを口に運びつつ、Fの首に縄をかけてみる。
「まず、こうやって椅子を用意するだろ」
酔っぱらいの妄想だ。Fが縊死を選ぶ要因はなんだ? 自殺方法はいくらでもある。線路への飛び込み、練炭自殺、単純にトラックの前に飛び出てみるとか。
死は救いか? Fにとってそうじゃないだろう。救われたくて死にたい奴がほとんどだと思うがFは逃避目的で自殺するとは思えない。
「最後に一矢報いるような奴だろうか?」
口に出してみると、笑えてしまう。Fがスマホを手放し、Twitterから一時離れたのは、現実が忙しいからだ。Fの時間を奪うほどの忙しさ。まさか、父親に復讐? そんな柄じゃない。でも、何かしら肉体労働をしているのだろう。自分の生きた痕跡を消すなり、最後に誰かに別れを告げるなり。
ふと、空しくなってバイトのバーテンダーがシェーカーを軽快に振るのを眺める。
「そうか」
俺じゃないんだな。最期の終活で必要になってくる相手は。俺に伝えたいことなんて何もないらしい。そりゃそうか。ネットで知り合っただけの人物だ。対面で知り合いになるのと訳が違う。一度顔合わせしておいて良かったと思う反面、あの程度では俺はまだネットにいるFの一ファンと変わりがない。
もうFなんて知ったことか。消えろ消えろ消えろ。はじめからFなんていなかったんだ。俺はあいつに嫉妬する理由もない。あいつにスマホの上で一分一秒狂わされていい道理はない。あんな天才と俺が釣り合うはずもない。ああ、あいつにはあいつのことを救いたいと願うファンなんて一人もいないはずだ。ファンは作者を救うのではなく、自分が救われたいとFにすがるんだ。その偽りのファン数は天の川の星の数ほどにも上る! 天の川の星の数なんか知らないけどな! なに!? 一千億個もあるのか! ウィキペディア様様だな! そうか、Fのファンでも一千億人はさすがにいないか。だが、ファンがいるだけで羨ましいぞ!
ファンなんか、小説にはつかないんだって。無名作家にはな。いい加減に無名やめたい。有名作家になれなくていいから、本出したい……。
将来を悲観して胸を痛めていると、Fからいつの間にか返信が来ていた! おお、F! 生きていたのか! F! ずっといてくれ! 慌てるな、冷静に返事しないといけない。なのに、〈F! 俺に何かできることはないか!〉と軽率に文字を叩きつける。
〈荒に未成年誘拐罪の罪を着せるのは忍びないからね。未成年者略取とも言われるかな。暴行を働いてなくても、暴行されてないことを証明するのは難しいよ〉
ああ、そうか、こいつまだ未成年だった。成人年齢が十八歳に引き下げられるのが令和四年には行われるらしいけど。
〈てか、暴行なんかするわけないじゃん〉
〈荒はぼくを助けてくれるつもりだろうけど、未成年誘拐罪って親の許可なく連れ去った場合も適用されるんだよ。懲役七年とかザラにあるみたいだし。よかれと思ってもやらない方がいいよ〉
〈はぁ? お前の親父の方がやべー奴なのに!〉
〈だから、それを証明できないでしょ? 荒が誘拐した事実しか残らないんだから〉
確かに、Fの親父の顔も知らない。どれだけヤバイ奴かってのも、伝聞のみ。それがどうした。Fが自由に楽しく生きられないんなら、家族といっしょに暮しても意味がないだろ。語弊があるな。Fは人生楽しくをモットーにしていない。とにかく、慎ましく、それなりに自由に生かしてやってくれ。
〈ねえ、荒。ぼく、もう未練なんかないんだ。一時的な弱音だとか決めつけないよね? 本当の気持ちを答えてみると、ぼくはぼくの生き方に無頓着で、自分を大切にしたいなんて一度も思ったことがないんだ〉
ああ、もうじれったいな。Fの話はややこし過ぎる。すぐに電話ができないのがSNSの弊害かもしれない。
〈F、Skypeは入れてるか? そっちで通話しないか〉
〈今更、話して何か変わるわけじゃない。荒に変な希望を抱かせるのも悪いし〉
〈いいから、それともDiscordの方がいいか?〉
こんなに音声通話アプリがたくさんあるのに、俺達、一度も通話したことなかった。文字、添付した画像、それだけで完結してた世界が今になって物足りない。同じ関東圏にいて、めちゃくちゃ遠い。北海道と沖縄ぐらい遠い。
FがしぶしぶSkypeをインストールする間に、店を出る。支払いはワンドリンクごとだからもう済ませてある。さて、どこならFを説得できるだろうか。商業施設の屋上は、無料で座れる絶好の場所なんだが、夜になるとカップルがいて気が散るだろうし。そうだ、川沿いに行こう。釣り人ぐらいしかいないだろう。うるさい店内よりはマシだ。
一分。流石のFでもインストールには一分以上かかるようだ。Fを説き伏せる自信はない。もしこれで、失敗したらFは父親に殺されるといっても過言ではない。人って、精神的に死ぬことが多々あるからな。今の病みっぷりがかわいいぐらいになるはずだ。
川沿いの欄干に身を寄せる。おしゃれな洋食店が並び、川にテラス席がせり出しており、京都の川床のようになっている。釣り人はもっと川下の方だったかもしれない。流石に日が落ちると冷え込んでディナー客は屋内に多かったが。一人で黄昏ることになるとは。誰かに見られると少し気まずい。
FがSkypeでコールしてきた。なんだ、そっちから喋る気があるじゃん。ここは慎重に。
「よっ。夕飯は食べたか?」
「まだ」
「先に食べて来いよ」
最期の晩餐だろ?
「水だけでいい」
「死刑囚みたいなことすんなよ。いつものアイスティーでも淹れて来いって」
アイスティーよりも通話を優先した辺り、相当参ってるんだろうな。
「親父さん、明日の何時に帰るんだ」
Fに回りくどい話をしたらいけない。
「朝七時の便だから、そこからだと八時ぐらいかな」
「学校だろ?」
「うん。だけど、午前中には家を出ないといけないから」
川に観光客向けの船が音もなく流れている。Fがとうとう決心したか。だが、どこへ行くのか。
「どこまで出る?」
「最初の一か月はホテルを転々としようかなと思ってる」
「なら、良かった。荷物の手伝いがあればいつでも呼んでくれよ」
「ううん。学校の教材しか持っていかないから平気」
Fのプランが見えてきた。ネットを断ち、死にたがりFとしてのキャリアは抹消する。それで、後は従順に医者になるというわけか。なんとも、虚しいな。Fが一番理解していることだろう。
「お前に救われる患者は、幸せになれるのか?」
Fは苦笑すらしない。スマホの向こうで、吐息が漏れた。
「肉体的にはそれ相応の治療を施すだろうね。救いたい気持ちは一切ないけど。だから、ぼくも誰かに救われたいなんて思わないんだよ」
将来有望な医者の卵はネット依存している方が幸せか。俺もお前みたいな死んだ目で、どこでもやっていける人間になりたかったな。
「なぁ、ホテル巡りするんだろ。また、気が向いたら会おうぜ。俺が何かできるわけじゃないけど、ずっと話すだけならできるから」
そうじゃないだろ。Fに救われたいんだ俺は。
「荒は、医者になれたらなった?」
「そういうとこ、むかつくよな。俺は何にもなれなくて毎日いらついてるのに」
「なれたらの話」
急に黙ると自分の舌がずっとまくし立てていたせいか、酷く熱を持っていた。饒舌になり過ぎると唾液もたくさん出るらしい。
「なれたって、俺は選択肢に医者と作家があったら作家を選ぶ。いや、作家になれてないから、専業でなるならどうするかって話か。ならない。理由は簡単。忙しくて小説どころじゃなくなりそうだから。いや、医者で作家になった先生も知ってるけどさ。なんていうか、医学をベースに作品書いてるだろ。そうじゃないんだ。俺は、医学ファンタジーは書けない」
「ふーん。なんでも経験だと思うけど」
経験か。Fに言われると俺ってどうしようもないな。そうだ、俺ってダークファンタジーを書いて、何を伝えたいんだ。ただ、暗いファンタジーが好きなんだ。だけど、暗いって何だろう。どうして、明るいファンタジーばかり書籍化するのか。よく考えてみないとな……。
「医者になる動機って、やっぱり見つからないな。才能がそっちにずば抜けて持っていても。たぶん、自分の意思を優先するから。作家が向いてないって何年経っても言われるし、百回ぐらい言われたけど。下手の横好きでやめられない」
「やめられないか」
「そうだ。やめられない。仕事か趣味か分からないけど、俺はやめない。寿命が先に来たらそれまでだけど。デビューしないといけないから、やめない」
明確な目標がある。デビュー。ただ、道が分からなくて、超えるハードルの高さも分からず、運動音痴で競争にいつも破れるだけ。走っていれば、ゴールは必ず来るはずなんだ。
Fのどっと吐くため息に笑いが混じっていて安心する。
「そうか。やめられないか。あっさり、やめられるかどうかだよね」
「F?」
「ぼくは、Twitterも、絵も、学校も、いつでもやめられるよ」
「おい、F!」
俺はとんでもなくFを傷つけてしまった。Fは、悲しいと笑う。絶望と共に微笑する。どうして気づけなかった。通話が切れた。一分経っても、二分経っても、Skypeに反応はない。こっちからかけても駄目だ。
「クソ」
Twitterを慌てて開く。「このアカウントは存在しません」の文字が肌寒い夜にはっきりと灯った。
一分後もF 影津 @getawake
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