第10話

 Fの落書きは真っ赤な薔薇を形成していく。何も見ずに薔薇を描けるのは流石だ。Fなら頭の中に画像を取り込むように丸暗記できる「カメラアイ」であってもおかしくない。


 黙って見ているつもりだったが、Fの薔薇は黒のインキで塗りつぶされていくのでつい口を出してしまう。


「色は塗らないのか」


「黒を色と認めない? まさか、色に詳しいの?」


「黒は彩度の濃淡だろ?」


「色彩学的には色だけどね。認めない?」


「そうなのか。まあ、俺もホラー映画の受け売りのセリフだけどな。精神科医の先生の」


「なんだ、余計な詮索させないでよ。荒が急に賢くなったのかと思ったよ」


「ちょ」


「ほら、できたよ」


 Fは俺に一言も反撃する間隙を与えず、漆黒の薔薇を描き切った。


「今の気持ちは、そうだね。絵に現れるっていうけど、どうだろうね。ぼくはぼくしか愛せないから。そう、そうだよ、荒。今までどうして気づかなかったんだろう。ぼくが他人にイラストを提供して金を貰うことを拒む理由は、金なんかよりぼくはぼくの深淵を覗くのが好きなんだよ。自分の中に渦巻く父とのあの出来事、例えるなら戦火だ。あのとき、ぼくは戦死した。無抵抗だったと思うかい? ぼくは全身あざだらけになって抵抗したんだ。だけど、あの日に全てを出し切ってぼくは死んだんだよ」


 Fはスマホの薔薇をワンタッチで削除した。そして、こうじゃないと一人呟いた。もし、これがスマホではなくて紙に描かれたものだったなら、ぐしゃぐしゃに丸められたんだろうか?


 Fの目に涙なんか浮かぶはずはない。殺意のない殺人を場当たり的に立てるような少年は、あどけない表情ではにかんだ。追い詰められた小鹿のようだった。俺はFに酷いことをしている。Fを診断していい医者なんてこの世にはいない。病名をつけていいのは俺でもなく、ほかならぬF自身だ。


 初対面にしては充実した夏日だった。喫茶店を出ると、入道雲が雨雲に変貌していた。去り際、Fはまた会おうと言った。俺も是非と答えて、これから何度も会うことになるのかもしれないと思うとニヤけた。だけど、Fの方は本当に会いたいと願っているだろうか? Fに眠る獣を呼び出してしまった気がして、俺は俯き加減でさよならをした。笑みを隠すために。


 死にたがりFの本名はもう忘れた。一分と待たずFは再びTwitterに現れるだろう。




 来週あたりからコートが必要になりそうだ。長袖を両腕で摩って暖を取る。あれから三ヵ月。俺は風に身を任せ流れるように無職になってネットカフェにいる。Fとは一回も対面で会わなかった。だって、Twitter上のFがみるみる狂っていくのが見てとれたから。だからこそ、俺は自分が蒔いた種なのに仕事に身が入らなくなってしまった。


 FのTwitterには、ネガティブな文言とイラスト削除のお知らせが並ぶ。


「つまらない絵を描いたので削除します」「もう、自分のイラストを見るのが嫌になりました」「描いても楽しくありません」「昨日の、一万いいねのイラストも消してしまいました。すみません」「あの、イラストを使いたい人は言ってくれたら貸します」「いや、もう著作権とかどうでもいいかな」「ぼくの作品の良いところなんてこれっぽちもないのに、どうして応援してくれるんですか?」


 Fが感情に任せて暴れていると気持ちがいいな。俺は嗜虐趣味があるらしい。精神的嗜虐だけど。暴力を振るう人間は暴力を受けたことがあると、ネットの精神分析サイトに書いてあったが、暴力を受けたとすれば体罰ぐらい? それに、これは精神的暴力なので、普通の暴力とは違う。現に、俺はFに手は出していない。FのTwitterがおかしくなった原因が俺のせいなら寧ろ良かったのだが。どうもそうじゃないらしいのだ。俺は諂って謝る。


〈もっと怒れとか、親父さんを憎めなんて言って悪かったよ〉


 俺はFを焚きつけることでFの生命力を伸ばしたい――なんて身勝手極まりないことを思ってしまった。Fは、そうでなくても自分の感情を殺すことで生き永らえていたのに、親父さんが帰って来るまでに人間らしい感情を取り戻しつつあった。それは、愉快で滑稽だったけれど、Fは本気で近日中に親父さんが帰ってくると言うのだ。


〈大丈夫。荒は関係ないよ。もう時間がないだけ。猶予一年なんてなかったんだ。ぼくは、誰かに蹂躙されるくらいなら、自分の生きた痕跡を抹消する〉


 随分大げさだな。その手始めが、アカウント凍結に向けての自作品の削除だった。Fのファンは阿鼻叫喚だ。「やめないで死にたがりF様!」とか、泣けるな。このファンの女は、何一つ知らない。


 一人暮らしの孤独な少年は敷かれたレールを強制的に走らされる。Fは自分の意思で医者になりたいのではなかった。俺は見誤っていた。Fに自由などない。それに、線路を全力疾走する体力もないだろう。そつなく物事をこなせるが、自分の限界は決して破らない。きっと限界を超えること自体が生命としての死なんだ。


 よく、「限界を越えろ」なんてキャッチコピーのCMがあったり、漫画のセリフでもあるがそんなのは本来あってはならないことだ。人は限界を超えると強くなるのかもしれない。そう、限界突破して生命が維持できるのであれば。限界を超えるまでに命が尽きるべきだ。限界とは越えられないから限界なんだ。そして、突破した先には肉体が解放された未来が待っている。死だ。Fに直接聞いたことはないが、この死生観については無言の内に共有していると思う。何人なんぴとも限界を超えてはならない。超えると、風邪を引き病に伏し、死ぬ。……こういう考えだから俺はサラリーマンになれないのかもな。


〈全部消さないでくれよな〉


 またまた、勝手な願望だ。俺は率直にしか物事を頼めない。


〈荒は散々ぼくの絵を見て来たでしょ?〉


〈目に焼きつけるだけじゃなくて、全世界に広めたかったんだぞ?〉


 Twitterで世界に拡散! そんな綺麗ごとは嘘だ。年下のFが世界で活躍したら俺の方が先に自殺するかもしれないな。


〈荒には画像保存する許可を上げたでしょ? それでも満足できないの?〉


〈ああ、正直に言うと、FがTwitter上にいるところをずっと見ていたい。お前が活躍していないTwitterなんか興味ないんだよな〉


 Fは一分経っても返信を打って来ない。余計なことを言った後悔でため息が出る。座席周りに散乱したランチパックの袋をゴミ箱に捨てた。ネットカフェで執筆するのも楽じゃないな。Fのことが気になって、今日は二千文字しか書けなかった。ああ、プロの物書きって悩み事があるときはどうやって物事を整理して書いているんだろうな。


 ネットカフェを出て、コンビニに寄る。缶ビールだけでも買って行こう。もう夜だ。晩飯はカップ麺で。


 レジが混んでいる。当然返って来ているであろう返事を確認するには一分も必要ない。


〈荒はぼくを買いかぶり過ぎているんだよ。ぼくはもう、この世に未練なんてないんだから〉


〈またまた、そんなこと言いやがって。親父さんが帰ってきたわけじゃあるまいし〉


 レジで支払いを済ませて、いつの間にか雨の降った跡のあるアスファルトに足を踏み出す。片手に握り締めたスマホに通知が来た。


〈明日帰ってくる。だから、ぼくはTwitterを終わらせる。荒、今までありがとう〉


 まだ、半年あるはずじゃなかったのか。急に帰って来るのか。俺だって予期しないでもなかったが。でも、それは冗談半分だったし、もしそうなればFは儚い存在として俺の中で昇華され、より神聖な存在になる。だが、若い才能が親ごときに潰されていいものだろうか。


〈F。絶対Twitterも絵もやめるんじゃねぇぞ〉


 返事が来ない。一分待つ。通りを縫うようにして、いきつけのバーに来た。一人飲みには明るすぎるきらいのあるバーだ。実際二人から四人客が多く。店内は明るい洋楽が流れている。


 店内に入店して、お一人ですかと尋ねられたので、うんうんと頷きつつスマホを注視する。二分以上経っているのに返事がない! イライラさせられて、俺はヤケクソで飲んだこともない変なカクテルを注文する。「ビトウィンザシーツを」。シーツの間って何だ? すかさずスマホで検索する。ラムかブランデーがベースなのか。何でもいいが、「寝床に入って」という名前のようだ。なぜこのような名前のカクテルを頼んでしまったのか。今夜は眠れそうにない。五分以上経ったが、Fの返事はない。既読したチェックも入らない。こうなったら、追い打ちをかけるように入力する。


〈明日までに家を出ろ。もしくは、今から迎えに行ってやるから、これからのことは後で一緒に考えようぜ〉


 Fの家の場所など知らない。だが、今から沖縄に来いと言われたら貯金を下ろして飛行機の予約をしてもいい。確か関東圏だったはずだから、大金叩く真似はしなくて済むだろう。


 そういや、あいつの本名はなんだったか。まあいいや、「死にたがりF」は死にたがりだから教祖に成り得るのであって、死んで神になってもらっては困るのだ。Fが誰からも愛される神になるなど許せない。Fは俺だけを惑わすメフィストフェレスであってもらわないといけない。

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