第5話

 病院特有の独特な匂いも、何度も通い詰めればあまり気にならなくなってくる。

 巧はそんなことを考えながら、玲が入院している個室の扉をゆっくりと開いた。

 淡い青色の検査着を着た玲は、穏やかな表情をしながらベッドの上で文庫本を開いていた。

 不謹慎かもしれないが、その佇まいがとても綺麗だと巧は思った。

「チーズケーキ買ってきた。好きだったろ。」

 巧の声に気づいた玲は、静かに巧の方を向き、微笑みながら本を閉じた。

 巧が玲と付き合い始めてから3年が経とうとしていた。

 月日が進むにつれ、病院で玲と会う頻度は次第に増えていった。

 今回の入院期間は既に二か月近くにも及んでいる。

 巧は、次第に伸びていく入院期間や枕元に置かれた大量の内服薬を目にする度、例えようの無い衝動に駆られながらも、玲の前では常に平静を装うように努めていた。

「ありがとう。一緒に食べましょう?」

 玲の優しい問いかけに、巧は微笑み返しながら頷いた。


「明後日、仮退院なんだ。」

 玲は窓の外を眺めながら呟いた。

「良かったな。生徒達も喜ぶだろ。」

「…ピアノ教室は、もう閉めたの。」

 表情を変えずに平然とそう答える玲を前に、巧は目を見開いた。

「…そうなん、だ。」

 本当は様々なことを問い詰めたかった。

 どうして?

 あそこは玲にとって、とても大切な場所だったじゃないか。

 何度玲が入院しても、生徒の子ども達はいつも玲が戻るのを待っていたのに。

 しかし結局巧は、何も聞くことができず黙っていることしかできなかった。

「巧。私が退院したら、一緒に旅行に行きましょう?」

 暫しの沈黙の間、玲が口を開いた。

「…旅行?」

「うん。私、月城市に行きたい。案内してくれるよね?」

 巧は自宅から月城市の国立大学に通っていた。

「構わないけど、その…お父さんは大丈夫なのか?」

 玲の父親である正成には、玲との交際を隠し続けていた。

 玲の母親である亜希子に忠告されていたからだ。

 亜希子は涙を見せながら二人の交際を祝福してくれたものの、正成への報告は止められた。

「ごめんなさい。あの人は、きっと二人の交際を認めないと思うから…。昔から身体が弱かった玲のことを、行き過ぎなくらい大事にしているの。」

 亜希子は複雑な表情で巧にそう告げた。

 正成は県内有数企業の重役を努めながらも、例え深夜になろうと毎日遠方の自宅に帰ってきては、玲の無事を確かめていた。

 会社から遠く離れた近江町に家を建てたのも、町立病院に心臓外科の有名な専門医がいたことと、何より、玲が大好きだった海の近くで静養させるためだった。

 それから巧は亜希子の申し出に応じ、幾許かの罪悪感を感じながらも、正成の目を忍んで玲と会うようにしていた。

「大丈夫、明後日からお父さん出張だから。お母さんもついていくの。」

 玲の平然とした言葉に巧は耳を疑った。

 どんなに仕事が忙しくても家を空けることが無かった正成が、玲が退院する当日に亜希子を連れて出張に行くなんて考えられない。

 巧は眉間にしわをよせて俯いた。

「…いつもそうやって考えこむよね。巧の悪い癖。」

 玲の言葉に顔を上げた巧に、玲はキスをして口元を覆った。

 一瞬驚いた巧は次第に思考を停止していき、目を瞑って玲を抱き寄せた。

 どれだけの時間が経っただろう、二人はゆっくりと身体を離していった。

「…お父さんのことは分かったけど、どうして月城なんだ?もっと他に行きたい所は無いのか?」

 月城市は車で2時間もかからずに行ける、別に旅行で行くほどの距離ではない至って平凡な中規模都市である。

 しかし、巧の問いかけに玲は小さく首を振った。

「巧がどんな世界で生活しているか知っておきたいの。私も、小さい頃に何度か家族で行ったきりだしね。」

「世界ったって、ほとんど家と大学との往復だけだぜ?バイトだって在宅でライターのアシスタントをしてるんだし。」

「…それでも、だよ。」

 玲は目を閉じながら静かに微笑んだ。

 その微笑みから、何か別の感情が滲み出ていたのを巧は感じ取っていた。

「…分かった。」

 巧は、何かの覚悟を決めたような表情で静かに頷いた。



 玲の退院当日、空は雲一つ無い晴天だった。

 もう夏が来ようというのに、涼やかな風は少し冷たいくらいだった。

 病院まで迎えに来た巧の車を前に、玲ははしゃぐように手を振りながら駆け寄った。

 淡い黃色のカーディガンがとても良く似合っていた。

 巧は玲から小さなキャリーバッグを受け取り、トランクに詰め込んだ。

「やっと巧の車に乗れるね。」 

 助手席に乗り込んだ玲は、嬉しそうに巧の顔を覗きこんだ。

 近江町では珍しい車なだけに、どこかで正成の耳に入ることを危惧し、巧はこれまで玲を車に乗せたことは無い。

 それどころか、町を出て玲と出かけることも無かった。

 会うのはいつもお互いの家か近くの喫茶店、そして、二人が出会ったあの場所くらいだった。

 しかし巧は、そのことに窮屈さや不満を感じたことは一度たりとも無かった。

 玲のピアノの演奏を聞いたりながら、ゆっくりとした時間を過ごすのが大好きだった。

 ただ、玲と一緒にいられることが何よりの幸せだった。

「お父さんは元気?」

 不意にハンドルを握る巧に向かって玲が問いかけた。

「ああ。相変わらずの仕事人間だよ。また玲に会いたがってた。」

「…そう。」

 窓の外を眺める玲が複雑そうな表情を浮かべているのが、巧にはなんとなく伝わっていた。

 初めて達郎に玲を紹介した日のことを、巧は鮮明に覚えていた。

 達郎は玲の挨拶を前にし、今までに見たこともないくらい狼狽えていて面白かったし、少し緊張していた玲が次第に打ち解け始め、笑顔で達郎と会話をしている姿を見て心が暖かくなった。

 それだけに、玲の心無い返答が痛く胸に刺さった。

 きっともう、会うつもりは無いのだろう。

 達郎にも、そして―

「また怖い顔してる。」

 巧は左頬を玲に突つかれ、我に帰った。

「初めての旅行だよ。もっと楽しい顔しようよ。」

「…そうだな。」

 巧は視線を玲に向けること無く、小さく頷いた。



 二人は巧の大学を訪れていた。

 玲が真っ先に行きたがった場所だ。

 土曜日で講義は行われていなかったが、サークル活動等の学生がまばらに見受けられ、学内のカフェもそれなりに賑わっていた。

「とても綺麗な学校ね。」

 玲はミルクティーを一口飲んだ後、カフェから窓の外を眺めながら呟いた。

「そうかな。別に普通だよ。」

 巧も窓の外に目を向けて微笑した。

 しばらく他愛のない会話を続けていた矢先、巧は後ろから声をかけられた。

「おいおい柏木、彼女がいるってのは本当だったのかよ?めっちゃ美人じゃんか!」

 玲はややぎこちない笑顔を向けながら会釈した。

「声がでかいよ矢沢。怯えてるだろ。」

 巧がそう注意すると、矢沢は乗り出した身を引き、焦ったように

「ああ、ごめんごめん。ちょっと興奮しちゃって。彼女さんもごめんね?」

 と言いながら何度も頭を下げた。

「…お前より3つも歳上だぞ?敬語を使え。」

「ええ!?道理で大人っぽく見えるはずだよ。ほんと、すいませんっした!」

「そんなに謝らないでください。沖沢玲と申します。いつも巧がお世話になっています。」

 玲の気品ある立ち振舞を前に、一瞬呆けたような表情を見せた矢沢は、玲に再び話しかけようとしたところで一緒に来ていた野球部員に引っ張られていった。

「悪かったな柏木、矢沢の奴が邪魔して。」

「別に部長が謝ることじゃないですよ。部長も大変ですね。」

「まあな。良く言えば、チームのムードメーカーなんだろうが…。柏木も、また時間ができたら助っ人に来てくれよ。それじゃあ、彼女さんもごゆっくり。」

 部長が引き連れて去っていく野球部員達を見ながら、玲はくすっと笑った。

「ああ、びっくりした。矢沢君?って面白いお友達ね。」

「驚かせて悪かったな。あいつ、チャラいけど決して悪い奴じゃないんだ。」

「全然大丈夫。前にも話してくれたけど、野球、また始めたんだね。」

「バイトが忙しいし、部には所属してないから公式試合には出てないけどな。いくらか肘も良くなってきたから練習試合とかの頭数が足りない時、たまに参加してるよ。」

 巧はそう言ってコーヒーを啜った。

「…玲のおかげだよ。」

 巧の言葉に、玲は少し驚いたような表情を浮かべていた。

「玲に出会わなければ、また野球をやろうなんて思わなかった。なんだかんだ言って俺、野球、好きみたいだ。」

「そう。良かった。」

 玲は静かに微笑しながらミルクティーを口にした。



 大学を後にした二人は、巧が知人から聞いたイタリアンの有名店で昼食を食べたり、市内の水族館を回ったりした。

 玲はいつも以上にはしゃいでいるように見えた。

 巧は複雑な感情を抱きつつ、楽しそうにしている玲の姿を何度も目に焼き付けた。

 あっという間に時間は過ぎ、二人は宿泊先のホテルを訪れていた。

「すごく高そうなホテルじゃない。無理したんじゃないの?巧。」

 玲は部屋のあちこちを歩き回りながら巧の顔を見た。

「折角だからな。バイトしてるからそんなこと気にしなくていいよ。」

 巧の言葉に玲は笑顔を見せた。

「ところで、巧に聞きたいことがあります。」

 ベッドの上に腰掛けていた巧に顔を近づけ、玲は急に厳しい表情を向けた。

「…どうした?」

「随分おモテになってるんじゃないんですか?巧さん。」

 予想外の玲の言葉に巧はたじろいだ。

「ええ?何の話だよ。」

「今日会った矢沢君。驚いたっていうより、何か合点がいったっていう表情をしてた。ああ、だからかあ、みたいな。彼経由で女の子に連絡先聞かれたりして、いつも断ってるんじゃないの?」

「…探偵みたいだな。」

 巧は苦笑いを浮かべた。

「まだあるよ。今日連れていってくれたイタリアンのお店とか水族館とか、お友達に聞いたって言ってたけど、どちらかといえば女の子達が喜びそうな場所ばかりだった。…どっちもデートに誘われた場所なんじゃないの?」

 すごんだ玲の顔が更に巧の顔に近づいてきた。

 正直、玲の推理が大体当たっていて巧は驚いていた。

「いや、落ちついてくれ玲。玲の言ったとおり、俺は矢沢からのそういう依頼は全て断ってる。」

 潔白なのは事実なのだが、むくれる玲を前にして巧は必死に弁明を続けた。

「それに俺、水族館の中で少し迷ってたじゃないか。確かに何度か誘われたことはあるけど、行ったのは今日が初めてだよ。」

 そんな巧を見て、それまで厳しい表情をしていた玲はたまらずに吹き出して笑い始めた。

「あはは、巧がこんなに狼狽えるの初めて見た。」

「…それだけ必死なんだよ。」

 巧は少し顔を赤らめて玲から目を背けた。

「けど、多分嫉妬してくれたんだよな、玲。少し安心したよ。俺はてっきり―」

 そこまで話した瞬間、巧は玲に押し倒されていた。

 ベッドの軋む音だけがキシキシと小さく響く中、巧をベッドの上に押し倒した玲は、少し悲しげな表情を浮かべながら巧を見つめていた。

「…そこから先は、まだ言っちゃだめ。」

 巧は黙って玲の綺麗な瞳を見つめていた。

 暫しの沈黙の後、玲は巧に口づけをした。

 ゆっくりと唇を離した玲は、静かに巧の耳元で呟いた。

「今は何も考えないで私のことを抱いてほしいの。…お願い。」

 その夜玲は、巧の胸の中で震えながら泣いていた。

 その涙の理由はきっと、初めて身体を重ねた日に優しく微笑みながら見せた涙とは全く別物なのだろう。

 一瞬そんなことを考えた巧は、玲の願い通りにすぐに思考をさせ、目の前の白くて細い、小さな身体を抱きしめた。

 彼女がどこにも行かないように。

 彼女を繋ぎ止めるように。

 強く、強く。



 

 夕暮れが近づいた砂浜には、波音とウミネコの鳴き声だけが響き渡っていた。

 翌日、近江町に戻った二人はいつもの砂浜に座りながらオレンジ色の海を眺めていた。

 巧の願い虚しく、玲の口から放たれたのは決別の言葉だった。 

「…さっきの言葉は、どういう意味だ?」

 巧はぐらつく心の中を隠すように、静かに問いかけた。

「…言葉の通りよ。」

 玲は、決して巧のほうを向くこと無く無表情で答えた。 


―貴方は、貴方を愛してくれる人を幸せにしてあげて。それはもう、私じゃない。


 彼女の本心がどこにあるのかは分からなかったが、その一言は想像以上に巧の心に響いた。

「…病状、あまり良くないのか?」

 玲は何も答えず黙って海の向こうを見ていた。

「俺はこれからも、玲の支えになっていきたいと思っている。だから―。」

「もう止めて。」

 玲は静かに巧の言葉を遮った。

「そういうのが、迷惑、なの。」

 とても冷淡な口調だった。

 暫しの沈黙の後で、再び玲が口を開いた。

「私には夢ができたの。その夢を叶えるためには、貴方が邪魔なの。」

 玲の口から次々と飛び出す冷たい言葉は、既に巧の心には届いていなかった。

 巧には、彼女が何を考えているのかは全く分からなかった。

 けれど、自分にもう会わないと決めた彼女の強い覚悟だけは充分すぎるくらいに伝わっていた。

 本当は、どんな言葉を投げかけられても必死に彼女を繋ぎ止めるつもりでいた。

 どんなに惨めな形でも…。

 けれど巧は、黙ってその場に佇むことしかできなかった。

 どのくらいの時間が経っただろうか、遠くに見えるオレンジ色の夕日は、既に半分以上海の中へと消えていた。

 玲はゆっくりと立ち上がり、プリーツスカートの砂をほろった。

「…巧と出会えて良かった。本当に、今までありがとう。今日は送ってくれなくて大丈夫だから。」

 先程までとは違い、彼女の口調はいつものように優しいものだった。

 巧は最後まで玲のほうを向かず、砂浜の上で硬直したまま何も返事をしなかった。

「…さようなら。」

 玲の最後の言葉は、心なしか震えていた。


 

 時刻は夜の9時を迎えようとしていた。

 巧は暗い砂浜の上で寝そべり、波音を耳に入れながら黙って星空を見ていた。

 暫くは何も考えることができなかった巧だったが、行きつく答えは一つだけだった。

 明日、もう一度玲と話をしよう。

 ちゃんと伝えなくちゃ駄目だ。

 自分の思いを。

 巧は吹っ切れたように勢いよく立ち上がり、大きく背伸びをした。

 不意に、後ろから砂浜を歩く足音が聞こえてきた。

「…玲?」

 振り向いた先に立っていたのは、大きな瞳を赤く腫らした夏美だった。

「…巧君のばか。」

 何かを言い返そうとした巧の右頬に、鈍い衝撃が走った。

「どうして、どうしてお姉ちゃんを行かせたのよ!!」

 夏美に平手打ちされた巧には、夏美が一体何を言っているのか全く理解できなかった。

「お姉ちゃん、アメリカに行っちゃったよ!たった10%しか成功しない手術のために!」

「…今、…何て言った?」

 夏美の口から出てきたのは、巧の想像だにしない言葉ばかりだった。

 玲は、日本医学では完治させるのが不可能と言われている重い心臓の病を患っており、玲が生まれた瞬間に医師から余命の宣告をされていたこと。

 その後の治療の甲斐もあり、病状の進行は医師の予想以上に緩やかになっていったものの、それでもあと3年生きられるかという程までに悪化していたこと。

 玲は経過観察を勧める家族達の言葉を遮り、成功率が極めて低い海外での手術を強く望んだこと。

 その手術のため、先程両親と海外に向けて

出発したこと。

「そんな…玲は、俺に何も…。」

 玲は最後まで、巧に自身の病状について何も話さなかった。

「別にたいしたことないの。検査入院みたいなのを繰り返してるだけ。」

 玲はいつもそうやって、心配する巧に優しい言葉をかけていた。

 無論、巧だってその言葉を信じていた訳ではなかった。

 しかし巧は玲の言葉に甘え、現実から目を背け続けてきていた。

「…お姉ちゃん、必死にお父さん達にお願いしたんだよ。アメリカに経つ前に、巧君と一緒に旅行に行くことも。」

 夏美は呆然と立ち尽くす巧のシャツを両手で掴み、言葉を投げ続けた。

「お父さんも驚いて最初は怒ってたんだけど、最後には折れてくれたの。多分、巧君が止めてくれるんじゃないかって思ったんだよ。それなのに…。」

 巧のシャツを掴む夏美の手に力が入る。

「それなのに…どうして行かせたのよ!」

 夏美は目に涙を浮かべながら巧に強く問いかけた。

「…俺に、どうしろって…。」

 垂れ下げていた巧の腕に力が入る。

「俺にどうしろっていうんだよ!玲は、何も…何も話してくれなかった!相談も無しで一人で全部決めて…それどころか、玲が決めたことを応援させてくれることすら許さなかったんだ!」

 巧の怒号を聞いた夏美は、掴んでいた巧のシャツをゆっくりと離して巧の顔を見た。

「何だよ手術って…。言ってくれよ。…せめて、必ず治して帰ってくるから待っててくれって、どうして言ってくれないんだよ!」

 夏美は力無く砂浜に膝を着く巧の隣にゆっくりと腰を下ろし、巧の右頬を優しく撫でた。

「…叩いちゃって、ごめん。」

 暫くの沈黙の後、夏美は鼻をすすりながら呟いた。

 隣にうずくまる巧は、何も言葉を発しなかった。

「お姉ちゃん、言えなかったんだね。巧君にだけは。」

 夏美は静かに言葉を続けた。

「けど、これだけは私にも分かる。…お姉ちゃんが巧君にどんな酷いこと言ったのかは分からないけど、…絶対に本心じゃないから。」

 再びの沈黙の後、巧は虚ろな目を暗い海に向けながら、ぽつりと口を開いた。

「…俺には、玲が何を考えているか分からない。」

 夏美は静かに巧の横顔を見つめた。

「これは、俺のエゴかもしれないけど…。俺は、一日でも長く玲の隣にいたかった。例え、その時間に限りがあったとしても。」

「巧君…。」

 夏美は巧の肩に優しく手を当てた。

「巧君。信じよう、お姉ちゃんのことを。きっと手術が成功して、お姉ちゃんは元気に帰ってくる。…その時は、私達でお姉ちゃんをいっぱい叱ってあげよう。」

 巧は力無く頷いた。



 

 二人の願いが届くことは、無かった。

 数週間後に執り行われた玲の葬儀は、近い親族だけのとてもささやかなものだった。

 夏美は式典中、ずっと泣き続けていた。

 そんな夏美の傍らには、正成の計らいによって参列していた大吾がずっと寄り添っていた。

 同じく、正成に呼ばれて参列していた巧であったが、棺の中で眠る玲の顔を見ることは最後までできなかった。

 火葬場から上る煙を遠くに見ながら、呆然と立ち尽くす巧の前に正成がやってきた。

 殴られる覚悟をしていた巧だったが、正成の口から出てきたのは巧への謝辞の言葉だった。

「あの子はここ数年、本当に幸せそうだった。家に閉じ込めるような手段しか取れなかった私が言えることではないが…君のおかげだ。」

 頭を下げる正成を前にした巧は、いっそ殴られたほうがいくらかは救われたのに、と思うことしかできなかった。

その日の夜、巧は自宅の庭に座りながら煙草に火を点けた。

 数年ぶりに吸った煙草は、酷く不味かった。

「玲がそっちに行ったよ。…母さん。」

 空に昇る煙を力無い目で眺めていた巧は、小さく呟いた。

 巧が後ろに気配を感じて振り向くと、そこには達郎が目を赤くして立っていた。

 達郎が泣いた姿など、母親が亡くなった時ですら見たことが無かった巧は酷く驚いた。

「…何も、何もお前までこんな辛い思いをすることなど、無いのに…。」

 達郎は声を震わせていた。

「俺はな、巧。どんな罪に問われたっていい。もし目の前に神様なんて奴がいたら、全力でぶん殴ってやりたいよ。」

 父が拳を握りしめながら発する言葉に、巧の目頭が熱くなった。

 玲の死後、初めて流れた涙だった。

「…本当に良い子だったよな。」

 達郎の問いかけに、巧は目元を右手で覆いながら静かに頷いた。

 俺は、玲のことが本当に大切だった。

 けど俺は、そんな君との最後の時間に、言葉一つかけられず不貞腐れていた。

 君のことを孤独にさせてしまった。

 ごめん、玲。

 本当にごめん。

 どんな酷い言葉を投げかけられたっていい。

 それでも、もう一度君に会いたい。

 大好きだ、玲。

 巧は嗚咽しながら、心の中で何度も空に向かって叫んだ。  

 

 

 

 

 

 







 

 

 

 

  

 

 

  

 

 


 

 



 

 

 

 

 


 

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移ろいの狭間で、君を想う。 やんわか @yanwaka

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