第4話
自室のドアを静かに開けた巧は、薄暗いリビングのソファですやすやと眠る鈴花の寝顔を目に入れながら、冷蔵庫から取り出した缶ビールの栓を開けて一気に口に含んだ。
鈴花を自宅に連れてきてから一ヶ月ほどが過ぎようとしていた。
巧はあれから数日間の休暇を取り、鈴花が住んでいたアパートの解約手続きや未払いの家賃支払い等を済ませ、鈴花の僅かな荷物を巧のマンションに搬入した。
「体調も良くなりましたし明日から学校に行きます。柏木さん、本当にありがとうございました。」
引っ越しの当日、そう言って微笑む鈴花の顔を見ると、自分がしたことは間違ってはいなかったような気がして巧は少し救われた気分になった。
巧が住むマンションは2LDKであり、巧の寝室以外にも資料や本の置き場にしていた空き部屋が一室あった。
一度も使っていない客人用の布団も一式置いてあったので、巧はその部屋を鈴花に充てがったが、鈴花は次第にリビングに居着くようになった。
どうやら充てがった部屋で眠っていると、先日まで住んでいたアパートの部屋を思い出すようだった。
辛い思いばかりの生活だっただろうし無理もないと巧は思い、鈴鹿にリビングでの生活を促した。
―あの日の鈴花の真意については結局何も聞き出せないでいた。
「…ごめんなさい。今はまだ詳しいことをお話しする覚悟がありません。けれど、私の心の準備ができたら必ず全てをお話しします。」
あの時鈴花はそう言った。
そう言われた以上、巧は黙って頷くことしか出来なかった。
鈴花と出会った日の夜、玲に呼ばれたような気がしてあの海に立ち寄ったのは事実だ。
だがそんなことはありえない。
ただ偶然に偶然が重なって鈴花に出会っただけだ。
巧はそうやって自分自身を否定し続けていた。
だが、鈴花は言った。
自分を、そして玲を以前から知っていると。
本当に君が呼んだというのか?玲。
君は一体、何を知っている…?。
巧は再度鈴花の寝顔を遠目から眺めた後、ビールの空き缶を静かにシンクに置いて自室に戻った。
窓を開けてベランダに出た巧は、煙草に火を着けてゆっくりと煙を吐き出した。
月城の街並みは深夜にも関わらず煌々としており、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえていた。
巧は煙草の煙をぼんやりと眺めながら考えを巡らせた。
鈴花の言葉の真意も気にはなるが、まずは彼女の今後の事だ。
あれから巧は、鈴花と同居することの是非について色々と考えていた。
既に未成年者の枠組から外れている彼女は、例え保護者や親族がいなくても住む場所を自身で選択・契約することができるというのが法的な見解のようだった。
とはいえ鈴花はまだ高校生だ。
彼女の今後の進路次第では、これからも大人の支えは必要なはずである。
しかし、巧が彼女を預かった動機は決して褒められたものではない。
そんな自分が、このまま彼女の将来を支える立場に立って良いのだろうか?
巧は頭を痛めた。
誰かに話を聞いてもらいたい。
巧の脳裏に浮かんだのは、ただ一人だけだった。
枕元で鳴り響くスマートフォンのアラームを、巧は気だるそうに解除してベッドから起き上がった。
結局あれからほとんど眠ることは出来なかった。
巧がため息をつきながら着替えていると、キッチンからいい匂いがしてきた。
「柏木さん。おはようございます。」
着替えを終えてキッチンに向かうと、そこにはセーラー服の上からエプロンを着た鈴花がにこやかに立っていた。
「おはよう。早いな。」
「はい。ぐっすり眠れたので。こちらにお世話になってからは不思議とよく眠れるんです。あ、冷蔵庫の物、勝手に色々と使わせてもらいました。」
「当面の食費を預けたのは俺なんだし全然いいよ。ありがとな。」
巧は、鈴花が用意してくれたホットサンドとコーヒーを眺めながら礼を告げた。
鈴花はここに引っ越してきてから率先して様々な家事をこなしてくれていた。
受験や就職試験を控えているであろう高校生にそこまでしてもらうのに対し、当初は抵抗を感じていた巧であったが、繁雑を理由に家事を疎かにしていた身としては非常に助かっていたのも事実であった。
二人は他愛もない会話をしながらテーブル越しに朝食を食べた後、鈴花は学校へと出掛けた。
「図々しいかとは思ったのですが…。キッチンにお弁当を置いてます。よろしければお昼に食べてください。」
別れ際、鈴花は恥ずかしそうにそう言った。
「ありがたく頂くよ。合鍵は持ったか?俺は多分今日、遅くなるから夕飯はいい。」
「はい。お気をつけて。私は今日アルバイトもありませんので、食材のお買い物をしたらまっすぐ帰ってきますね。それじゃあ、行ってきます。」
巧は軽く左手を上げて鈴花を見送った。
引っ越してきてからも鈴花は本屋でのアルバイトを続けたがったので、無理の無いシフトにすることを条件に巧は承諾していた。
鈴花はアルバイト代から食費や家賃の一部を払いたいと申し出てきたが、それは断った。
これからは自分の好きなことに使ってほしい、巧がそう伝えると鈴花は少し申し訳なさそうな顔を見せた後、小さく微笑んで頷いた。
ここに引っ越してきてからの鈴花は、なんだか生き生きとしているように見えた。
不幸な出来事が重なり、苦しんだ彼女であったが、いくらか元気を取り戻してくれたのだろうか。
今の巧にとってはそれが唯一の救いだった。
「…さて、そろそろ俺も行くか。」
巧は腕時計に目を向けながら呟いた。
巧はオフィスに出社した後、午後にかけて校了が近い原稿を次々と仕上げ、デスクでパソコンに向かっていた香澄に提出した。
「なんだ?随分早いな。明日の夕方でも間に合うものばかりじゃないか。」
香澄は預かった原稿に目を通しながら巧に問いかけた。
「今日はこれから時間休を貰っているので。明日はスライドした分の仕事に時間を当てます。」
「ああ、そうだったな。この前の休暇といい、あれだけ頑なに休みを取らなかったお前が珍しいな。」
巧は苦笑いを浮かべながら香澄から目を逸らした。
「そういえば、毎年今くらいの時期に休暇を出してるような…。まあ、詮索というのも野暮だな。原稿は問題ない。私から編集班に上げておく。」
「ありがとうございます。」
巧が一礼すると、香澄は微笑しながらコーヒーを啜った。
「さっき食べてた弁当…随分美味そうだったな。」
香澄の一言に巧はどきりとした。
目立たないように昼休みはほとんど人気の無いミーティングルームで弁当を食べた巧であったが、香澄の目は誤魔化せていないようだった。
「そうですね。少し乱れた食生活を見直そうと思って自炊を始めたので…。」
「はは、済まない。余計な詮索はしないと言ったばかりだったな。」
香澄は苦笑いをする巧を横目に小さく笑った。
「多分、香澄さんの想像しているようなことは何も無いですよ。」
「…本当か?それなら今度飲みに行った時に尋問するとしよう。アルハラとか抜かすなよ?」
巧は微笑しながら頷いた。
平日の高速道路は思った以上に空いていた。
これなら17時前には着けそうだ。
仕事を切り上げた巧は、愛車のシビックを走らせ近江町へと向かっていた。
巧が大学に入学した際に達郎からお下がりで譲ってもらった車は、それなりの年代物ではあるもののエンジンの小気味良い駆動音を聞く限りまだまだ頑張ってくれそうだ。
巧はこの車を心底気に入っていた。
7月2日。
巧は毎年、誰にも連絡せずに近江町に帰っている。
玲の墓参りのためだ。
命日は7月3日なのだが、玲の両親や夏美に顔を合わせる勇気が持てず、巧はいつも日付をずらして前日に墓参りをしていた。
葬儀にこそ参列したものの、結局、一周忌にも三回忌にも顔を出すことはできなかった。
助手席に置いたフリージアの花束から漂う甘い香りが車内に立ち込める。
巧は煙草を吸いたい衝動を抑えながらハンドルを握りしめていた。
玲の葬儀の日、玲との約束を破って禁煙を止めた巧であったが、墓参りに行く7月2日だけは吸わないと心に決めていた。
最寄りのインターチェンジに近づくと、車の窓からは青々とした海が遠くから顔を覗かせていた。
町のやや高台に面した墓地公園には心地良い風が吹き渡っていた。
玲が大好きだった海を見渡せるこの場所を選んだのは、勿論彼女の両親だった。
巧は玲の墓石の前まで来ると、花立てにフリージアの花を丁寧に飾った。
そして静かに手を合わせて目を閉じ、心の中で玲に様々な事を報告した。
仕事のこと、大吾達と久しぶりに会ったこと。
どのくらいの時間が経っただろうか、巧は合わせていた手を下げてゆっくりと目を開いた。
「また来年来るよ。」
巧は小さく呟き、墓石に背を向けた。
結局巧は、鈴花のことを玲に話さなかった。
玲にだけは悩んでいる自分の姿を見せたくない。
そんな精一杯の強がりだった。
「…やっぱりね。」
目を伏せながら歩き出していた巧は、不意に手前から聞こえた声に驚いて目を上げた。
夏美だった。
「どうして、ここに…?」
「驚かそうと思って。」
狼狽する巧を尻目に、夏美は悪戯っぽい笑顔を見せた。
「だって、毎年命日にお姉ちゃんの好きなお花が先に飾られてるんだもん。大体の想像はつくよ。」
夏美はそう言いながらつかつかと玲の墓石の前まで向かい、手を合わせた。
「まあ、いつ来てるかまでは分からなかったから、本当に会えるとは思わなかったけどね。」
「…参ったな。」
巧は苦笑いを浮かべながら呟いた。
「ねえ、せっかく会えたんだし、ちょっとドライブデートしていかない?」
墓参りを終えた夏美は、いつの間にか巧の隣に立っていた。
「…旦那に怒られないか?」
「大ちゃんは寛大だから、巧君だったら浮気も許してくれるよ。」
夏美は大きな目を細めながら微笑んだ。
「ここまで歩いて来たんだろ。ついでに家まで送って欲しいだけなんじゃないか?」
「ばれたか。ここの坂道、しんどくて疲れちゃった。」
夏美は悪戯がばれた子供のように舌を出した。
「…丁度良かった。俺も夏美に相談したいことがあったんだ。」
夏美は不思議そうな表情を見せた後、優しく微笑んで頷いた。
「懐かしいな、ここ。」
夏美はレモネードのグラスをストローでかき混ぜながら呟いた。
「…よく四人で来たよな。」
巧も感慨深げに頷いた。
老夫婦が営む小さな喫茶店「キャロル」は、
巧達のダブルデートの定番スポットだった。
パフェを美味しそうに頬張る夏美を、玲はいつも優しく微笑みながら眺めていた。
「巧君、なんだかこの前会った時と雰囲気が変わったね。」
「そうか?そんなことは無いと思うけど。」
「ううん。変わったよ。この前の巧君だったら、きっとここに誘っても断わられてたと思う。」
そうかもしれない。
口には出さないまま、巧は静かにブレンドコーヒーを啜った。
「ところで秋穂は今日大丈夫なのか?」
「うん。大ちゃんが今日お休みだから見てくれてるよ。そろそろご飯の時間だからあまり遅くならないようにしないとだけど。大ちゃんも秋穂も食いしん坊だから。」
おどける夏美を見て巧も微笑を浮かべた。
大吾から無事に娘が生まれた報告を受けた巧は、当時自分のことのように喜んでいた。
「大ちゃん達に少し会っていく?」
「いや、後日改めて会いに来る。大変な時期に時間取ってもらって悪かったな。」
「いいのいいの、元々私が誘ったんだし。それで、相談って何?」
巧は一息ついて、ゆっくりと口を開いた。
「…一ノ瀬鈴花って名前に、聞き覚えはあるか?」
夏美は暫く考え込むような表情を見せた後、何かを思い出したように口を開けた。
「…もしかして、鈴ちゃんのこと?」
「知ってるのか?」
「うん。お姉ちゃんと同じ病院に鈴ちゃんのお母さんが入院しててね。お姉ちゃんにすごく懐いてた子だよ。私も大好きだった。」
やはりそうか。
巧の予想は概ね当たっていた。
この町に入院施設のある大きな病院は近江総合病院の一つしか無い。
玲と知り合う機会があるのは、病院かピアノ教室くらいしか考えつかなかった。
尤も、何度も玲の見舞いに行っていた巧自身は、鈴花と会った記憶は全く無いのだが…。
「懐かしいな。私よりお姉ちゃんに似ていて、他の患者さん達からも三人姉妹だってよく勘違いされてたよ。それで、その鈴ちゃんがどうしたの?」
巧は、鈴花と出会った経緯こそ省略したものの、鈴花についての殆どを夏美に説明した。
「鈴ちゃん、そんなことになってたんだ…。」
夏美は悲しそうな表情を浮かべた。
「鈴花の話を聞く限り、鈴花の母親が亡くなったのは彼女が中学生の頃だ。それからも玲の見舞いに来ていたのか?」
巧の問いかけに夏美は目を伏せた。
「…何回かはね、来てくれてたんだよ。」
夏美は歯切れが悪そうに言葉を発した。
「けど、いつだったかな。お姉ちゃん、急に鈴ちゃんのこと怒鳴って病室から追い出したの。鈴ちゃん、びっくりして…それ以来、来なくなっちゃったの。」
「…あの玲が、怒鳴った…?」
いつも穏やかな玲が大きな声を出したところなど、巧は一度も見たことが無かった。
「私もびっくりしちゃった。ちょうど私もお姉ちゃんのお見舞いに行ってて病室の近くまで来てたんだけど、お姉ちゃんの大きな声が聞こえたと思ったら、鈴ちゃんが泣きながら出ていっちゃって…。」
巧は眉間に手を当てながら考え込んだ。
玲も鈴花も、決して人を傷つけるようなことを言う訳がない。
どうして仲が良かった二人が、そんなことに…?
「私は、あの時ほど悲しそうなお姉ちゃんを見たことが無かった。」
暫くしてから夏美は口を開いた。
「悲しそう?」
巧の質問に夏美は頷いた。
「うん。私が慌てて病室に入ったら、お姉ちゃん、無表情で涙を流しながらベッドの上で呆然と座っていたの。私が何を話しかけても、ずっとそのままだった。」
「それは大体いつくらいの話だ?」
「うーん、お姉ちゃんがアメリカに行く一週間くらい前だったかな?あ、そうだ。確か、あの後すぐに巧君と旅行に行ったんだ。」
巧は、頭の中で少しずつ謎と謎が結びついていくような感覚を覚えた。
あの頃の玲は、確かに様子がおかしかった。
何故かは分からないが、その理由に鈴花が大きく関わっているのかもしれない。
「…ところで巧君は、かわいい女子高生をお家に匿って、どんないやらしいことをしているのかな?」
暫く考え込んでいた巧は、不意な夏美の質問で我に帰った。
「失礼だな。俺はそんなつもりで夏美を住まわせてる訳じゃない。」
「…本当に?」
急に夏美の声のトーンが下がった。
「巧君が優しいのは知ってる。けど、ただの同情で本当にそこまでできる?くだらない倫理感とか取り除いた先に、何か別の感情が巧君の中にあるんじゃない?」
「だから、本当にそんなんじゃ…」
巧が少し声を荒げたところで、夏美はそれを遮るように口元に人差し指を当てた。
「少し意地悪だったね。ごめん。」
「いや…。」
暫くの沈黙の中、他に客のいない店内には静かなクラシックだけが流れていた。
やや不機嫌な表情を見せた巧に向かい、夏美は静かに言葉を続けた。
「さっきは言い過ぎたけどね。多分鈴ちゃんは巧君のこと、好きなんだと思う。」
突拍子もない夏美の話に、巧は小さくため息をついた。
「…鈴花は思慮深い子だ。二度会っただけの俺にそんな感情は持たないだろ。他に頼る大人がいないから同居を提案してきたに過ぎない。」
巧の返答に夏美は小さく首を振った。
「…夏美は他にも何か知っているのか?」
「全然。私が知っていることは全部話したよ。強いて言えば、女の勘…かな。」
「夏美の勘は鋭いからな。」
巧は微笑しながらコーヒーを口に含んだ。
「そうだね。あの日、大ちゃんの告白を受けてどうしようか悩んだけど、選択は間違ってなかったもんね。」
「断る可能性もあったのか?」
「そりゃあ、ずっと巧君のことが好きだったし。」
巧は思わずむせ返した。
「…冗談はやめてくれよ。」
「冗談なんかじゃないよ。覚えてる?私の自転車のチェーンが外れて困ってた日のこと。本当はあの日、巧君に想いを伝えるのは今しかないんじゃないかって本気で思ってたんだよ。」
当然巧はそんなことに気付いてもいなかった。
夏美は表情豊かではあるが、ここ一番のポーカーフェイスは見事なものかもしれない。
まあ、自分が鈍いだけなのかもしれないが。
「でも、結局伝えてこなかったよな?」
巧がそう言うと、夏美は遠くを見るように穏やかな顔をしていた。
「そうだね。きっと、巧君は私になんて全然興味無いんだろうなーっていうのがなんとなく伝わってきたから。冷たいとかじゃないよ?実際助けてくれた訳だし。」
「そんな時に、真正面から気持ちをぶつけてくる暑苦しい男が現れた、と。」
巧の問いかけに夏美の頬が赤くなった。
「まあ、そんな感じ。中学の頃から大ちゃんもずっと見てきたからね。真っ直ぐで誠実な男の子なのは知ってたし、大ちゃんだって格好良かったから。それに…。」
「それに?」
「お姉ちゃんに向ける巧君の笑顔を見たら白旗上げて正解だと思ったよ。私も、私を真っ直ぐに好きでいてくれる人を好きになって、幸せにしたいって改めて思った。」
「…そうか。」
巧は穏やかな表情をしながら目線を下げた。
「…ありがとうね。お姉ちゃんを幸せにしてくれて。」
不意な夏美の言葉に巧は顔を上げた。
「きっと巧君のことだから、鈴ちゃんへの計らいはお姉ちゃんに対する罪滅ぼしみたいな気持ちもあるんでしょ?そういうのは私、怒るからね。」
本当に夏美は勘が鋭いな、と巧は無意識に関心していた。
夏美の瞳には涙がうっすらと浮かんでいた。
「巧君と出会ってからのお姉ちゃんは、本当に幸せそうだった。表情も豊かになった。最後まで巧君との未来を諦めたくなかったはずだよ。」
沈黙する巧に対し、夏美は言葉を続ける。
「お姉ちゃんを救えなかったなんて、もう思わないでほしい。誰がなんと言おうとお姉ちゃんは幸せだった。そしてその幸せを作ったのは、巧君なんだよ。」
「…そうなの、かな。」
巧は温くなったコーヒーを口に含んだ。
あの時と変わらない優しい味がした。
「だから、鈴ちゃんとお姉ちゃんに繋がりがあったとしても、まずは鈴ちゃんという一人の女の子にしっかりと向き合ってあげてね。」
「…ああ。」
夏美は巧の返答に満足気な表情を浮かべた後で席を立った。
「さて、そろそろ帰らないと。」
「送るか?」
「ううん、近いし歩いて帰るよ。大ちゃん達には色々落ち着いたら会いに来てあげて。」
「ああ。ありがとう。」
「…本当に良い顔になったね。」
夏美は巧の顔を覗き込んだ。
「別に俺自身は何も変われちゃいないんだけどな。」
巧は苦笑いを浮かべた。
「ううん。少しずつ巧君は前を向き始めてると思う。…この前は酷いこと言ってごめんね。」
夏美はしょんぼりしたような表情を見せた。
「いや、夏美はいつも俺を正してくれる。今日会えて良かった。」
巧は真剣な顔をして夏美に向き合った。
「そういうこと人妻に言わないでくれる?私もその気になっちゃうから!」
戯けながら顔を赤らめる夏美を見て、巧は声を出して笑った。
夜の7時を回ろうとしていたが、流石にこの時期はまだ空がうっすらと明るい。
巧は穏やかな浜風が吹く砂浜に腰掛け、水平線をぼんやりと眺めていた。
鈴花と出会った時とは違い、海水浴場の駐車場には家族連れのキャンパーの姿が何組か見えていた。
―巧、約束ね。
この場所で玲は、とても悲しそうな表情で海を眺めながらそう言った。
それが玲との最後の会話だった。
死と向き合っていたのだ、明るい表情なんてできる訳がない。
けれど巧には、玲の表情に何か別の感情が含まれていたような気がしてならなかった。
そこに鈴花が関係しているのか?
巧は暫く考えを巡らせた後、ふっと息をついて立ち上がった。
鈴花のところへ帰ろう。
夏美にも言われたばかりだ、今は自分を頼ってくれている鈴花としっかり向き合うべきだ。
時期が来たら話すと彼女は言ってくれたのだ、今はそれを待とう。
巧は静かに駐車場に向かって歩き出した。
その矢先、巧のスマートフォンが鳴り出した。
公衆電話からの着信だった。
嫌な予感がした。
「もしもし。…鈴花か?」
「ごめ…なさ…」
電話越しに鈴花が嗚咽しているのを巧は感じ取った。
「鈴花…どうした?」
「巧さん…私…。」
「鈴花、今どこにいるんだ?」
電話は既に切れてしまっていた。
巧は青ざめた表情でその場に佇んだ。
鈴花は携帯電話を持っていなかった。
防犯のために買い与えようかと提案しても、鈴花は連絡を取り合う友達もいないから、等と言って拒んだ。
あの時強引にでも持たせておくべきだった。
朝はあんなに元気だったのにどうして…?
いや、今はそんなことを言っている場合じゃない。
巧は拳を強く握りしめ、駐車場に向かって走り出していた。
今は鈴花の無事しか願っていないはずなのに、何故だか玲の言葉が巧の脳裏から離れなかった。
―巧、約束ね。
貴方は、貴方を愛してくれる人を幸せにしてあげて。
それはもう、私じゃない。
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