第3話

 巧は不意に後ろから肩を軽く叩かれ、目を覚ました。

「柏木…会社にはなるべく泊まり込むなと言っただろう。うちはブラック企業じゃないんだぞ。」

 香澄はそう言って巧の机に缶コーヒーを置いた。

 巧が腕時計に目をやると、既に時刻は朝の8時を指していた。

「社長…すいません、調べ物をしていたら止まらなくなって。」

 なんだか懐かしい夢を見ていた気がするが、頭がぼんやりとして上手く思い出せない。

 香澄はため息をつきながら窓のブラインドを上げ始めた。

 巧が勤務する出版社の社長兼編集長である香澄は、齢25歳にして学生時代の友人数名と起業した会社を、僅か5年のうちに軌道に乗せたやり手であった。

 巧は急いで立ち上がり残りのブラインドを上げ終えると、大きく背伸びをしながら窓の外をぼんやりと眺めた。

 オフィスはビルの7階だったが、高層ビルに囲まれた小さなビルの窓からは日差しもほとんど入ってこなかった。

 ワーキングチェアで寝たからだろうか、心無しか腰が鈍く痛んだ。

「会社にシャワールームを設けたのは失敗だったな。ここはお前の家じゃないんだぞ。」

 巧は香澄の言葉に苦笑いを浮かべながら、貰った缶コーヒーの栓を開けて口に含んだ。

「柏木の働きぶりには感心させられるし上司として感謝もしている。会社を立ち上げてから間もない時期によくもまあ、こんな優秀な奴が採れたと我ながら思うよ。」

 香澄は眼鏡を傾け、自身のデスクのパソコンを立ち上げていた。

「ただ、お前の場合は働き過ぎだ。無理矢理有給を消化させても職場に来るし…。そんなことじゃ彼女に捨てられるぞ。」

 香澄は綺麗に整えられたブロンドのウェーブヘアーをかき上げながら再び大きなため息をついた。

「そんな人はいないので大丈夫ですよ。」

 巧がそう言うと、香澄は訝しげに巧を睨みつけた。

「…その割に、私が飲みに誘っても全然来てくれないじゃないか。まあ、セクハラだのパワハラだの言われたくないからこれ以上は詮索しないが。」

 彫りが深く、鼻筋が高い日本人離れした顔立ちをした上司は、少女のような顔をしてむくれていた。

 巧は微笑しながら自分のパソコンでスケジュールを確認した。

 今日は、香澄が起業した当初からカメラマンを務めているベテランの鷲見と、月城市内の美容室を十数件ほど周った後、市内人気カフェの新メニュー取材に行く予定となっていた。

 香澄が立ち上げた出版社「Advance」が主力に手掛ける情報誌は、月城市内の店舗等で無料配布されている、いわゆる割引クーポン券付きのフリーペーパーであり、協賛店からの広告収入で成り立っている。

 観光名所こそ少ないものの、ライフラインや商業施設に恵まれ人口も多い月城市において、香澄は他社に無い独自のサービスや特集を多数取り入れたフリーペーパーを刊行し、瞬く間に発行部数を増やした。

 今では、市内新規オープンのあらゆる店舗がこぞって同誌への掲載依頼をしてくるほどの人気情報誌となっている。

 大学時代を月城市で過ごした巧は、東京都内大手の出版社から内定を貰っていながら、不意に手に取ったAdvanceの情報誌に魅力を感じて採用試験を受けたのだった。

 大学生の頃からライター志望だった巧にとって、Advanceでの業務は天職だった。

 その分私生活が疎かになり自宅に帰るペースは徐々に減っていったが、全てを忘れて仕事に没頭しているのが巧にとっては一番気楽だった。


 不意に香澄のスマートフォンが鳴り、香澄はいくつかの問答を繰り返した後に電話を切った。

「…鷲見は今日休みになった。奥さんと子ども両方が熱を出したらしい。取材、私が代わりに同行したいところだが今日は編成会議があるからな…。」

 香澄は難しい顔をしながらミーティングボードに目を向けた。

「それなら俺が撮影も兼務します。少し遅くなるかもしれませんが問題ありません。」

「そうだな…。4月に入った新人にはお前のサポートはまだ務まらないだろうしな。あんな事を言った手前、負担をかけて申し訳ない。」

 香澄は心苦しそうな表情を見せていた。

「社長や鷲見さんにはいつも助けられていますから。」

「…香澄さんでいいよ。お前に社長と呼ばれるのはこそばゆい。」

 香澄はパソコンに向かいながら微笑した。

 軌道に乗ってきたとはいえ、まだまだ発展途上であるAdvanceの社員は少数精鋭であった。

 社長の香澄も率先して現地を駆け回るし、ライターとして採用された巧も取材や写真撮影等あらゆる業務に駆り出されている。

 最も、それすら巧は楽しんでいたのだが。

 巧はオフィス奥のキャビネットから一眼レフのデジタルカメラが入ったバッグを取り出して肩にかけた。

「1番、借りますね。」

 巧は香澄に向かってそう言うと、壁に掛けられたキーフックから「1」と書かれたタグの付いた社用車の鍵を取った。

「ああ。気をつけてな。」

 香澄は、デスク越しに申し訳なさそうな笑みを浮かべて巧を見送った。

 

 

 巧はエレベーターの中で何気無くスマートフォンのカレンダーアプリを開いた。

 今日は6月21日、季節は夏を迎えようとしていた。

 巧は不意に鈴花のことを思い出していた。

 鈴花と出会ったあの日から4ヶ月ほどが過ぎようとしていたが、あれから鈴花からの連絡は無かった。

 あの日は巧にも出過ぎた真似をした自覚はあったし、無沙汰は無事の便りと思っていた。

 けれど、未だに彼女の寂しそうな表情が巧の脳裏から離れなかった。

 「元気でいれば、それでいいんだがな。」

 巧は独り言を呟きながらワイシャツの襟を正し、一階に着いたエレベーターから足早に降りた。

 


 夜の9時を過ぎた頃、巧は車を最寄りのコンビニ駐車場に停めた。

 車から降りた巧は、店舗の隅にひっそりと置かれた灰皿を見つけて安堵した。

 最近は灰皿が置いていない店舗も多く、禁煙車の社用車で外回りをする巧にとっては死活問題となっていた。

 若干時間は押したものの全ての予定を終えた巧は、煙草に火を着け深く煙を吐き出した。

 日中は汗ばむ陽気であったが、さすがにこの時間になると涼しげな風が吹いていた。

 巧は煙草を口に咥えながらデジタルカメラの電源を入れ、撮影した画像をチェックした。

 どの画像も悪くはないのだが、やはり鷲見が撮影したものに比べると一段劣って見える。

 今度また撮影のコツを聞いてみよう。

 巧はそう思いながらカメラの電源を切り、煙草の火を消した。

 店内でブラックコーヒーを買った巧が社用車に戻ると、助手席のシートに置いていたスマートフォンが暗闇の中に光っていた。

 香澄からのメールだった。

 取材内容のチェックと撮影画像のデータ移行は明日で良いので予定が終了次第直帰するように、との内容だった。

 会社への連泊がよほど気がかりだったのだろう。

 香澄の心情を考慮して今日は大人しく家に帰ろうと思いながら、巧は取材の終了と直帰の了解を告げる内容を打ち込んでいたところ、今度は不意に電話の着信音が鳴り始めた。

 画面に表示されていた電話番号は、登録されていない固定電話の番号だった。

「私は月城市民病院看護師の和久井と申します。柏木さんの番号でお間違いないでしょうか。」

 巧は電話相手に肯定の返答をしながら考えを巡らせた。

 月城市内に巧の親族はいない。

 会社の人間にまつわる緊急の連絡ならば、まずは香澄に連絡がいくはずだ。

 巧は様々な疑念を抱きながら看護師の話に耳を傾けた。

 すると、電話越しの看護師は意外な名前を口にした。

「実は先刻、一ノ瀬鈴花さんが緊急搬送されてきまして。ご家族の連絡先を本人に確認したところ柏木さんのお名前とご連絡先を教えてくださいましたので…。」

 巧は一瞬戸惑ったが、すぐに再び肯定の返事をした。

 どうやら症状は軽いようであり、意識もあって現在は点滴を受けているとのことであった。

 巧はすぐに病院に向かう旨を看護師に告げて電話を切ると、スマートフォンを助手席に放り投げて車のエンジンを掛けた。

 症状が軽いことには安堵したものの、鈴花が緊急搬送されたという事実に巧は驚きを隠せなかった。

 なんにせよ彼女は親族として自分の名前を口に出したのだ、きっとそれ以外の術が無かったのだろう。

 彼女のことが気がかりだったとはいえ、できればこんな形での再会はしたくなかった。

 巧はそんなことを考えながらギアを握る手に力を込めて車を発進させた。



 薄暗い救急病棟の通用口に向かうと、窓口にいた警備員の男性にメモ用紙を渡された。

 巧は警備員に求められたとおり、その用紙に氏名と連絡先、そして要件の項目に「親族の緊急搬送」と記載して警備員に返した。

 警備員は巧に渡されたその用紙を確認すると、訝しむ様子も無く巧を奥の処置室に案内した。

プレートに「第二処置室」と表記された部屋の前で、巧は小さく息を吐いてから扉を開いた。

 消毒液の臭いが鼻につく小さな処置室のベッドの上で、鈴花は静かに眠っていた。

 心無しか少しやつれたように見えたが、思いの他顔色は悪くないようで巧は安堵した。

 鈴花の右腕に打たれていた点滴が、ぽつりぽつりと静かに時を刻んでいた。

「柏木さんですか?」

 後ろから聞き覚えのある声が聞こえて巧は振り向いた。

「先程ご連絡致しました看護師の和久井です。」

 エンジ色の制服を着た40代位の女性は、巧に向かって軽く頭を下げた。

巧も併せて会釈した。

「睡眠不足による過労と栄養失調ですね。少し発熱もあるようです。」

 和久井の話を聞くと、どうやら鈴花はアルバイト先の書店で急に倒れ、救急車で搬送されたようだった。

「…失礼ですが、一ノ瀬さんとのご関係は?」

「自分は彼女の従兄弟に当たります。」

 鈴花が現在、遠方の親元を離れ一人暮らしをしながら月城高校に通っていること、同じ月城市に住む従兄弟の自分が、親の代わりに度々面倒を見ていることを巧は簡潔に説明した。

 無論、病院側に怪しまれぬように用意したでまかせの内容だった。

「そうでしたか。…彼女、結構無理をしてアルバイトをしているんじゃないかしら?柏木さんからも厳しく注意してあげてくださいね。」

 和久井はマスク越しに厳しい顔つきをして巧に申し向けた。

「はい。ご迷惑をおかけしました。」

 巧は和久井に対し深々と頭を下げた。

 その後和久井は、点滴が終わったら部屋の奥にいる自分に声をかけて欲しい旨を巧に告げて足早に立ち去った。

 巧はベッド脇のパイプ椅子にゆっくりと腰掛けると、すやすやと眠る鈴花の顔を眺めた。

―あの人のお世話になんて、絶対になりたくない。

 鈴花の父親に対する決意を聞いた時、彼女に対して何も言い出せなかったのを思い出しながら、巧はぼうっと処置室の天井を見上げた。

 一時間ほど経っただろうか、ベッドの上の鈴花が静かに目を開けた。

「よう。久しぶり。」

 巧は敢えて深刻な顔は見せず、微笑しながら鈴花に挨拶した。

 巧の顔を見た鈴花は目を見開き、慌ててベッドから飛び起きた。

「柏木さん!…私、柏木さんに大変なご迷惑を…。」

 巧は自身の口元に人差し指を当て、鈴花の言葉を遮った。

「詳しい話はここを出てからだ。ここでは俺達、親戚同士ということになってるから。」

 鈴花は、はっとした表情で口元を両手で覆った。

「丁度点滴も終わりそうだな。今看護師を呼んでくる。」

 そう言って巧は椅子から立ち上がった。



 病院での会計を済ませた巧は、医師から帰宅許可を得た鈴花を連れて車に戻っていた。

「…すみません。看護師さんに身内の連絡先を聞かれて、他に思いつかず柏木さんの連絡先を教えてしまいました。」

 助手席に座っていた鈴花は肩を竦ませながら呟いた。

「そんなことは気にしなくていい。それより具合は大丈夫なのか?」

「はい。少し休んだら大分良くなりました。あの、この度はご迷惑をおかけして本当にすいませんでした。」

「そんなに畏まる必要はないよ。困ったら呼んでくれと言ったのは俺なんだから。」

「…でもこの車、前に乗せていただいた車と違いますよね。もしかしてお仕事の途中だったんじゃ…?」

 鈴花は申し訳なさそうに巧の顔を覗いた。

 書店の制服だろうか、ストライプのシャツとスラックスを身に着けた彼女は、以前会った時よりも大分大人びて見えた。

「今日は社用車で直帰の指示だったから気にしなくて良いよ。丁度仕事も片がついたところだったから。」

「そうだったとしても…。本当に、本当にごめんなさい。」

 ひたすら謝りながら涙ぐむ鈴花に、巧は少し気まずそうに問いかけた。

「看護師さんにも言われたのだが…。アルバイト、無茶なシフト入れてるんじゃないのか?」

 玲は巧の質問に何も答えず、鼻を啜りながら俯いていた。

 巧は暫らく考え込んだ後、ギアのシフトをドライブに入れて車を発進させた。

「…腹減っただろ。まだ熱もあるようだから外食もしんどいだろうし、とりあえず家まで送るよ。」

 体調を崩して心身共に疲弊している彼女に、これ以上追い打ちをかけるような問い詰めをしても気の毒だ。

 今は何か美味いものでも食べさせて元気づけるのが先決だろうと巧は思い直した。

 助手席に座る鈴花は未だに顔を俯かせたままだった。



 鈴花の部屋を訪れた巧は目を疑った。

 元から何も無い部屋ではあったが、僅かに生活感のあったキッチンからも一切の物が無くなっており、綺麗に片付いていた。

 代わりに小さな段ボール箱が数個、部屋の隅に忽然と置かれていた。

「…これは、どういうことだ?」

 巧は玄関先で俯いたままの鈴花に問いかけた。

「…来週までに部屋を空けなくてはならなくて。家賃を滞納しているので。」

「どうして?だって家賃は父親が…。」

 巧はそこまで話したところで全てを察した。

「まさか…蒸発したのか?」

 玲は小さく頷いた。

 鈴花が異変に気づいたのは5月の初旬だった。

 郵便ポストに、不動産会社からの家賃未納に関する封書が届いていたのだ。

 鈴花は急いで銀行に行き、今まで父が家賃と生活費を振り込んでくれていた口座の通帳を記帳した。

 すると昨年の12月から父からの振り込みは全て止まっており、鈴花が一切手を付けていなかった生活費から家賃だけが引き落とされ続け、残高は4月の時点でほぼ無くなっていたのだった。

 鈴花はすぐに父に聞いた連絡先に電話をするも、既に使われていない番号となっていた。

「図書館のパソコンで父の会社について調べてみたんですけど…。従業員にお給料も支払わないまま、いなくなってしまったみたいです。脱税とか色々悪い事をしていたみたいで。」

 鈴花は淡々と話し続けた。

 巧は無意識のうちに握りしめた拳に力を入れたまま、黙って鈴花の話を聞いていた。

「それからはアルバイトのシフトを増やしたりして、なんとか支払えていない家賃も払おうとしたんですけど、全然足りなくて。焦っているうちに体調も悪くなってしまって…。」

「これから行く宛はあるのか?」

 巧の質問に、鈴花は力無く首を振った。

「市役所にも相談しようと思ったのですが…私は今年の4月で18歳になりましたので。成人なら、自分でなんとかするしかないと思って。」

「どうして…。相談してくれなかった?」

 巧は絞り出すようにそう言いながら、過去の自分の行動を思い返していた。

 ーあくまで今日会っただけの他人に過ぎない。

 あの時そう発した言葉が彼女自身を苦しめていたのかもしれないと後悔した。

「…できません。」

 鈴花は頬を涙で濡らしながら小さく呟いた。

「相談なんて…できません。本当は…初めてお会いしたあの日の夜から、何度も何度も会いたくて、ご連絡しようと思いました。けど…。」

 鈴花は顔を覆いながら嗚咽した。

「ごめん、問い詰めるつもりは無かったんだ。とりあえずまだ熱もあるんだ。布団に横になりな。」

 巧は玄関にうずくまる鈴花の肩にそっと手をかけた。

 震える彼女の肩は、とても小さかった。



 鈴花は薄手のカーディガンを羽織り、巧の用意した卵粥をゆっくりと食べていた。

 調理器具も既に片付けられていたので、巧がコンビニの食材を用いて作った簡単なものだった。

「旨いか?」

 巧の質問に、鈴花は鼻を啜りながら小さく頷いた。

 食欲はありそうだな、と巧は安堵した。

「…ご馳走さまでした。」

 鈴花は卵粥を完食し、静かにスプーンを置いた。

 巧は、近所のドラッグストアで購入してきた体温計を鈴花に差し出した。

 この家には体温計は疎か風邪薬等の常備薬すら無かった。

 鈴花が測り終えると、体温計は「37度5分」を示していた。

 微熱だが病院で計測した時よりは下がっており、巧は再び安堵した。

 鈴花は病院から処方された解熱剤を飲んだ後、布団に横になった。

「あの、本当に何から何まですみませんでした。それに、先程は取り乱して…。」

横になる鈴花の隣で胡座をかいている巧に、鈴花は何度も謝っていた。

「もう謝らなくていいよ。それよりも、これからのことを少し考えよう。」

 巧の言葉を受け、鈴花は仰向けのまま目を瞑り、小さく深呼吸をしながら呟いた。

「…大変失礼な質問なのですが、巧さんって、恋人はいらっしゃいますか?」

 巧は予想外の質問に目を丸くした。

「いや…いないけど。」

「それでは、今はお一人暮らしですか?」

「ああ、市内のマンションに。」

 鈴花は再び深呼吸をして布団から起き上がり、巧の目を真っ直ぐに見て言葉を続けた。

「…不躾なお願いなのは重々承知しています。どうか暫くの間、私をお家に置いてくれませんか?」

 不意な鈴花の申し出に巧は驚いた。

 驚いた理由はもう一つあった。

 巧も同じ提案をしようかと悩んでいたからだった。

 頼る親族もいない彼女をこのまま放り出すことはできないと思った。

 彼女の父親に対する怒りが込み上げていたのも事実だった。

 もう父親しか頼る人がいない彼女を簡単に捨てたのが許せなかった。

 だが、そんな一時の感情で無関係な人間がそんなことを提案して良いものなのか。

 それも鈴花は、初めて会った日から今日まで一度も自分を頼ってこなかった。

 彼女の様子を見る限り何かしらの理由がありそうではあったが、一度会った程度の大人を信用できないのも当然だと思い、言い出すのを躊躇していた。

 藁にもすがる思いなのだろうが、まさか彼女のほうから願い出てくるとは思わなかった。

「ああ。いいよ。」

 巧が静かに了承すると、鈴花は驚いたような表情を浮かべていた。

「…え?…良いん、ですか?」

「そんなに驚くか?君が言い出したんだろ。」

 巧が微笑すると、鈴花は瞳を潤ませながら今日初めての笑顔を見せた。

「ありがとうございます。…本当にお優しいんですね。」

 巧は黙り込んだ。

 そんなに褒められた理由ではないことを巧は自覚していた。

 鈴花の父親への怒り。

 そして多分、過去への贖罪のつもりなのだ。

 偶然とはいえ、あの海で玲と同じように出会った彼女を、今度こそは救いたいと勝手に使命感を感じているだけだった。

 ただの自己満足だ。

 巧はそんな自分自身に嫌気が差していた。

「あの…柏木さん…?」

「あ、ああ。何でもない。」

 心配そうな鈴花の顔に目を向けながら、巧は微笑を見せて答えた。

 鈴花は安堵の表情を見せると、目元を下に向けながら呟いた。

「…私、とても怖かったんです。父のお世話になんかなりたくない、なんて強がっていながら、結局私はあの人の力が無ければ、一人で生活することすらできなかった。一生懸命頑張ってきましたけど、内心はこれからどうなってしまうんだろうって、ずっと不安でした。」

「…まだ学生なんだ、当たり前だよ。」

「だとしても、です。思えば今までだって、お母さんやおばあちゃんに助けられて生きてきたんです。柏木さんの負担になるのは本当に心苦しいのですが、今は心から信頼できる方に頼らせてもらいたいと思います。」

「俺達が会ったのは今日で二回目だ。そんな簡単に大人を信頼しちゃいけないぞ?」

 巧の冗談交じりな言葉に、玲の顔が強張った。

「…二回目じゃ、ないんです。」

 鈴花は静かにそう言うと、切れ長の綺麗な瞳で巧を見つめた。

「…どういうことだ?」

 鈴花の予想外の返答に巧も真顔になった。

「黙っていてごめんなさい。私は、もっと以前から柏木さんのことを知っています。…そして、玲さんのことも。」

 



 

 


 


 

  

 


 

 

 

  

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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