第2話

 とある暑い夏の日の放課後のことだった。

「何の用だ?」

 巧は苛立ちを見せ、屋上のフェンスに寄りかかりながら大吾を問い詰めた。

 間もなく高校生活最後の県予選が始まるという時に、主将が練習を放棄して自分を呼び出している。

 それも、どこか落ち着きが無く頼りない表情をしながら。

 そもそも巧は、大吾が自分と同じ地元の近江高校に進学してきた事を良く思っていなかった。

 中学時代、巧と大吾のバッテリーを擁した地元の中学野球部は瞬く間に県大会を勝ち上がり、全国大会に出場した。

 当時エースだった巧の怪我もあり、全国大会では早々に敗退したものの、捕手で四番を打っていた大吾には、県内外の強豪校から推薦入学の話がいくつかあった。

 しかし大吾はその全てを断り、お世話にも野球部が強いとはいえない地元の近江高校に進学した。

 巧は自分のエゴであることは自覚しながらも、大吾には怪我で野球を諦めた自分の分まで活躍して甲子園を目指してほしいと思っていたし、その才能があると思っていた。

 だが大吾は

「お前と一緒に野球ができないなら、どこに行ってもおんなじだ。」

 等と言い、精々地区大会二回戦止まりの弱小野球部の主将をやっている。

 巧には甚だ疑問だった。

 それでも楽しそうに野球をしている大吾の姿を見ていると、巧は何も言い出すことはできなかった。

 しかし、この男は大事なこの時期にその野球すら放り出したのだ。

 巧の胸中は穏やかではいられなかった。

 グラウンドから聞こえてくる運動部員の掛け声と、吹奏楽部の演奏音が二人の間に響いていた。

「…その、よ。」

 しばらくして大吾は弱々と呟いた。

 いつもの威勢はどこにいったのか。

 巧が今にも大吾の胸ぐらに掴みかかろうとした時、大吾は思ってもいない事を口にした。

「…巧と沖沢さん、付き合ってるのか?」

 巧は思わず静止して大吾の顔を見た。

 日焼けした浅黒い大吾の顔は、心無しか赤くなっているようだった。

 沖沢夏美は巧のクラスメートだった。

 容姿端麗、明朗快活なソフトボール部のキャプテン。

 大きな瞳を輝かせながらいつも明るく笑っている彼女は、男女問わずクラスの、いや、校内の人気者であった。

「何言ってんだ?お前。」

 巧は苦笑いをしながら大吾に詰め寄るのを止め、その場に座りこんだ。

 巧は大体の事を察し、いつの間にか怒る気もしなくなっていた。

「何日か前、お前と沖沢さん、一緒に帰ってたんだろ?部の後輩が話しててよ。」

 巧はぼんやりとその時の事を思いだしていた。

 巧が自転車で下校する途中、たまたま自転車のチェーンが外れて困っている夏美と行き会ったのだ。

 巧が外れたチェーンを直してあげたついでに、他愛もない会話をしながら途中まで一緒に帰っただけの話だった。

「巧が相手なら文句は無い。お前は男前だし、一見無愛想に見えるが凄え良い奴だ。だけどな、その話を聞いてから全然練習に集中できねんだ。俺はどうしちまったんだ。」

 巧が呆けている間に、大吾は聞いてもいないことをべらべらと話し始めた。

 どうやら大吾は、グラウンドの使用分担等で沖沢と会話する機会が増えたことで彼女が気になり出し、練習中もソフトボール部の彼女を目で追うようになっていったらしい。

「沖沢さん、カッコいいんだよ。普段あんなにかわいい顔で笑ってるのに、練習に集中すると凄く凛々しくなるんだよなぁ。」

 巧は先日の事を弁明してやろうかと思ったが、気持ち悪くニヤけながら話し続ける大吾の顔を見て、なんだか面倒くさい気分になった。

「で?どうすんだよ。」

 巧はどこからか取り出したガムを口に放り入れた。

 大吾は不思議そうな顔で巧を見ていたが、巧は気にせず続けた。

「色々と言いたいこともあるが、沖沢はただのクラスメートだ。帰りが一緒になったのもただの偶然だ。それで、お前はどうすんだ?安心してこれからも気持ち悪く沖沢の練習を眺めるだけか?それでいいのか?」

 大吾の表情が徐々に険しくなってきた。

 しかし、黙って巧の顔を観ながら真剣に話を聞いていた。

「男なら、沖沢を全校応援の試合まで連れていって、自分の格好良いところを見せつけてやる、くらい言えないのか?」

 巧はゆっくりと立ち上がりながら大吾の胸元に軽く拳を突きつけた。

「…そうか。そうだよな!」

 大吾の表情に覇気が宿ったのを見て、巧は拳をゆっくりと下ろした。

「サンキューな。巧。俺はホームラン打ちまくって、絶対準々決勝まで勝ち進んでやる。そして、沖沢さんに告白する!」

 大吾はそう言いながら巧を真似るようにして拳を巧に突きつけた後、勢いよく走り出して屋上を後にした。

 巧は一人になった屋上で大きなため息をついた後、噛んでいたガムを包み紙に吐き出し、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。

 多分、嫉妬だな。

 巧は煙草の煙を晴天の空に吐き出しながら思った。

 野球を辞めたことに後悔は無いと、そう自分に言い聞かせてきた。

 けど、あいつの隣で野球を出来ないことが本当に悔しいということに、今更ながらに気がついた。

 俺はもう、あいつと一緒に走り出すことはできないんだ。

 今の俺には、何もない。

 色々なことに真っ直ぐと突き進む大吾の背中がどうしようもなく眩しく、そして妬ましかった。


 県予選における大吾の活躍は目覚ましいものだった。

 全校応援となる準々決勝を賭けた試合では、大吾は大会2本目のホームランを打ち、接戦を制した。

全校生徒の大声援を受けた準々決勝では惜しくも破れてしまったが、大吾はこの日もホームランを打ち、見事な活躍を見せた。

 試合が終わった後、大吾は応援に来ていた夏美に告白しOKをもらえたらしい。

 世界で一番幸せそうな顔をして報告をしに来た大吾を、心から祝福できた自分に巧は安堵していた。

 それから約一ヶ月後の夏休みの登校日、巧は教室で夏美に声をかけられた。

「柏木君!明日って時間ある?」

「…特に予定は無いけど。」

 夏美は巧の返答に目を輝かせていた。

「ほんと?実はね、明日大吾君が私の家に遊びに来る予定だったんだけど、大吾君、急に緊張してきたみたいでさ。」

 巧は嫌な予感がしていた。

「それでね、柏木君が一緒なら大丈夫って言うんだ。だから、、」

「行かない。」

 巧は夏美の話を遮り即答した。

「行く訳ないだろ。自分の彼氏は自分で面倒見てくれ。俺はそんな腑抜けた奴は知らない。」

「え〜。親友なんでしょ?いじわる。」

 夏美がぷうっと頰を膨らませた。

「親友とか関係ないだろ。そもそも俺が沖沢の家に行くのはどう考えてもおかしいし。」

「え〜、全然おかしくないよ。友達なんだし。」

 恥ずかしげも無く自分のことを友達と話す夏美に、巧は一瞬たじろいだ。

 夏美はそんな巧の一瞬の隙をつき、矢継ぎ早に話し始めた。

「よし!じゃあ決まりね!午後2時に私の家に集合!場所は大吾君に教えてるから後で聞いておいてね。」

 巧が言葉を返す前に、夏美はパタパタと教室から走り去ってしまった。

 巧は深いため息をつきながら携帯電話に目を向けると、大吾からも同じような内容のメールが来ていた。

 巧は「この借りはでかいぞ。」とだけメールに返信し、机に突っ伏した。

 酷く憂鬱な気分だった。

 憂鬱な気分は翌日も続いた。

 夏美の家は、町の中で一番大きいのではないかというほどの豪邸であった。

 隣に立つ大男は肩を硬直させて緊張しながら豪邸のチャイムを鳴らした。

 玄関から迎え入れてくれた夏美の母は、とても綺麗な女性だった。

 そこはかとなく夏美に似ているような気がしたが、その上品でもの静かな佇まいは夏美に似ても似つかないと巧は感じた。

 夏美の母は、男子高校生が二人も来たことに一切怪訝な表情を浮かべず、朗らかな笑顔で二人を夏美の部屋に案内してくれた。

 夏美の部屋は、いかにも女の子の部屋という感じで、たくさんのぬいぐるみがベットや本棚の上に鎮座していた。

 部屋主のいない部屋で、暫らくの間二人は無言で部屋のクッションに座っていた。

 巧は顔を強張らせながら貧乏ゆすりをする大吾を横目に入れながら、気だるそうにスマートフォンをいじっていた。

 暫らくすると部屋のドアが開き、夏美が大きなチョコレートケーキを持って現れた。

 どうやら今朝から母に習って作っていたらしい。

 皿に取り分けられたケーキは、巧の舌には少し甘すぎたものの、夏美に感想を聞かれて「美味しいよ。」とだけ返した。

 隣では大吾が美味い美味いと、何切れもケーキを頰張っていた。

 夏美はそれを嬉しそうに眺めていた。

 それからは巧にとって苦痛の時間だった。

 大吾は当初の緊張は何処へやら、今は楽しそうに夏美の中学校時代の卒業アルバムを二人で見ながら、ワイワイとはしゃいでいる。

 巧は居心地の悪さを覚え、二人にトイレに行くと告げて部屋を出た。

 そのまま巧は、リビングにいた夏美の母に軽く挨拶をして玄関に向かった。

 玄関で靴を履いていると、後ろから声を掛けられた。

 夏美の母だった。

「ごめんなさいね。夏美に無理矢理連れてこられたのでしょう?」

 夏美の母は申し訳なさそうに頭を下げて言葉を続けた。

「あの子ったら、初めて男の子と交際したものだから色々と緊張しちゃってね。この前、三松君と二人でお買い物に行った日も、凄く楽しかったみたいなのだけど、酷く気疲れしたみたいでね。」

 どうやら緊張していたのは大吾だけじゃなかったらしい。

 巧は、普段の夏美の姿からは想像できない一面に驚きながら、申し訳無さそうな顔をする夏美の母に言葉を返した。

「いえ、暇でしたから。自分としても親友が素敵な子と付き合えて良かったと思っています。」 

 それは巧の本心であった。

 無理矢理連れてこられたことは確かに面倒臭く思っていたが、楽しく会話する二人を微笑ましく思ったのもまた事実だった。

 巧の母はほっとしたような顔でにこやかに手を振った。

「柏木君も、またいつでも遊びに来てね。」

 巧は夏美の母に会釈をして家を後にした。

 

 

 冷房の効いた夏美の家を出ると、外はうだるような暑さだった。

 巧は額にかいた汗を手で拭いながら近くの駅へと歩いて向かった。

 巧の家はここから電車で一駅の地区であり、歩いて帰れなくもない距離ではあったが、流石にこの暑さの中、汗だくで帰る気にはなれなかった。

 駅に着いた巧は更にげんなりした。

 駅の時刻表を見ると、先程電車が経ったばかりであり、次の電車の時刻まではあと二時間ほどもあった。

 これだから田舎の地方線は使えないんだ、等と心の中で恨み節を唱えながら、巧は古びた無人駅のホームから飛び降りた。

 線路を跨ぎ、錆だらけの小さな柵も軽々と飛び越えた巧は、辺り一面の砂浜に座り込んだ。

 波の音とウミネコの鳴き声が止めどなく響いている。

 巧の思惑通り、海の方向から吹き付けてくる風はとても涼やかで心地良かった。

 巧はズボンのポケットから取り出した煙草に火を点けた。

 見慣れた青い海をぼんやりと眺めながら、巧はゆっくりと煙を吐き出した。

 その時だった。

「いけないんだ。高校生が煙草なんて。」

 吹き抜ける風のように涼やかな声だった。

 巧はドキリとして咥えていた煙草を砂浜にねじ込み、後ろを振り返った。

 そこには麦わら帽子と白いワンピースを身につけた女性が、にこやかに笑いながら立っていた。

 とても美しい人だった。

 やや切れ長の綺麗な瞳。

 肩にかかるくらいの長さの黒く美しい髪が、風にそよそよと揺れていた。

 巧は思わず言葉を失っていた。

「柏木君、だよね?」

 その女性は硬直した巧に優しい笑顔を向けながら、穏やかに言葉を続けた。

 どうして彼女が自分の名前を知っているのか、巧は一瞬疑問に思ったが、暫らくして彼女が誰かに似ていることに気が付いた。

 「…もしかして、沖沢のお姉さんですか?」

 巧は動転しつつも、絞り出すように言葉を発した。

 夏美に姉がいることは、先日一緒に帰った時に彼女から耳にしていた。

「良く分かったね。あんまり夏美には似てないって良く言われるから。」

 玲は目元を緩ませて穏やかに笑った。

「…いえ、似ていますよ。けど、どちらかといえばお母さんの方によく似ています。」

 玲の穏やかで落ち着いた佇まいは、夏美の母と瓜二つであった。

 玲はフフっと上品に笑い、巧に向かって丁寧にお辞儀をした。

「夏美の姉の玲です。妹がお世話になっています。」

 手前に重ねられた玲の細い手は、ワンピースと同調するかのように白く透き通るようであった。

「いえ…こちらこそ。」

 巧は慌てて立ち上がると、ズボンの砂を払い玲に一礼した。

「お邪魔しちゃいけないと思って散歩してたんだけど、もう帰っちゃうの?」

 玲は巧の顔を覗きこみながら質問した。

 巧が苦笑いをしながら頷くと、玲は残念そうな顔をした。

「どうして?夏美、昨日から楽しみにしてケーキ作りの準備とか頑張っていたのよ。」

「大吾と会うのを…でしょ?俺はただのおまけみたいなものだったんです。」

 巧の返答に玲は何か言いたげな素振りを見せるも、静かに下を向いた。

「もともと、場違いだったんですよ。自分は。」

 巧は構わず、薄ら笑いを浮かべながら話し続けた。

「あいつは…大吾は、昔から困ったことがあればすぐ俺に泣きついてくるくせに、結局最終的には全部自分で解決するんです。今日だってそうだ。」

 不思議にも巧は、初対面の玲に対してつらつらと今まで誰にも話したことが無いような本心を語り出していた。

 玲は口元を引き締めながら黙って巧の話を聞いていた。

「大吾は凄い奴です。俺を親友なんて呼んでくれるけど、俺はあいつと違って、そんな価値のある人間じゃないんですよ。」

 玲は目を閉じながらゆっくりと首を振った。

 巧は構わずに話し続けた。

「俺は、最低なんです。この前の試合の時だって、俺は…。」

 蓋をしていた自分の感情が溢れ出すように、巧は次第に声を荒らげながら話した。

 どうしてかは分からなかったが、巧は玲を前にして自分自身を抑えることが出来なくなっていた。

 そんな時だった。

「大丈夫。」

 玲の優しい声がした。

 それと同時に、巧は玲に優しく包容されていたことに気がつき、呆然としていた。

 こんなに暑い日なのに、巧を包んだ玲の細い腕はひんやりと心地良かった。

「大丈夫だから。柏木君。」

 玲は再び優しく巧に言葉を投げかける。

 巧は自身の胸元から聞こえてくる玲の言葉に困惑しながらも、次第に心が落ち着いていくのを感じていた。

「あの…玲さん。」

 巧は棒立ちしながら、自身に抱きついている玲に言葉を向けた。

 玲は、巧の言葉にはっとしたような顔を見せるとすぐに巧の身体から離れ、慌てるような素振りで砂浜に落ちた麦わら帽子を拾った。

「ご、ごめんね。びっくりしたよね。」

 玲は拾った麦わら帽子を先程より深々と被りながら呟いた。

「いえ…俺こそいきなり大きい声出して、すいませんでした。」

 巧は自分の顔が僅かに赤らんでいることを自覚し、玲から目を背けながら話した。

「…向こうに日陰があるんだ。折角だし、少しお喋りしない?」

 暫らくの沈黙の後、玲が口を開いた。

 巧は静かに頷いた。

 巧も、玲ともう少し話をしたいと思っていたので断る理由など無かった。


 

 浜辺に建つ小さな小屋の軒下には、そよそよと涼しい浜風が流れこんでいた。

 以前は海の家として使用していたようだが、今はこの辺り一体が遊泳禁止に指定されていることから手入れもされず古ぼけていた。

 とはいえ、日差しを遮るには十分であった。

 ここから少し離れた遊泳場所では、多くの人が海で遊んでいる姿が小さく見えた。

「…この前の大吾の試合。」

 巧は駅の自動販売機で買ったペットボトルの水を口に含んだ後、隣に座る玲に話し始めた。

「全校応援だったんです。…今までは二回戦が精一杯だったのに、ベスト8ですよ。凄いですよね。」

 玲は同じく自動販売機で買ったアイスティーの缶を首筋に当てながら静かに巧の話を聞いていた。

「けど俺は、あいつが負けた瞬間、ほっとしたんです。最低ですよね。」

「…どうしてほっとしたの?」

 玲は優しく問いかけた。

「多分、悔しくなったんだと思います。俺以外の奴の球を受けるあいつをこれ以上見たくなかった。」

 巧は海の先を眺めながら静かに答えた。

「可笑しいですよね。もう野球なんて出来なくなってもいいって、思ってたはずなのに。」

「…大吾君と、チームの皆の、ために?」

 玲のその一言に驚き、思わず巧は玲の顔を見た。

 玲は穏やかに笑っていた。

「…どうして、それを?」

 巧は狼狽しながら玲に訪ねた。

 玲は少し戸惑うように話し始めた。

「これはね、夏美から内緒にしてって言われていたことだから、話すかどうか迷ったんだけど…。」

 玲はアイスティーの缶を開け、こくりと一口飲んだ後に話を続けた。

「…あの子、中学時代からあなたのファンだったの。」

 巧は以外な玲の返答に戸惑っていた。

 玲はそんな巧の顔を見ながら微笑んだ。

「びっくりした?柏木君とは学区が違うからね。あの子、自分の練習が休みの日は結構あなたの中学に行って練習を見ていたみたいよ。」

 確かに中学時代、他校の女子生徒がちらほら練習を見に来ていて、よく大吾らにからかわれていたのを巧は思い出していたが、まさかその中に夏美がいたとは思いもしなかった。

「もちろん試合も結構見に行っていたのよ。あの県大会の決勝戦もね。」

「あの、試合を…。」

 巧は声を絞り出すように呟いた。

「あの試合は私も夏美に誘われて一緒に見に行っていたの。当時、色々あって落ち込んでいた私を元気づけてくれようとしたのね。優しい子。」

 玲は優しくも少し寂しそうな表情をしながら話を続けた。

「柏木君、凄く格好良かったよ。相手も凄い強いチームだって夏美から聞いていたけど、涼しげな顔しながらどんどん三振取っていて。」

 巧は俯きながら静かに玲の話を聞いていた。

「けど、途中からとても苦しそうな顔をしながら投げていたよね。もしかして、どこか痛いのかな?って私思ったの。」

 玲の言うとおりだった。

 正確には、決勝戦前から肘に痛みがあり、医師からは決勝戦では投げるべきではないと言われていた。

 しかし巧は投げた。

 お世話にも層が厚いとはいえない巧のチームには、決勝の相手と投げ合える投手は他にいなかった。

 いや、そんなのは建前だった。

 決勝戦を前に士気が高まる大吾らに対してそんなことを言いだす勇気が無かった。

 それ以上に、巧も大吾達と一緒に全国大会に行きたかった。

 だから、なんとしても勝ちたかった。

 例え自分の腕が壊れようと…。

 結果、巧は決勝戦で相手を完封し、見事全国大会への出場を決めた。

 しかしその代償として、巧の腕は限界を迎えた。

 あの試合が大吾とバッテリーを組めた最後の試合となったのだ。

「…柏木君、よく頑張ったね。」

 玲は微笑みながら巧の頭を撫でた。

 巧は目に涙が浮かび上がってきているのを感じていた。

 人前で涙を見せるのは母が死んだ時以来だった。

「…全然、そんなんじゃ、ないんです。ただの、自分のエゴだったんです。現に今、俺はこうやって、未練ばっかり…。」

 巧は玲の心地良い手のひらの中で一言一言を絞り出すように呟いた。

「それでも。柏木君は素敵だよ。」

 巧は思わず顔を上げ、玲の顔を見た。

 心無しか玲の顔が赤らんでいるように見えた。

「少し、私の話もしていい?」

 玲は赤らんだ顔を隠すように麦わら帽子を深く被り直して呟いた。

 巧は静かに頷いた。

「私ね、小さい時から身体が弱くて何回も入退院を繰り返していたの。小学生の頃から体育の授業なんてほとんど見学だったし、学校に行けない期間も長かったから友達もほとんどいなかった。」

 玲は眼の前の海を眺めながらゆっくりと話し始めた。

「本当は高校に通うことすらお父さんに反対されてたんだ。けど、必死にお願いしたら家から通える近江高校ならって、許可をもらえたの。時期は被ってないけど私、柏木君の先輩なんだよ?」

 玲は笑っていたが、巧にはどこか寂しげな表情に見えていた。

「私、小さい頃からピアノを弾くのが好きで、東京の音楽大学でピアノの勉強がしたいって、ずっと思ってたんだ。」

 玲が握っていたアイスティーの缶が微かに震えているように見えた。

「けど、それはお父さんに最後まで許してもらえなかった。私のことを心配してくれているのは分かっていたんだけど…何か、そんな気持ちすら鬱陶しく思ってしまうくらい落ち込んじゃって。」

 巧は胸が苦しくなっていた。

 巧が野球を辞めたのは自分自身の決断だったし、怪我をしたのも自らの選択で無理をしたことが原因だった。

 しかし、玲にはそんな選択すら許されなかったのだ。

「…そんな顔しないで?」

 巧は玲の言葉に我に帰った。

 玲はそんな巧の心情を察するかのように優しく微笑んでいた。

「そんな時だったの。夏美に連れられて巧君の試合を見に行ったのは。」

 玲は当時を思い出すように目を細めていた。

「柏木君、とても苦しかったはずなのに、心配する監督さんや三松君には全然そんな素振り見せてなかったよね。」

「…そんなところまで分かったんですか?」

「分かるよ。だって私もあの試合を見て巧君のファンになったんだもの。ずっと目で追ってたんだ。」

 玲は夏美とそっくりな悪戯っぽい笑顔を見せた。

「当時の私は、どうしてこんな身体に生まれたんだろう、どうしてお母さんは私を健康な身体で産んでくれなかったのだろうって、そんな酷いことばかり考えてた。けど。」

 玲の言葉に力が籠もり始めていた。

「あの日の柏木君の姿を見て、私は自分の考えを恥じたの。ああ、この子は私のように無いもの強請りなんかせず、今という時間を懸命に生きているんだ、ってね。」

「そんな…。大袈裟ですよ。」

 巧は微笑しながら照れ隠しをするように玲から目を背けた。

「大袈裟なんかじゃないよ。あの日から柏木君は、私のヒーローなんだもの。だから、偶然ここで会えてびっくりしちゃった。」

 玲は真っ直ぐに巧の顔を見つめていた。

 巧にとってあの試合は忘れたい記憶だった。

 確かに試合には勝って全国大会には行けた。

 しかし、全国大会では投げることができず、チームは初戦で大敗を喫した。

 大吾らチームメイトがベンチ裏で涙を流す姿を見て、自分がしたことは本当に正しかったのだろうか?チームメイトを信頼して決勝戦の登板を回避し、少しでも肘を休めればもっと違う結果になっていたんじゃないだろうか?と何度も自問自答した。

 巧にとってあの試合は、未練と後悔の塊のようなものでしかなかった。

 けれど、目の前の彼女はそんな自分の姿に救われたと言ってくれている。

 巧はなんだか、あの日の自分の決断が初めて報われたような気がしていた。

「…それからはね。」

 暫らくの沈黙の後、玲は再び言葉を続けた。

「私も無いもの強請りはしないで、自分にできることを頑張ろうって思ったの。今は定期的に入退院を繰り返しながら、近所のこども達にピアノ教室を開いてるんだ。とても良い子たちばかりで毎日楽しいの。」

 玲は巧に屈託の無い笑顔を見せた。

「…俺も、何だか救われたような気分です。ありがとうございます。」

 巧も笑い返しながら玲に一礼した。

 その時だった。

 玲は持っていたアイスティーの缶を足元に落とした。

 巧が玲の方を見ると、玲は額を右手で抑え苦しそうな表情をしていた。 

 元々色白であった玲の顔色は更に青白くなっていた。

「玲さん!」

 巧は咄嗟に玲の小さな両肩を抱えた。

「…ごめんなさい。ちょっとクラっとしただけ。今日、暑かったからね。」

 玲は冷汗をかきながらも巧に笑いかけた。

「帰りましょう。俺がおぶっていきます。」

「だ、大丈夫よ。ちゃんと歩けるから。」

「いいから!」

 巧がやや強い口調でそう言うと、玲はコクリと小さく頷きながら麦わら帽子を深く被った。

 巧は、それが玲の照れ隠しの仕草だということにようやく気づいた。

 


「ごめんなさい。重いでしょう?」

 巧の背中の上で玲は小さく呟いた。

「全然です。むしろ軽すぎて驚いています。」

 本心だった。

 手足も細く、とても華奢だとは感じていたものの、こんなに軽いとは思ってもいなかった。

「体調は大丈夫ですか。」

「うん。大分落ち着いてきた。ありがとね。」

 巧は玲の返答に安堵しながら海岸線の歩道を歩いた。

 間もなく夕方の6時を回ることもあり、暑さは大分落ち着いてきていた。

 浜風が涼しげに巧の顔に吹き付けてくる。

「一つ、玲さんに質問していいですか。」

「なあに?」

「今日、家にいたくない理由があったんですか?」

 巧の後ろから返答は聞こえてこなかった。

 身体の弱い彼女がこんなに暑い日に一人で出掛けているというのは不自然だ、と巧は少し疑問であった。

 妹に客人が来るとはいえ、構わずに自室で休んでいれば良いだけの話だ。

「…負い目、かな。」

 暫らくしてから巧の背中から小さな声が聞こえてきた。

「負い目?…沖沢、に?」

 以外な返答だった。

 玲の話を聞いていた分には、姉妹間の仲は良さそうに巧は感じていた。

「今日、柏木君達が家に来るって夏美に聞いて、私も最初はとても嬉しかったの。柏木君と一度お話ししてみたかったから。」

 ―柏木君は私のヒーローなんだもの。

 巧は玲の言葉を思い出していた。

「夏美も、私のことを柏木君達に紹介したいって、言ってくれたんだけど…。」

 巧の肩を抱く彼女の細い腕が、僅かに震えたような気がした。

「…夏美、可愛いでしょ。とっても元気で。」

 玲は小さく呟くように言葉を続けた。

「私なんかが会っても、夏美の大切な人達の気を悪くするって思って断ったの。私は、夏美とは正反対で身体も弱いし、明るくも無い。」

 玲の言葉が震えていることに巧は気づいていた。

「けど、家で夏美と柏木君が楽しくお話ししている姿を想像すると、なんだか胸がもやっとしたというか…ごめんなさい、上手く説明できないけど…なんだか落ち着かなくて、外に出たの。おかしいよね?」

 彼女は自分に似ている。

 巧は玲の話を聞きながら感じていた。

 玲は夏美のことを大切に思っている。

 それは紛れのない事実だろう。

 しかしその反面、彼女は夏美に対して拭えない劣等感を抱えながら生きている。

 そして、そんな自分を許せないでいるのだ。

「…今日、気まぐれであの海に行って良かった。」

 巧は意図せず呟いていた。

「…え?」

 玲の戸惑った返答を聞き、巧は自分の本心が声に漏れてしまったことに気づいたが、この際全てを彼女に話してしまおうと思った。

「…今日、会えて良かったです。玲さんに。」

 背中の上の玲が小さくピクっと動いたのを巧は感じていた。

「玲さんは、俺のことをヒーローって言ってくれましたよね。残念ながら、俺は過去の未練に縛られながら毎日を抜け殻のように生きてるようなつまらない男で、ヒーローなんかには程遠い。」

 巧は大きく息を吸い込んで言葉を続けた。

「だけど今日、玲さんに出会って、俺は玲さんに恥じない人間になりたいって、思えるようになりました。玲さんが胸を張って俺のことをヒーローって言えるように。」

 巧は我ながら恥ずかしいことを言ってるなと苦笑いを浮かべながら、心無しか歩調を早めていた。

「…じゃあ、まずは煙草を止めないとね。」

 巧の背中の上でそう呟いた玲の声は、僅かに震えているようだった。

 巧は深く頷いた。

「煙草を止められたら、今度玲さんのピアノを聞かせてくれませんか?」

「喜んで。」

 玲は鼻をすすりながら返事をした。


 

 家の前に着くと、玄関先では玲の母親が安堵の表情を浮かべながらこちらを見ていた。

「お姉ちゃん!」

 その後ろから、夏美が勢いよくこちらに向かって走り出してきた。

「ずっと部屋にいると思ってたのに。心配したんだから!ばか!」

 夏美は半べそをかきながら、既に巧の背中から降りていた玲に抱きついていた。

「ごめんね…夏美。本当にごめん。」

 玲もそう言って優しく夏美を抱きしめた。

 玲の謝罪の本当の理由を知るのは、この場で巧だけだった。

「…スマホ、忘れてたぞ。道理で連絡がつかねえ訳だ。」

 玲の姿を眺めていた巧の後ろから、大吾が肩を叩きながら声をかけた。

「おお、すまん。」

 巧は大吾からスマートフォンを受け取った。

「…大吾。」

「何だ?」

「…悪かったな。」

「急にいなくなった事か?まあ、結果的に夏美のお姉さんを助けてくれたんだ。いいってことよ。」

「いや、その…色々だよ。」

 大吾は不思議そうな表情を浮かべていた。

 巧は何かが吹っ切れたように明るい笑みを浮かべ、大吾の肩を叩いた。

 相変わらず大吾はきょとんとしていた。

 巧はオレンジ色の夕日を穏やかな顔で眺めていた。


 

 二か月後の秋、巧と玲は交際を始めた。

 巧に告白された玲は、

「たちの悪いお姉さんに捕まっちゃったね。」と言いながら、瞳に涙を浮かべて微笑んでいた。

 巧がその涙の本当の意味を知るのは、もう少し先の話だった。


 

 

 


 

 

 

 

 



  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

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