第1話

「帰ってたのか。」

 自宅のカーポートに車を停めた達郎は、隣に停められていたシビックを目にして独り言を発した。

「おかえり。親父。」

 車を降りた達郎の後ろから、言葉と共に放り投げられたグローブを達郎は両手で受け取った。

「なんだ、この寒い中、夜勤明けの俺の身体を更に酷使するつもりか?巧。」

 達郎はニヤリと笑みを浮かべた。

「軽いキャッチボールだよ。どうせ仕事にかまけて運動不足なんだろ?」

「ああ。違いないな。」

 巧の言葉に微笑しながら、達郎は左手にグローブをはめた。

 夕日でオレンジ色に照らされる景色の中を、白い軟式球が綺麗な放物線を描きながら何度も往復していく。

「巧、いい球投げるじゃないか。もう肘は大丈夫そうだな。」

 パァン、とグローブから気持ち良い音を出しながら、達郎は巧の投げるボールを受ける。

「たまに草野球の試合に参加できるくらいには回復したよ。流石にピッチャーは無理だけどな。」

 巧も負けじとグローブから良い音を鳴らして達郎のボールを受ける。

 達郎の投げる球もまた、年齢を感じさせないほどのノビを見せていた。

「親父こそ、全然衰えてないじゃんか。」

「馬鹿言え。もう腰が痛くなってきたよ。」

 他愛もない親子の会話の中、グローブの気持ち良い音が綺麗なリズムで響いた。



「なんだ。泊まっていかないのか?」

 冷蔵庫からビールとノンアルコールビールの缶を一缶ずつ取り出してきた巧に対して、達郎はタオルで首元の汗を拭いながら尋ねた。

「一応明日までは有休取ってるんだけどね。原稿の校了が近いから、明日の朝は職場に少し顔を出したくてさ。」

 巧はそう答えて缶ビールを達郎に差し出した。

「休みを取って仕事とはな。これだから日本人は働きすぎだと言われるんだ。」

 達郎は缶ビールを受け取り、巧の持っていたノンアルコールビールの缶に軽く合わせた。

「仕事人間の親父に言われちゃおしまいだな。」

 巧は微笑しながらノンアルコールビールを口に含んだ。

 「ところで、随分と部屋が片付いてるな。冷蔵庫の中も珍しく綺麗に整理されているし。」

 巧の言葉に、ビールを飲む手を一瞬止めた達郎はニヤリと笑った。

「察しが良いな。流石、刑事の息子だ。」

 達郎はそう言うと、巧が作った砂肝炒めを美味そうに頰張った。

「2年前くらいから腰痛が酷くなってきてな。近くの整体に通うようになったんだよ。」

 暫くしてから、達郎は手元のリモコンでテレビを点けながら話し始めた。

「そこの受付をしてるお嬢さんとな、と言っても、もう40歳になるんだが、結構話があってな。まあ、そんな感じだよ。中々中年らしい出会いだろ。」

 達郎は特に照れる様子も無く、プロ野球のテレビ中継を眺めながらビールを口に含んだ。

「10歳以上も歳が離れてるのかよ。向こうは家庭持ちとかじゃないよな?」

 巧は冗談混じりでそう言うと、微笑しながらノンアルコールビールを口に含んだ。

「当たり前だろ。けどまあ、いわゆるバツイチってやつだな。高校1年になる息子がいる。」

「会ったことはあるのか?」

「ああ。中々しっかりとした好青年だ。俺のことも多分良く思ってくれている。…ただ、なあ。」

 次第に達郎の顔が雲った。

「サッカー部なんだとさ。そこは野球だろ!」

 そう言いながら達郎が悔しそうにビールを流し込む姿を見て、巧は声を出して笑った。

 思えば、巧が5歳の頃に母親を事故で亡くして以来、達郎のそういう浮いた話は一切聞こえてこなかった。

 身内の贔屓目を抜かしても、達郎は筋肉質でスタイルも良く、整った顔立ちをしており、寡黙だが人を気遣える優しい心を持った男だ。

 そんな彼に声をかけてくる女性が、これまでにも少なからずいたはずだろうと巧は漠然と思っていた。

 それは母への負い目からなのか、はたまた息子が自立するまではと自分に言い聞かせてきたからなのか。

 巧にはその理由は分からなかったが、父の馴れ初め話を聞いて、なんだか微笑ましい気持ちになりながらノンアルコールビールを流し込んだ。

 今まで一度も美味いと思ったことがなかったノンアルコールビールが、今日は不思議と美味く感じた。



「さて、ぼちぼち帰るんだろ?少し外に出ないか?」

 キッチンで夕飯の片付けをしていた巧に、達郎は煙草を吸う仕草をしながら問いかけた。

「止めたんじゃなかったのか?」

 巧はそう言うとシンクの蛇口を止め、タオルで手を拭きながらシャツの内ポケットに入れていた煙草を手に取った。

「止めたよ。だからお前から貰うんだ。」

 達郎はニヤリと笑いながらジャンパーを羽織った。

「昔何本もくれてやったろ。1本くらい返せ。」

 不意な父のその言葉に巧はギクリとした。

「・・・やっぱり気づいていたのか。」

 すると達郎はとぼけたように

「何のことだ?警察官が高校生の息子に煙草をやるなんてことあるはずないだろ。なんか本数が減ってるなーと思った事があったから、カマかけただけだ。」

 と話し、高笑いを浮かべた。

 やられた。

 そう思いながら巧は、苦笑いを浮かべつつコートを羽織り、したり顔をして玄関に歩いていく達郎の背中を静かに追った。

 夜空には満天の星空が広がっていた。

「やっぱり冬の星空が一番だな。」

 達郎は、感慨深い面持ちで煙草の煙を空に吐いた。

 白い息と相成り、一段と大きく広がったその煙は、みるみるうちに夜空へと消えていった。

 巧はそんな達郎の姿を少し後ろで黙って眺めながら、煙草に火を点けた。

「なあ、巧。」

 不意に、達郎が星空を眺めたまま後ろの巧に問いかけた。

「母さん、、深雪は、俺が違う人と一緒になることを許してくれるかな?」

「俺に聞かれても分からないさ。母さんに聞いてみなよ。そのためにここに来たんだろ?」

 巧も煙草を咥えながら空を見上げた。

 ―母さんは星になったんだ。

 幼い巧が母を失って泣きじゃくった時、父は優しくそう言ってくれた。

 だから幼い頃は二人でよく星空を眺めながら、色々な他愛もない話をして笑い合った。

 少しでも二人の声が母の元に届くように。

「・・・あいつめ。」

 黙って空を見上げていた達郎が急にククっと笑い出した。

「まあ、そろそろ許してあげようかな、だとさ。」

 巧も釣られて笑い出した。

 二人の煙草の煙が、高らかに星空に吸い込まれていった。



「大吾君と夏美ちゃんは元気だったか?」

 車に乗り込もうとする巧の背中に、達郎は巧から貰った2本目の煙草を吸いながら問いかけた。

「うん…まあね。」

 振り返りそう返事をしつつ、巧は我ながらぎこちない笑顔を達郎に向けてしまったと感じていた。

「俺も消防士の大吾君には仕事柄、良く現場で会うけどな。みまつでもたまに一緒になるし。けど、夏美ちゃんの顔は久しく見てないなあ。」

 達郎は、そこまで話したところで巧の表情の様子から何かを察したように、静かにゆっくりと言葉を続けた。

「巧。母さんはこんな事も言っていたぞ。私はお父さんより巧の事が心配よ、ってな。」

 巧は静かに達郎の顔を見つめた。

 達郎は巧には目を向けず、ゆらゆらと浮かぶ煙草の煙を優しい顔で眺めていた。

「自分も変わらなきゃ、とか変な事を考える必要は無い。自然体で好きなように楽しく生きろ。それが俺と深雪の一番の願いだ。」

「うん。ありがとう。」

 巧は微笑しながら小さく頷いて車に乗り込んだ。



 巧は車のハンドルを片手で握り、浜沿いの国道を走らせていた。

 薄暗いオレンジ色の街灯が次々と通り過ぎていく。

 巧の住む街は、高速道路に乗れば2時間もかからず帰れる距離だったが、なんだか今日は遠回りをしたい気分だった。

 車のラジオでは巧の好きな海外アーティストの音楽が流れていたが、巧の耳には全く入ってこなかった。

 複雑な気分だった。

 父や友人たちの変化を心から喜ばしく思った。

 それと同時に、過去に囚われたままの自分が浮き彫りになったのを感じていた。

「自然体で好きなように。か。」

 巧は、達郎に言われた言葉を思い出しながら独り言を発した。

 この町にはもう帰ってきたくなかった自分。

 それなのに、車を飛ばせば簡単に帰ってこれる距離に住んでいて、こうして帰ってきた自分。

 巧にはもう、一体どの自分が自然体なのか分からなくなっていた。 

 助手席側の窓の向こうには、暗い闇に包まれた広く黒い海が広がっていた。

 かけがえのない思い出が沢山詰まった、大嫌いな海。

 そんな海を自分の意思で目に入れる。

 違う帰り道を選択することもできたのに。

 巧は自分自身の矛盾に苛立ち、徐ろにラジオのボリュームを上げた。

 その時だった。

 不意に、今ここで車を停めなければならないような気がした。

 そんな声が聞こえたような気がした。

 おかしいな、昔から霊感なんて持ち合わせていないのに。

 巧は微笑しながら半ばやけくそで近くの海水浴場の駐車場に車を停めた。

 行楽シーズンになればキャンプや海水浴を楽しむ観光客で賑わうその駐車場も、当然ながらガランとして静まり返っていた。

 闇の中に佇む自動販売機の明かりだけが不気味に煌々と点っている。

 巧は車から降りてコートを羽織った。

 駐車場に則したコンクリートの階段を降りていくと、そこには見慣れた砂浜が辺り一面に広がっていた。

 その砂浜の先の仄暗い海には、丸い月影だけがゆらゆらと浮かび、不快な波の音を絶え間なく響かせているばかりだった。

 風が冷たい。

 巧はコートの襟に顔を屈めながら、静かに砂浜の上に座りこんだ。

 ポケットから取り出した煙草を口に咥えるも、風が強くてライターの火は点かない。

 巧は諦め、咥えていた煙草を砂浜へと乱暴に放り投げた。

「何してんだろ。俺。」

 小さく独り言を呟いた巧は、ゆっくりと立ち上がりスーツの砂を払った。

 それと同時に目を丸くした。

 暗さに慣れてきた巧の目に、暗闇に佇む一つの影が映し出されていた。

 それは、今にも足が波に浸かりそうな距離で砂浜に佇む人の姿に見えた。

 本当に幽霊に呼ばれたのだろうか。

 巧は自分でも意外なほどに、この現状を冷静に受け取めていた。

 呼ばれているのか?君に。

 だったらそれも、悪くはないかな。

 ぼんやりとそんなことを考えていた巧は、次の瞬間、その人影を目掛けて全速力で走り出していた。

 その人影が、海に向かってゆっくりと足を進めていったのだ。

「止めろ!」

 思わずそう叫んだ巧は、咄嗟に後ろから両手でその人影を羽交い締めにした。

 想像以上にか細く、小さな身体だった。

「ひゃっ!」

 人影が発した弱々しくも澄んだその声は、巧を戸惑わせた。

 間違いなく女性の声だった。

 巧は、女性を羽交い締めにしている現状に抵抗を覚えたが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。

 巧は両手の中でジタバタと抵抗する彼女を必死に抑えつけた。

 冷たい海水が巧の靴の中を覆う。

「違うんです。形見が、おばあちゃんの形見が!」

 澄みきったその声で、彼女は見の前の海に必死に手を伸ばしながら弱々しく叫んだ。

 その声を聞いた巧は、暗く揺れる水面にゆらゆらと浮かぶ白い何かに気がつき、腕の力を弱めた。

「待ってろ。」

 巧はそう言うと彼女の拘束を解き、海の中へと足を進めた。

 革靴の中から次々に入り込んでくる海水が、足元から冷たく覆っていく。

 海水が巧の腰元まで来ようとしたところで、何とかその白い何かに手が届いた。

 向日葵の刺繍が施された小さな白いハンカチだった。

 巧は安堵のため息をつきながら後ろを振り返り、砂浜へと引き返した。

 「ごめんな。何か良からぬことを考えてると思って、つい力を入れて止めてしまった。痛かったろ。」

 そう言いながら初めて彼女に向き合った巧は、月明かりに照らされた彼女の表情を見て全身を硬直させた。

「…玲?」

 目に涙を浮かべながら優しく微笑んだその少女に、巧は思ってもいない名前を呟いていた。

「…え?」

 あどけなくも大人びた、綺麗な顔立ちをした目の前の少女は、少し戸惑いながら巧の顔を覗き込みながら呟いた。

 その声で我に返った巧は、改めて少女の表情を見た。

 髪型が似ていたからだろうか、確かに微かな面影こそあったが、やはりよく見てみればそれほど似ているようには感じなかった。

 それなのにどうして、咄嗟に君の名前が口に出てしまったのだろう。

 巧は自分自身を殴り倒したい衝動に狩られた。

「いえ、大丈夫です。本当にありがとうございました。」

 セーラー服の上から薄いコートを羽織ったその少女は、一瞬戸惑うような表情を見せるも、すぐにまた優しく微笑み、小さな声で巧に礼を告げた。

 そんな彼女の澄んだ優しい声は、巧の心をゆっくりと落ち着かせた。

 巧はふぅっと一息つき、少女に微笑み返しながら左手に持ったハンカチを差し出した。

「このままじゃ二人共風邪をひく。あっちに俺の車があるからとりあえず向こうに戻ろう。」

 少女は小さく頷いて、巧からハンカチを受け取った。

 家出でもしたのだろうか。

 どの道、見知らぬ子どもを車で家に送るというのも気が引ける。

 家に連絡してもらってここまで迎えに来てもらうのが無難だろう。

 冷静さを取り戻した巧は、淡々と今後の事を頭で整理しながら、駐車場の方へと歩き出した。

 海に浸かったスーツのズボンが巧の下半身にベットリと不快にまとわりつく。

 巧の後ろからはサクサクと砂音を鳴らしながら、小さな歩幅でついてくる足音が聞こえていた。

 玲、俺を呼んだのは彼女を助けて欲しかったからか?

 巧は返事などあるはずがない問いかけを心の中で繰り返しながら、ゆっくりと砂浜を歩いた。



 巧は駐車場に併設された公衆トイレで、ずぶ濡れになったスーツのズボンと下着を着替えていた。ジーンズにスーツのジャケットというなんともアンバランスな上下になってしまったものの、会社に泊まり込む時のために着替えを多めに持ち歩いていて良かったと感じながら、半分が海に浸かった冷たいコートを抱えて車に戻った。

「おまたせ。ごめんな、俺だけ着替えさせてもらって。」

 着替えを終えた巧はエンジンの掛かった車の運転席ドアを開け、助手席にちょこんと座る少女に、先程自動販売機で買ったホットミルクティーの缶を差し出した。

「いえ、そんな。元々私のせいなのですから。…いただいていいんですか?」

 巧が頷くと、少女はおずおずと缶を受けとった。

「ありがとう、ございます。」

 少女は弱々しい笑顔を巧に向けた。

 少女はローファーとソックスを脱ぎ、車のヒーターで小さな素足を温めながら、巧に渡されたミルクティーをこくこくと飲み始めた。

「…温かい。」

 少女は穏やかに微笑んだ。

 巧はそんな彼女の笑顔を見ると、再び自身の心が不穏にざらつく気配を感じたが、ミルクティーと共に買ったブラックコーヒーを口に流し込んで強引に感情を落ち着かせ、優しく彼女に問いかけた。

「さて、こんな時間にどうしてこんな場所にとか、色々と聞きたいこともあるんだけど、そんなこと初対面の奴に言いたくもないだろうし、こちらも聞くつもりは無い。けど、親御さんは心配しているんじゃないのか。すぐに連絡して迎えに来てもらいな。」

 少女は顔を曇らせ、ミルクティーの缶を両手で持ちながら俯いた。

「けんかでもしたか?気まずいかもしれないけど、すぐに連絡したほうがいい。携帯を忘れたんなら俺のを貸して…」

「…ない…です。」

 巧が言葉を続けていると、少女はか細い声で静かに呟き始めた。

「もう、いないんです。…私には。」

 巧は、思ってもいない少女の返答に一瞬躊躇ったが、再び優しく問いかけた。

「なんか、事情が変わったな。言いづらいかもしれないけど…詳しく聞いていいか?」

 少女は小さく頷き、暫しの沈黙を置いた後にぽそぽそと話し始めた。

 自身の両親は彼女が幼い頃に離婚し、以来母親と2人暮らしだったこと。

 その母親は、彼女が13歳の頃に病気で亡くなり、それからは母方の祖母に引き取られたこと。

 優しい祖母と貧しいながらも穏やかに暮らしていたものの、その祖母も昨年病気で倒れたこと。

 その祖母が、 倒れる数週間前に彼女の父親に会いに行き、自分の命がそう長くないことを告げ、彼女の住む場所と生活費の工面を依頼するために頭を下げていたのを後に知ったこと。

 それからは、彼女の父親が用意した部屋に一人で住みながら、祖母が入院する病院に足繁く通っていたこと。

 その祖母が、亡くなったこと。

「今日が四十九日だったんです。」

 少女は瞳に涙を浮かべながら話し続けた。

「おばあちゃん、お金かかるから、お墓なんて建てないでほしいって、お骨はおばあちゃんが大好きだった海に撒いてほしいって…。だから、今日、1人ぽっちだけど、おばあちゃんに会いに来たんです。けど、寂しくて、中々帰れなくて…。」

 巧は、身体を縮こませてすすり泣きをしている少女に何と声をかければ良いのか分からなかった。

 暫らく車内には、少女の泣き声と車のエンジンの無機質な音だけが聞こえていた。

「…ハンカチが風で飛ばされた時。」

 暫らくの沈黙の後、少女は鼻をすすりながら静かに口を開いた。

「最初は、どうしようって、思ったんです。けど、不意にこのまま私も向こう側に行けば、おばあちゃんと離れ放れにならなくて済むのかなって。だから、お兄さんの予感は間違ってなかったんです。」

 巧は顔を強張らせた。

「それは絶対にだめだ。おばあさんもそんなこと望んじゃいない!」

 巧は思わず声を荒げてしまった後で、しまったと思い咄嗟に少女の顔を見た。

 少女は巧の予想に反して、綺麗な目を真っ赤にさせながら穏やかに微笑み、巧の方を真っ直ぐに見ていた。

「はい。今なら私も心からそう思います。だから、本当にありがとうございました。」

 巧も安堵の笑みを見せて頷いた。

 強い子だな、と巧は思った。

「申し遅れましたが、私は一ノ瀬鈴花といいます。月城高校の2年生です。」

 少女は涙を拭いながら口を開いた。

「月城高?」

 巧は思わず聞き返した。

 県立月城高等学校は、巧の住む月城市にある進学高だった。

「ここから電車で通ってるのか?」

「おばあちゃんと一緒にこの町に住んでいた頃はそうしていました。けど今は、月城市にあるアパートに引っ越してそこから通っています。」

 鈴花の表情が若干曇ったのを巧は感じた。

 鈴花の話に出ていた父親が手配した部屋なのだろう。

 彼女の話し振りを聞いていても、父親に良い感情を持っていないことは明白だった。

「凄い偶然だな。俺も出身はここなんだけど、今は月城市に住んでいるんだ。」

 巧は彼女の気持ちを和らげるため、若干おどけるように話した。

「実家に帰って来てて、ちょうどこれから月城に帰るところだったんだ。ついでだから家まで送っていくけど、万が一途中で警察官に止められたらちゃんと親戚のふりをしてくれないと困るぜ。」

 鈴花はクスクスと笑いながら頷いた。

 巧は財布から名刺を1枚取り出した。

「俺の自己紹介がまだだったな。柏木巧といいます。月城の出版社に勤めてる。」

 巧はそう言って鈴花に名刺を差し出した。

「柏木…巧さん…」

 鈴花は、巧から名刺を両手で大事そうに受け取ると、まじまじと名刺を眺めていた。

「小さい会社だけど、社名に見覚えあった?」

「い、いえ。」

 鈴花は少し焦ったように顔を上げた。

 巧は特に気にも止めず、車内のラジオを点けて車を発進させた。

「格好良い車なのに、海の臭い着けちゃってごめんなさい。」

 鈴花は照れるように頭を下げた。

「俺も共犯さ。」

 巧はハンドルを握りながらははっと笑った。


 帰路の道中、鈴花は自身の事について色々と話してくれた。

 父親は、母親と別れる以前は事業に失敗して多額の借金を抱えていたそうだが、母を捨てて別の女性と一緒になってからは、皮肉なことに新しい事業に成功し裕福な暮らしをしているらしい。

 祖母からの頼みもあったからか、十数年ぶりに鈴花に会いに来た時には、どこかよそよそしく他人行儀だったとのことだ。

「父は、私に毎月十分すぎるお金を振り込んでくれています。お家の家賃も払ってくれていますし。けど。」

 鈴花の口調が強まる。

「私は母を捨てたあの人のお世話になんて、絶対になりたくないんです。なので振り込まれるお金には少しも手を付けていません。お家は、おばあちゃんの家も取り壊しが決まっているので今は仕方ないですけど、就職したら今までの家賃と併せて全部返すつもりです。」

 鈴花の小さな手に力が入ってるのを巧は感じた。

「それじゃあ、今はどうやって生活しているんだ?」

「近所の本屋さんでアルバイトをして暮らしています。学費はおばあちゃんが亡くなる前に全て払ってくれていたみたいで。本当に感謝しています。」

 巧は鈴花が相当の無理をしているのを察した。

 高校生がアルバイトに使える時間などたかが知れている。

 自身のお小遣い稼ぎ程度ならまだしも、一人暮らしに必要な生活費を賄うのには無理がある。

 けれど、と巧は思った。

 彼女の父親に対する憤りは理解できるし、部外者である自身の立場からできることは無い。

 彼女がそう決意して努力しているのであれば、それを止める理由は無いのだ。

 それから巧は、少しでも鈴花の気を紛らわせようと、自身が手掛ける情報誌の話や月城市の美味しいカフェの話等をした。

 鈴花は楽しそうに巧の話に相槌を打っていた。

 そうこうしているうちに、巧の車はあっという間に月城市に到着した。

 鈴花の案内で訪れたアパートは、どうやら団地の集合住宅をリフォームしたもののようで、想像以上に大きく立派な建物だった。

 鈴花の父親も、今まで放置していたとはいえ実の娘を思いやっていることが何となく窺えた。

 巧はアパートの脇に車を停めると、助手席に座った鈴花は何やら照れるような素振りをしながら手をもじもじとさせていた。

「どうした?気分悪いのか?」

「いえ、全然平気です…その、今日は本当にありがとうございました。それで…。」

 鈴花は思い切ったように言葉を続けた。

「その、お礼にもなりませんし、大したおもてなしはできませんが、うちでお茶でも飲んでいきませんか!」

 鈴花の顔が赤らんでいる。

 巧は腕時計に目をやった。

 既に時間は23時を過ぎようとしていた。

 こんな時間に一人暮らしの少女の家に上がり込むのは気が引けたが、今日は彼女にとっても大変な1日であったはずだ。

 少しでも彼女の気を紛らわすことができるのなら、と巧は思った。

「分かった。じゃあ、あまり遅くならないように1杯だけご馳走になろうかな。」

 巧がそう言うと、鈴花の顔はぱあっと明るくなった。

「はい!あの、私の部屋番号の駐車場を使ってください。」

「分かった。」

 巧はそう答えると再び車を動かし、敷地内の駐車場に車を移動させた。

 今までとても大人びて見えた彼女だったが、初めて年相応の少女のような振る舞いを見せたことが、巧にはなんだか面白く思えた。

 アパートの階段を登っていくと、建物の造りが外観以上にしっかりしていることが窺えた。

 各部屋にオートロックが完備されているし、防犯カメラも設置されていた。

 それだけに、彼女の部屋に入った際には驚かされた。

 綺麗にリフォームされたワンルームの部屋の中にはTVひとつ無く、整然と畳まれた布団以外には小さなテーブルが1つ置かれているだけだった。

「その、何もありませんが部屋でゆっくりしていてください。今お湯を沸かしますから。コーヒーと紅茶、どちらが良いですか?コーヒーはインスタントしかありませんけど。」

「ああ、じゃあコーヒーを貰おうかな。」

 巧は少し戸惑いながら鈴花の問いかけに答えた後、リビングに腰掛けながらいそいそと鈴花が動き回るキッチンの様子を伺っていた。

 しっかりと自炊しているのだろう、殺風景なリビングに比べ、キッチンには小さな冷蔵庫や炊飯器が置かれており、食器や調味料も一式揃っているようだった。

 そんな時だった。

 台所から何やら「グウー」という音が聞こえてきた。

 ふと鈴花の顔を見ると、顔を赤らめながら下を向いていた。

「すみません。朝から何も食べていなかったので…。」

 鈴花が恥ずかしそうに縮まるのを見て、巧は声を出して笑いながら立ち上がった。

「確か向かいにコンビニがあったよな。何か適当に買ってくるけど嫌いな食べ物はあるか?」

「い、いえ。何も。けど、せっかくお礼で来ていただいたのに、これ以上ご迷惑は…。」

「いいからいいから。ちょうど煙草吸いたいと思ってたからそのついでだよ。すぐ戻る。」

 巧はそう言って部屋を出ると、アパートの向かいにあるコンビニで適当に買い物をしてすぐに部屋に戻った。

 鈴花が開けてくれた玄関ドアの向こう側には、鈴花が用意してくれたコーヒーの良い香りが広がっていた。

「お待たせついでにキッチンを借りていいか?コーヒーが冷める前にでかすから。」

 鈴花は小さく頷いた。

 巧はコンビニで買った乾麺のパスタ麺とツナ缶で簡単なパスタを拵えた。

 長らく父親との二人暮らしをしていたこともあり、巧の料理の手際は慣れたものだった。

「お待たせ。出来合いの物を買ってきても良かったんだけど、味気ないかなと思って。」

 リビングから興味深げにキッチンを覗きこんでいた鈴花の前に、巧はパスタの皿を出した。

「お口に合えばいいですが。」

「ありがとうございます。いただきます。」

 鈴花は巧に礼を告げ、小さな両手を合わせてパスタを口にした。

 巧はコーヒーを啜りながら、小さな口で黙々と上品にパスタを食べる鈴花を眺めていた。

「…美味しい。」

 鈴花は口元をハンカチで拭きながら呟いた。

 巧は鈴花が目に涙を浮かべていたことに驚いた。

「おいおい、泣くほど手の込んだ物は作ってないぜ?」

「…本当に、美味しいです。最近、何を食べても全然味がしなくて。こんなに美味しいお料理、久しぶりに食べました。」

 彼女の境遇を考えれば無理も無い。

 長らく節制した生活をしているのはこの部屋を見れば明らかだったし、最愛の祖母を失った彼女の心境は計り知れない。

 巧は静かに頷きながら目を瞑り、コーヒーを口にした。


「コーヒーご馳走さま。それじゃ、そろそろ帰ろうかな。」

 巧がそう言って立ち上がると、あっという間にパスタを完食していた鈴花は少し寂しそうな表情を浮かべた。

 巧は鈴花のそんな表情を見て、若干心苦しい気持ちになったが、今日始めて会った部外者がこれ以上自分から干渉するのは良くないと思った。

 それでも。

 巧は口を開いた。

「さっき渡した名刺をくれないか?それと、ペンとか書くものを貸してくれれば。」

「は、はい。」

 鈴花はいそいそと名刺とボールペンを用意し、巧の前に出した。

「少し冷たい言い方になるかもしれないけど、俺は、今日君に初めて会っただけの大人に過ぎない。」

 巧の言葉に鈴花の表情が固まった。

「けど、こうして偶然会ったのも何かの縁だ。俺から君に会いに来ることは無いけど、もし君が困った時には連絡してくれ。その時は、今日みたいな簡単な料理で良ければいつでもご馳走するよ。」

 巧はそう言いながら、名刺に自分の携帯電話の番号を書き込み鈴花に返した。 

 鈴花は目に涙を浮かべながら微笑み、深々と頭を下げた。

「はい。ありがとうございます。」

「それから、冷蔵庫にさっき適当に買ってきた食べ物を入れといたから。腐らせる前に食ってくれ。」

 巧は小さく頷くと、そう言って部屋を後にした。

 鈴花は巧が玄関のドアを閉めるまで、ずっと深々と頭を下げていた。

 アパートの階段を降りきると、巧は煙草に火を点けながら車に向かってゆっくりと歩き出した。

 ただの同情だけではなかったのだろう。

 誰も頼る人もおらず、何の彩りも無い部屋で一人孤独に生活する彼女の姿に、巧は玲の面影を重ねていたことを今更否定できなかった。

 玲と鈴花は正反対だ。

 玲は優しい家族に恵まれていたし、鈴花よりずっと豊かな生活をしていた。

 けれどあの日、悲しげな表情で海を眺めていた玲の姿には、間違いなく孤独という言葉が一番似合っていた。

 玲を救えなかった自分が、今度は彼女を救おうとしているとでもいうのか…。

「馬鹿馬鹿しい。」

 巧はそう独り言を呟き、車のドアを乱暴に開けて乗り込んだ。


 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

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